【紙ふうせんブログ】

令和4年

紙ふうせんだより 12月号 (2023/01/17)

人は一人では生きてはいない

皆様、いつもありがとうございます。コロナ禍はいっこうに収まらず、皆様には負担やストレスを強いた一年だったと思います。申し訳なく思っていますが、一方でその大変さが一人ひとりのたくましくしさを育み、それぞれの人生にとっての良い学びともなっていくようにと願っています。

一年間本当にありがとうございました。年末年始に稼働して下さるヘルパーさんは、本当にありがとうございます。皆様、良いお年をお迎え下さい。

 

人生の価値を決める自身の「態度」

「良いお年を」との挨拶を交わす時、私は本当に「良い」とは何だろう、と考えることがあります。悪い事が起こらないこと? 良い事が多いこと? しかし、悪い事は良く変わるきっかけかもしれないし、良い事に浮かれていれば慢心に足を掬われることもあるかと考えると、良し悪しを一方的に決めつけてしまうことはできません。

例えば、「喜怒哀楽」の「怒哀」を悪い事として感じない様にしてしまえば、人ではなくロボットになってしまいますし、「生老病死」の「老病死」の否定は、人間存在自体への否定になってしまいます。介護の仕事を通じて見えてくることは、手放しで納得できる「老病死」を送っている人などほとんど居ないという事実です(※1)。

そうであれば、悪い事は少ないに越したことはないのですが、生老病死の中にあるトラブルに泣いたり怒ったりしながら生きることが“人生”なのだと観念し、人生の良し悪しはその間に起こる「出来事」の量や内容に本質があるのではなく、出来事に対する自身の「態度(※2)」にこそあるのだと腹をくくらなければなりません。人生の価値の決定権が「出来事」にあるのであれば人生は運任せであり、結果的に「老病死」を恨むことになってしまいます。「出来事」に右往左往するところから主体性を取り戻して自分の人生を生きるためには、出来事に対する自分自身の「態度」にこそ注意を払うべきなのです。

※1 だからと言って納得のいかないケアを利用者さんに強いて良いとは限らない。

※2 V・E・フランクルが重視した人間が最後まで実現しうる人生の価値としての「態度価値」と通ずる。(紙ふうせん便り:令和3年6月号参照)

 

「いいことはおかげさま」

 書家であり詩人の相田みつをさんの言葉に『いいことはおかげさま 悪いことは身から出た錆(さび)』というものがあります。「良い事」が起こった時に、自分の運や力を誇示する「俺様」態度では、「良い事」が終われば取り巻きは離れ自信は吹き飛んでしまいます。自分の存在は、自分ひとりで成り立ってはいないのですから、良い事だからこそ誰かの「お蔭様」という気持ちが大切なのです。

では、悪い事はどうでしょう。そもそも、そういった事はあることだと受け入れる態度でいれば、その中にある良い意味にも気が付いていきます。悪い事を「誰かのせい」にせず、自分の今までの態度を見直す契機とすると良いでしょう。これが心の錆落としです。

そして「自分のせい」にし過ぎてしまうことも決して良くはありません。自分ではどうにもならない運不運や自分の失敗に悲嘆に暮れるのではなく、自分も他人も責めるのではなく、これからをどのようにしていくのかを態度で示していくことが大切です。誰のせいにもしない「お互い様」であれば、自分も他人も切り捨てないで済むのです。

 

 人は繋がりの中で生きている

  『日本人は「人に迷惑をかけちゃダメ!」と子どもに教えることが多い。

それに対してインドでは「お前は人に迷惑をかけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうです。

【迷惑をかけながらでしか生きられない】

そう思うと周りの全てのモノに感謝できそうな気がする。』

 

この言葉はTwitterで注目を集めた投稿です。ここにも「困った時はお互い様」の考えが根底にあります。日本には「情(なさ)けは人の為ならず」ということわざがあります。他人に情をかけるのは「自分の為」でもあるという意味です。一見、自分の利を捨てて他人に尽くすような「利他」の行動も本当は「利己」の行動となるという考えです。

