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令和2年
紙ふうせんだより 2月号 (2020/04/30)
虐待防止と権利擁護(ようご)
ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。梅の花が綺麗に咲いていますね。寒さもインフルエンザも峠を越していますので“一安心”と言いたいところですが、新型コロナウイルスが流行の兆しです。むやみに公共物を触らない、触った手で目や鼻や口を触らない、手洗いうがいの励行、マスクを着用(予防効果は高くはないようですが)するなど意識的に予防を心がけましょう。さて、前号では倫理の根幹にある「人権」について意識的になる必要性を述べ、複雑な課題も「権利擁護(※1)」に集約されるように記しましたが、今号ではさらに深堀りをして虐待の構造の中にそれを見ていきたいと思います。
虐待件数はなぜ減らないのか?
(下画像:2019.3.26産経新聞より)
平成18年に高齢者虐待防止法が施行され、それ以来さまざまな介護保険事業所で虐待防止研修が行われてきました。しかし、施設職員による虐待件数が11年連続で増加し続けています。厚労省は「社会的関心の高まりで通報件数も増え、虐待が顕在化してきているのではないか」としています。社会的関心の高まりは同時に介護職員や施設の意識も高めているはずで、相談・通報に対する虐待判断の比率は確かに年々低下しており、介護保険事業の取り組みは一定の効果を上げています。一方で、昨年は虐待殺人事件(※2)が発生しました。背景には人手不足も指摘されていますが、他人事ではなく自身の事として虐待に至る要因を考えてみましょう。
※1アドボカシーの訳語。法律用語では「社会的弱者やマイノリティーの権利擁護・代弁」「社会環境による性差撤廃」「地球環境問題」など広域な分野での活動や政策提言を意味していた。医療介護領域では、自ら自己の権利を充分に行使することのできない終末期患者や障害者、アルツハイマー病、意識喪失の患者などの権利を代弁することなどがあげられる。
※2 昨年4月には有料老人ホームで夜勤中の介護職員が利用者を暴行して殺してしまう事件も起きた。
虐待は無防備な“善意”から生じる
増え続ける虐待判断件数の中には、「“悪意”は無かったにも関わらず、虐待判断となった」または、「“善意”で行ったにも関わらず虐待判断となった」というケースも含まれている事でしょう。介護職員は研修等で 「虐待は良くない、これをやったら虐待」という事は学んでいるはずです。にもかかわらず「虐待」だと思い至らずに、自分自身が当事者になってしまうケースが確実にあるのです。善意は、それが善意であるがゆえに、善意の行為者自身から疑われにくいという傾向を持っています。ことわざには「角(つの)を矯(た)めて牛を殺す」とありますが、曲がった牛の角を“善意”で見栄えよく真っ直ぐにしてやろうと叩いたり引っぱったりしていたら牛が死んでしまった、というものです。自らの“善意”に対して疑いの目を持たない“善意”は無防備です。無防備な“善意”は結果的に“悪”となってしまう事があります。そのような善意の罠に陥らないようにする為には、自分自身の“善意”を疑ってみるという、自分に対する厳しさが求められます。他人の人生に関わる対人援助職という責任上、そのような内省は必須のものなのです。
多数者の利益を優先する社会とは?
