【紙ふうせんブログ】

平成27年

紙ふうせんだより 9月号 (2016/02/08)

皆様、いつもありがとうございます。日が暮れるのもずいぶんと早くなってきました。
仕事が終わってスーパーで買い物をすると、大きな月が自転車を追いかけてきて…ついゆっくりとペダルを漕いでいませんでしたか? 9月27日は中秋の名月でした。

月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月
読み人知らず
この句は「毎月毎月、月を見る事は多いけど、見る価値のある月は、この月の月です」という意味です。さらに一つの句の中に「月」を8つも出す事によって旧暦の八月(中秋)も暗示して中秋の名月も称え、とても洒落ています。
多くの人に見られている多くの月があって、客観的にそれを考えると自分が眺めている空の月こそ特別な月などとは決して言えません。しかし主観的に「この月が良い!」と言う事によって、読み手の月を見ている高揚感が伝わってきて、とても印象的です。
月天子   宮澤賢治

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射していゐるのもはっきり見た
後そこがたいへんつめたいこと
空気がないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
――ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運動が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない

以前客観的な「月」と主観的な「月」も取り上げましたが、宮澤賢治の未発表原稿の中に「月天子」という詩があります。
賢治は科学知識も豊富で“客観的”に月を理解していますが、一方で月を「月天子」として、“主観的”には“仏様”のように尊んでいます。
「人」に対してはどうでしょうか。

もしそれ人とは人のからだのことであるとさういふならば
誤りであるやうにさりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに

賢治にとって人とは「身体」でも「身体と心」
でも「心」でも無いのです。では、賢治は人に対
してどのように理解していたのか。岩石の塊であ
る月を“仏様”のように尊ぶ賢治は、人に対して
も同様であったと伺われます。客観的な科学的事
実は、人を“仏様”のように主観的に敬う事に、
何の障害にもならなかったのです。
客観的事実と主観的意味はまったくの別物で、
一つの事象に対して2つの見方があり、それらは
両立するのです。

客観的な情報が大切な時
さて、介護現場で情報の客観性が求められるのは、利用者さんの体調や病状を正確に把握し、人に伝えたりする時です。この場合の客観とは“事実”に基づく見方となります。
例えば、「○○さんが風邪をひいています」と、ヘルパーさんから連絡があったとします。
これは、客観的でしょうか、主観的でしょうか。実はこの連絡だけでは必要な情報が欠けていて、事実(=客観)かどうかは解りません。それは、“誰が風邪と判断したのか?”という情報が欠けているのです。もし、医者に風邪だと言われた場合は、「風邪をひいています」という情報は客観的事実だと言え、その場合は「医者にかかって風邪だと診断されたと家族が言っています。咳が少し出ています」が、客観的な一番“正確”な言い方です。しかし、ヘルパーさんが、咳き込んでいる本人を見て「あぁ、風邪だろうな」と判断して伝えている場合は、それはヘルパーさんの主観的判断という事になります。もし、ヘルパーさんの言葉を根拠に「軽い風邪だから大丈夫」と関係者が思っている間に症状が進行し、実は「誤嚥性肺炎」だったとあっては、悔やまれる失敗になります。
利用者さんの体調や病状など正確さが求められる場合は、情報をキャッチし発信する時、「何の根拠に基づいてそれを誰が確認し、誰の判断で」という確認が重要です。「ご家族が風邪だと言っています」というのも、情報の精度としては甘いです。ご家族の自己判断なのか、医者の診察を受けたのか等は、必須です。というのも、ご家族が「大丈夫、いつもの事だから」と言っていても様子がおかしいので、強く医者への受診を勧めたところ、実は「骨折だった」「硬膜下血腫だった」「正常圧水頭症」だったというケースがこれまでにもあるのです。正確さを求められる情報を自分が発信する場合は、その情報の確認と伝達内容が、客観的事実であるか、主観的判断は含まれていないかを意識して欲しいと思います。
介護現場で主観的な見方が重要な場合
さて、言葉による意思表示が難しい利用者さんが「楽しんでいる様子でした」と伝達する場合、これは「楽しんでいました」と断定していないところは客観的な装いをしていると言えます。しかし、この言葉には「楽しんでいる様に(私からは)見えた」という主観的な判断が隠れています。本人の自己申告が無い場合、内容としては完全に主観的なものなのです。
このような情報をヘルパーさんに尋ねると、自信のないサービスに限って「わかりません」という言葉が返ってくる事が多いように思われます。また、ヘルパーさんによっては単純に主観的な情報は良くないと勘違いしている方もあるようです。しかし介護現場こそ主観的な見方を、胸をはって述べて頂きたいと思うのです。
というのも、先ほどの宮澤賢治の例にあるように、ものごとの“意味”や“価値”に関わる事は、究極的には客観的というものは無いからです。一つ考えてみてください。「客観的に“幸せ”と判断できる基準や、人生はあるだろうか?」と。私達は多くの方の人生を垣間見ていますが、幸せそうな家族にも苦悩はあり、苦悩に沈んでいる人にも幸せを感じられる心や場面や環境があるという事を知っています。要は、どこに焦点をあてて注視するのか、という問題なのです。価値観に関わる時、真実の客観は存在しません。そして介護は、価値観の問われる仕事であるため、主観的にどう判断するかが重要なのです。