ここには、自他の利害関係が対立している様な偏頗(へんぱ)な捉え方から離れ、本当の人間関係は「互恵(ごけい)的」なものであることに気が付きなさい、という意味が込められています。誰かに迷惑をかけたと思ったら、その分誰か困った人の支えに自分がなればいいし、迷惑をかけられたと思ってもその分だけ自分は「徳」を積ませてもらったのだから、またいずれ誰かに徳を還元すればよい。そんな考えを自分の芯にしていけば、人の顔色を伺って「敵だ味方だ」「損だ徳だ」と右顧左眄(※3)する必要はなく、人と人の確かな繋がりが感じられる人間関係となっていくのです。

人間存在の本質を教えられるということ

2008年に発売されたCDの曲「手紙 ~親愛なる子供たちへ~(※4)」が、一時話題となりました。歌詞には次のようにあります。

『年老いた私がある日 今までの私と違っていたとしても どうかそのままの私のことを理解して欲しい / 私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい / あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は いつも同じでも私の心を平和にしてくれた』

ここには、子供の成長と老いていく自分を重ね合わせながら、大人になった子供に何かを教え遺して去っていこうとする親の気持ちが語られています。人間は、「生まれ育っていく」事にも「老いて死んでいく」事にも、人の手を借りなければならない存在なのです。この曲の歌詞は、もともとは作者不明のポルトガル語のメールだったそうです。

英語には「お互い様」を含意することわざに、「片手(一人)では手を洗えない」One hand washes the other.というものがあります。人は一人では手を洗えません。私たちの介護は、利用者さんにとっての「もう一つの手」となります。そうして差し出される手は、あたかも自分の手と手を洗うような無理のない振る舞いとなることが自然体です。

そもそも人間存在の本質として困った時に助け合うことは自然なことで、良い事をしてやろうと気負うことも申し訳ないと身を縮める必要もありません。二つの手が重なる時、どちらの手が「やって「あげて」「貰ってる」のかを区別する必要もありません。「人は一人では生きることができない」という人間の本質を教えられることは、最大の幸せでもあるはずです。

 

※3【うこさべん】右を見たり左を見たりしてためらい迷うこと

※4レーベル:タクミノート(テイチクエンタテインメント)、原作詞:不詳、訳詞:角 智織、補足詞・作曲・歌:樋口了一 2009年度日本レコード大賞優秀作品賞

 

紙面研修

人生の最晩年の意味について考えるために


「手紙
~親愛なる子供たちへ~」

 

年老いた私がある日 今までの私と違っていたとしても

どうかそのままの私のことを理解して欲しい

 

私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても

あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい

 

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても

その結末をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい

 

あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は

いつも同じでも私の心を平和にしてくれた

 

悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように

見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい

 

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり

お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい

 

あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて

いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを

 

悲しいことではないんだ 旅立ちの前の

準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい

 

いずれ歯も弱り 飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない

足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったなら

 

あなたがか弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように

よろめく私にどうかあなたの手を握らせて欲しい

 

私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい

あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど

 

私を理解して 支えてくれる心だけを持っていて欲しい

きっとそれだけでそれだけで私には勇気がわいてくるのです

 

あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように

私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい

 

あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと

あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい

私の子供たちへ 愛する子供たちへ

 

【態度価値】

フランクルによれば人間が実現できる価値は創造価値、体験価値、態度価値の3つに分類される。

 

創造価値とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値である。仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。

 

体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値である。芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現される。

 

態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。病や貧困やその他様々な苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、楽しみ(体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める自由が人間に残されている。

フランクルはアウシュビッツという極限の状況の中にあっても、人間らしい尊厳のある態度を取り続けた人がいたことを体験した。フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として態度価値を重視するのである。(Wikipedia)
 
考えてみよう

この詩の「私」が示すことができている「態度価値」はあるだろうか?

あるとしたら、それは何だろう。

食べ物をこぼし、同じ話を何度も何度も繰り返し、下着を濡らしてしまったり

お風呂に入るのをいやがる人から、私たちが学べることはなんだろう。

「旅立」が「祝福」となるためには、何が必要だろう。
 


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