線路を走っていたトロッコが制御不能になり、このままでは前方の作業員5人が猛スピードのトロッコに轢き殺されてしまう状況を仮定します。目の前には線路の分岐器があり、『私』が操作をすれば5人の命は助かります。しかし、実は切り替えた先にも1人の作業員がいて、5人か1人のどちらかの死が確実で避けられないものである場合、『私』はどうするべきだろうか。『私』が何もしない場合5人が死に、『私』が分岐器を操作すれば1人が『私』によって殺される…。倫理学の思考実験の「トロッコ問題」が突きつけているのは、「多数のために少数への犠牲の強要は正義か?」という問いです。多数が利益を得る代わりに、『私』が1人の人間を直接的に加害しなければならない場合、大抵の人は躊躇します。しかし現代社会は、そのような加害が明確には見えないようになっていて、多数者への利益という“善意”によって、1人に対する加害が隠されています。「多数の為には少数が犠牲になっても構わない」という考えを突き詰めると「全体の為には個人は命を捧げるべきである」という社会になります。そのような社会では、非対称な権力関係があるために権力者や政府の利益は守られる一方で個人の権利はどんどんと奪われて、権力を持たない大多数の権利も侵害されていきます。「トロッコ問題(※3)」から言えるのは、倫理的問題の善悪の判断は「人数や利益の量の問題では無い」という事なのです。しかし現実には、“会社の利益の為には多少の過労死はやむ得ない”“生産性の無い障害者への社会保障は削減すべき”“家族皆が困っているから○○さんには施設に入って貰いましょう”“職員の皆が困るから〇〇さんへの身体拘束はやむ得ない”“自分が皆に迷惑をかけていると思うなら遠慮すべき”といった、多数の利益という“善意”に巧妙に隠された個人への犠牲の強要、100人への人権侵害は許されないが5人への人権侵害は許される」といった考えが存在しているのです。
※3論点を明確にするために「臓器移植を受けなければ確実に死ぬ患者が5人いて、臓器移植をすれば救命されて完全な健康体になると解っていて、5人を助けるために1人の人間が犠牲となって健康な身体から臓器取り出して5人に提供する事は倫理的に可能かどうか」というバリエーションもある。
虐待は非対称な権力関係の中で発生する
現実の社会は様々な主張の折り合いによって成り立っているのですから、実際全ての主張を通すわけにはいきません。場合によっては苦渋の決断というのもあるでしょう。そこで、折り合いを付ける最低限のルールとして、まず「基本的人権の尊重」があります。その次に力関係に差(非対称な権力関係)がある場合は、弱い立場にある人の生命や権利や利益を擁護するべきであるという「権利擁護」の考えが必要となります。「トロッコ問題」を再び思い浮かべて下さい。5人の家族が自分達の安らかな生活の為に1人の利用者さんを「施設に入れてくれ」と声高に主張して、利用者さんは沈黙していたとします。そのような場合、支援者は力関係に引きずられて1人の犠牲を安易に“良し”としてしまいがちです。だからこそ自分で自分の権利を守れない方への「権利擁護」が福祉職の使命とされているのです。
虐待(※4)のほとんどは不適切ケアの延長にあると言われています。不適切ケアは、介護職員が多数の介護職の為に“良かれ”と思って、職員都合のルールを1人の利用者さんに押し付けてしまうところから始まります。介護職員個人が架空の全体に同一化して「少数の犠牲は全体の為だ」と自己正当化して「やまゆり園事件」は起こりました。誤った善意を正当化しない為には「権利擁護」や「基本的人権の尊重」などの基準が自分の中に必要なのです。
※4介護職員と利用者の力関係も非対称である。
紙面研修
不適切ケア・倫理・法令遵守の関係
不適切ケア「勝手に物を捨てる」
利用者さんと話をしていると、「ヘルパーさんの勝手に捨てられた」と言われる事があります。大抵は、利用者さんの了解を得て捨てているのだと思いますが、中には??と思う事もあります。ある利用者さんは、味噌汁を歩行器で運ぶためにコンビニのドリップコーヒーの容器を洗って保管していました。それを、ゴミだと思った誰かが捨てていました。ゴミかどうかを決める権利を持っているのは誰でしょう。
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考えてみよう ・どうしてこのような不適切ケアが始まってしまったのだろう その理由をいくつか考えてみよう。(例・家族が「捨てて下さい」と言った) ・不適切ケアにならないためには、どんな対応が考えられるだろう (例・捨てられない理由を本人に聞く。捨てる必要を家族からも本人に説明してもらう) ・不適切ケアを引き起こしやすい利用者さんの状況について考えてみよう(例・耳が遠い) ・不適切ケアを引き起こす職場環境要因について考えてみよう(例・時間が無い) ・不適切ケアは、他にはどのようなものがあるだろうか ・不敵切ケアを引き起こしてしまう自分自身の要因について考えてみよう(例・弱い) |
世田谷区帰国者・接触者電話相談センター 03-5432-2910 (平日8:15-17:15)
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(休日・夜間)東京都帰国者・接触者電話相談センター 03-5320-4592
2020年4月30日 10:31 AM | カテゴリー: 【紙ふうせんブログ】, 令和2年, 紙ふうせんだより