【紙ふうせんブログ】

令和4年

紙ふうせんだより 7月号 (2022/08/23)

同じ痛みを持つ者として

皆様、いつもありがとうございます。戻り梅雨に猛暑と天候の変化に体調も乱れてしまいますね。気象の変化による酷い体調悪化を「気象病」と言うそうです。「雨が降ると古傷が痛む」と言われる方もおられます。気圧が下がる時に慢性痛が酷くなるものは「天気痛」や「低気圧不調」と呼ばれます。気圧低下によって血管が拡張し神経を圧迫することで頭痛になったり体内の水分バランスが乱れたり、三半規管(内耳)がストレスを感じて交感神経が緊張するなどして体調不良になるそうです。不調のある方は、ご自愛下さい。

「痛み」とは何か

注射器の針、顔をしかめる子供。逃げ腰になってよじった身体を看護師がおさえます。二の腕に針先が触れおもむろに入っていくと、ぎゅっと閉ざした瞳から涙が溢れ出します。痛みへの恐怖感が極まって遂に子供は泣きだしてしまいます……。このような動画を見ると、自分も何だか痛みを感じませんか。人は、他人の痛みに共感する心のメカニズムを持っています。このような「共感性」は、他者を助ける動機となります。

「痛み」とは何でしょう。感覚器官が捉えた刺激は電気信号となって、大脳皮質の「体性感覚野」に伝わります。すると、記憶や感情や思考に関わる大脳の他の部分も反応します。「身体的な痛み」を体性感覚野が受け取ると同時に、不安や恐怖などに関わる「大脳辺縁系」や、判断や意思決定に関わる「前頭前野」が活性化します。この脳の活動が「情動的な痛み」です。注射をされて泣く子供と泣かない子供がいるのは、痛みへの恐怖や執着などの情動的な反応が異なってくるからです。

この「情動的な痛み」とされる脳の活動は、実際の痛みが自分にあるときにも活性化しますが、他者が痛みを感じる姿を見ている時にも同様に活性化します。また、鎮痛剤の効き目に関する実験では、鎮痛剤を投与すると「身体的な痛み」も和らぎますが、「共感の痛み」の感じ方も低下することが明らかとなっています。人は、身体的な痛みも心の痛みも他人の痛みも、同じ「痛み」として感じているのです。

私たちが介護している方々にも、身体機能に問題が無くても苦しみを訴えたり、実際に何らかの症状が身体に生じている方がいます。また、訴えの言葉の中に見られる出来事が本当の事ではないも関わらず本当の事のように訴えて、実際に苦痛を感じておられる方もおられます。身体と心は密接に連動している(心身相関)ことは良く知られてはいますが、私たちは、身体に問題が無い痛みの訴えを「本当の痛み」では無いとして軽く見積もって良いのでしょうか。

そうではありません。その痛みは体験者にとっては「本当」なのです。国際疼痛(とうつう)学会では、「痛み」を「組織の実質的あるいは潜在的な障害に関連する、またはこのような障害と関連した言語を用いて述べられる不快な感覚・情動体験である」と定義しています。言い換えれば、原因不明でも身体に不快な反応として現れるもの、不快な体験として語られる感情の動きは、全て「痛み」なのです。

自らの存在の意味を問う「スピリチュアルペイン」

緩和ケアの提唱者のシシリー・ソンダース(※1)は、「痛み」を身体の問題に還元するのではなく、社会関係や価値観や個人史などその人の存在の全体から生じてくるものとして、トータルペイン(全人的な痛み)という捉え方を提唱しました。人の「痛み」は、身体的苦痛・心理的苦痛・社会的苦痛・スピリチュアルペイン(魂の苦痛)といった多様な側面(※2)を持ち、多層性を持って現れるのです。

「ある人が『痛い!』と訴えたら、医療者はその原因はともかくとして、その個人の情動体験としての“痛み”をそのまま受け止めることから、適切な痛みへの対処が始まることをしっかり認識すべきです」とは、緩和ケア科の関根龍一医師の言葉です。スピリチュアルペインとは個人の人生に関わる苦しみです。痛みに耐えながら生きているという自分に「意味を求めるけれども見いだせない」という苦痛なのです。

※1 シシリー・ソンダース(1918-2005)英国、近代ホスピス運動の創始者。ソーシャルワーカーとして勤務した病院で末期ガン男性と恋に落ち看取る。33歳になって医学校に入学し38歳で医師免許取得。死んでいく人が本人の人生に価値を見出すことが「死にゆく人の尊厳」であるとして、全人的なトータルなケアを目指して、緩和ケアを実践した。

※2古代の臨床心理学とも言える仏教と通底する考え。仏教では、生の苦しみ、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみという「四苦」と、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)、嫌いな人と会わなければならない苦しみ(怨憎会苦)、求めて得られない苦しみ(求不得苦)、身体相関や認知のプロセスから生じる苦しみ(五陰盛苦)を併せて「四苦八苦」とした。

そこに居続けることが、スピリチュアルな支えとなる

正解のない問いに耐えかねて“病気”を“治療”しようとする医療モデルに支援者が逃げ込んでしまうと、利用者の“痛み”は様々な訴えに変化し、コロコロと変わる訴えに支援者が苛(いら)立つこともあるでしょう。「どうしてそんなに痛がっているの?本当に痛いの?」「あんなに説明をしたのに、どうしてわからないの?」と言い放ってしまう時、支援者は「支える」ということに挫(くじ)け「共感」を手放しそうになっています。