主観的に判断する時、自覚して欲しい事
「楽しんでいる様子でした」という主観的判断の内容を詳らかにするならば、次のようになるでしょう。『“私が”「楽しんでいる」と感じた(=それは、私自身が楽しかったから)。その自分自身の気持ちをベースにして見た時、利用者さんは「楽しんでいる様に見えた」』と。
この時の“私が”という気持ちを自覚する事は、積極的に相手の気持ちを“想像”する事と同じです。それは相手に気持ちとして寄り添って行く事になります。そのような態度が無いかぎり、意思表示が難しい利用者さんと関わる事は困難と言えるでしょう。もし、「利用者さんが本当に楽しいかどうかは、どうせ解らないから考えても無駄」という事ならば、仕事としてのやりがいは失われ、最悪の場合は思考停止となって虐待につながるかもしれません。また、『私自身が楽しかった』けど「本当に利用者さんも同じ気持ち?」という事も、何度も検証して欲しいのです。子供同士のイジメの言い訳によくあるような「自分は楽しかったので相手も楽しんでいると思いました」というような自分本位の感情を防ぐためです。
虐待を防止し介護の価値を高めていくためには、積極的に主観的判断を積み上げていく事が重要です。それが介護職員の真の主体性です。利用者さんのどんな仕草を見て、自分自身のどんな感情をベースにどのように主観的に判断したのかを自覚して下さい。そしてその内容を客観的な言葉で周囲にも積極的に言いましょう。他人に言って意見をもらう事によって、自分の判断や感性や磨がかれます。虐待等をしてしまう人の傾向性として見られる「組織の中で自分の意見を表明できない」「主体性が無い」等は、決して偶然では無いのです。
主観的判断の先の主体性 私はどのように行動するのか
ところで宮澤賢治は、法華経や日蓮を熱烈に信仰していた事はよく知られています。賢治が影響を受けたであろう日蓮の言葉に「浄土と云い穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」があります。「極楽浄土のような環境も、地獄(穢土)のような環境も、環境である事に違いは無い。環境と人間の相互関係の中で、どこに焦点をあてて注視するかという主観的な判断と態度が、実は環境に影響を及ぼし環境の違いを作り出している。では浄土と穢土の差は一体何で生じるのか、全体の良し悪しは一人一人の心の善悪によるのだが、特にその人自身の環境から幸・不幸をどのように受け取るかは、その人自身の心のあり方で決まってくる」という意味です。ことわざに「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」とありますが、日蓮の主張も「その人(主体)とその人の環境(客体)は切り離せない」とうものです。もし本当に、自分自身の環境を作るのは自分自身であるならば、それは自分自身の意思を信じる究極の主体性ではないでしょうか。介護職の一般論で言えば、「待遇が悪いからやる気がでない」「職場が悪いから良いサービスが出来ない」というような主体性なき態度では、ますます環境を悪化させてしまい、決して良い介護はできないでしょう。
主観的判断の先には、では、私はどのように行動するのかが問われてきます。宮澤賢治の手帳にある「雨ニモマケズ」には、“弱者”に対する深い慈しみと共に賢治自身も同じ“弱者”として、救済の為に行動せんとする強い意思が感じられます。賢治にとっては、弱者こそが“仏様”であったのかもしれません。私自身も、認知症やその他どんな病気や障害の方に対しても、一人一人を唯一無二の存在として尊び敬う行動できるようになりたいと思います。

【硬膜下血腫】
頭がい骨の内側にある硬膜と脳を包んでいるクモ膜の間にある静脈から、少しづつ出血して血腫になったものです。
原因は、転倒により頭を打った事が多く、初期は自覚症状がまったくありません。「頭を打ったけど、骨折も無かった。いつもの生活に戻れた」と本人や家族が胸をなでおろしている間にも、じわりじわりと硬膜の下から出血し、血腫が脳を圧迫してしまうのです。
血腫が脳に障害を与えるほど大きくなった時に、脳梗塞の片麻痺のような自覚症状が現れます。片側がしびれる、力が入らない、めまいか気持ちが悪いなどで、転倒を繰り返す場合があります。
硬膜下血腫の危険を予測して、頭を打ったあと3ヶ月くらいは、慎重な経過観察が必要です。
もし、硬膜下血腫ができたとしても、血腫が周辺組織に自然に吸収されてそのまま治る場合もあります。もし消えない場合は手術で取り除きますが、頭がい骨に小さな穴を開けるだけなので、大変な手術にはなりません。
ただし、硬膜下の出血は慢性化する事があり、硬膜下血腫の再発率は10パーセントとされています。

【正常圧水頭症】
「最近認知症が進んだ」「加齢の為か急に足腰が弱った」「尿失禁するようになった」という、ありがちな症状が実は正常圧水頭症である場合があります。
脳というのは、クモ膜という水風船の中に浮いていて、衝撃や振動から守られています。クモ膜内を満たす水(脳脊髄液)が、何らかの理由で循環不全になり過剰にクモ膜内に水が溜まり、軟膜に包まれている脳がその水に圧迫されて、障害をきたすものです。(脳圧は微妙にしか高まらないため“正常圧”と呼ばれます)症状としては、脳梗塞のような神経症状が多彩に両側に現れる事ですが、特徴的なのは、認知症状・歩行障害・尿失禁です。
町医者に診せたら「認知症」と言われた、というようにアルツハイマーやパーキンソンとの誤診も多く、実は、大きな病院で調べたら正常圧水頭症だったという事があります。正常圧水頭症と診断されたら、むしろ喜ぶべきかもしれません。正常圧水頭症は、脳脊髄液の量を減らしてやる事によって、治癒する可能性もあるのからです。手術によって、歩けなくなった方がピンシャン歩けるようになったり、認知症状がすっかりと無くなる場合があります。(※改善が見られない場合もある)
ただ、正常圧水頭症である期間が長い場合は、足腰に力が入らない事からくる筋力の低下や、脳そのものへのダメージの蓄積も心配です。正常圧水頭症を疑う場合は、その後の回復の事も考えて早めの検査が必要です。

【大腿骨頸部骨折】
高齢になって骨粗鬆症になると、ちょっとした転倒でも骨折してしまう事があります。
骨折部位でやっかいなのは、大腿骨頸部や大腿骨転子部です。これらは脚の付け根の股関節にあり、ふとももの骨(大腿骨)を骨盤とつなぐ役目を持っていますが、ここを骨折すると歩けなくなります。最悪の場合は、寝たきりになってしまいます。
ちなみに医学的には“ひび”が入っている状態も骨折と言います。ひびが入っている状態で、痛みは多少あるものの我慢して歩いていた方がだんだん歩けなくなってきた場合には、患部が悪化して痛みが増し、骨折側の足に体重が乗せられなくなって歩けないと訴えます。
認知症があって、自分の体を正確に認識したり人に伝えられないような方で、普段から膝や腰の痛みを訴えながらようやく歩行をしているような方は、大腿骨頸部骨折が、それとは気が付きにくい場合がありますので、要注意です。


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