「支える」とは、「その人の杖になる」ということです。「杖」が重みに負けてグラグラしていたら「杖」にはなりません。「あっちだ、こっちだ」などと利用者を引っ張っていくことも「杖」は行いません。スピリチュアルペインは、「あっちに行けば解決する」などといった単純なものではないからです。

支援者に必要なことは「何も答えられなくても、そこに留まる覚悟」です。答えを見出すのは支援者ではなくその人自身であり、「杖」の役割は、人生の終わりに向かってその人が自分の足で歩いて行けるようにそばに居続けることです。シシリー・ソンダースはスピリチュアルケアについて「答えにくい質問をいくつも抱えた患者と家族のそばに、何も答えられないままとどまっている人々は、そばにいることによって患者と家族が求めているスピリチュアルな救いを提供している自分に気づくことになろう」と述べています。

「痛み」を抱えながら生きることの意味

人間の本質を表す言葉に「生(しょう)老(ろう)病死(びょうし)」があります。「生」は「生まれる苦しみや生きる苦しみ」のことです。続く「老病死」もどんなに健康な若者でも潜在的な「苦痛」を生まれながら持っているということを示しています。自身の「生老病死」の自覚は、相手の痛みを理解する「共感性」の原動力となります。「共感性」には、相手の心に同期して同じ感情を抱く「直感的な側面」と自分の「痛み」を相手と重ね合わせて、経験から相手の気持ちを想像する「認知的な側面」があります。

目の前の人を「自分と同じ痛みを持つ者」として感じ想像すること。「同じ痛みを持つ者が、同じ痛みを持つ者を支える」ということが、人が人を支えることの本質です。あなたは私であり、私はあなたです。私の痛みはあなたの痛みであり、私があなたのそばにとどまりながら、そっとあなたの痛みを抱きしめようとする時、同時に私はあなたから抱きしめられているのです。「痛み」には人と人を寄り添わせる力があります。あなたや私の「痛み」には、きっとかけがえのない意味があるのです。

 

紙面研修

「痛み」と共に生きる

身体的な「痛み」というものは、怪我をした時などに身体に無理をさせない防御反応として、さらには、次の失敗を回避するために強い情動の反応として記憶する面がある。情動が主体の痛みはどうだろう。「悩ましくて頭が痛い」「痛恨のミス」などの言葉もある。心が痛むことは確かに「心もとない」ものではある。不安が強いあまりに「嫌だ」という感情が主体化すると、心の痛みは「苦しみ」としてラベリングされる。過ちを繰り返さぬよう、体罰という「痛み」をもって体に覚え込ませるやり方や厳しい叱責なども「苦しみ」のラベリングを強化する。「心の痛み」は、それを「嫌なこと」として拒否的に構えてしまうと苦しみの情動が再現されて、「苦痛」として認識されてしまうのだ。

農業指導の実践者であり詩人の宮沢賢治は、その類まれなる共感性によって心に多くの痛みを抱えながら生きた人である。賢治は「心の痛み」を「苦痛」にしてしまうのではなく、「けれどもここはこれでいいのだ」と避けがたいものとして「悲しみ」として純粋に受け入れた。「生老病死」からは逃れられない人間の運命を悲しんだのだ。賢治の悲痛な悟りはやがて透明な言葉となって人の心を潤す詩となった。賢治は、偉ぶって自分をガードしてみせるよりも、相手よりも低い位置に我が身を置き、「共感の痛み」を引き受けようとした。人々の悲しみに寄り添い一緒に悲しみを慈しむ「慈悲」の生き方を選んだのだ。




もうけっしてさびしくはない

なんべんさびしくないと云ったとこで

またさびしくなるのはきまっている

けれどもここはこれでいいのだ

すべてさびしさと悲傷とを焚いて

ひとは透明な軌道をすすむ 

宮澤賢治 (「小岩井農場」より)




「雨ニモマケズ」

       宮澤賢治

 

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにでくのぼーと呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしはなりたい




【考えてみよう】

賢治はどうして木偶(でく)の坊(ぼう)(役立たず)と

呼ばれる事を良しとしたのだろう。

 

参考資料

『スピリチュアルペイン』に向き合う覚悟とは(日本終末期ケア協会)

孤独、寂しさ、落ち着きのなさ、不安などの精神的苦痛は、あくまでも「症状」であり、取り除くべく環境を調整することが必要です。環境が変わって眠れないのであれば、眠前に足浴をしたり、安心するように訪室をこまめにしたり、時には薬剤治療も併用したりして、つらさの緩和をしていく必要があるでしょう。

しかし、スピリチュアルペインは意味や価値の喪失であり、完全に取り除くことはできません。いくらベテランの医療者でも、その人が抱えている意味や価値の喪失の特効薬などは持ち合わせていないでしょう。それでも、「何とかしてあげたい」と多くの医療者は解決する方法を考えます。

大切なことは、その見えない意味や価値を一緒に考えていくこと、見放さずに傍にいること、一人ではないとメッセージを伝え続けることで「共にある」という道のりを歩んでいくこと。これこそがスピリチュアルケアなのです。スピリチュアルケアをしようとする医療者にとって必要なことは、「解決」ではなく「覚悟」です。「共にある」ことは何もできない自分と向き合うことでもあります。そんな何もできない自分でも、一緒に苦しみを見つめ続けようとする「覚悟」なのです。


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