令和5年
紙ふうせんだより 10月号 (2023/11/22)
「現実」の複層性
皆様、いつもありがとうございます。夜間は肌寒い日もでてきましたね。日中は暖かくても一枚余分に持参した方が良い季節になってきました。温度変化には薄物を重ね着するなど、工夫したいものです。
話は変わりますが、海の向こうでまた戦争が始まってしまいました。ハマスの民間人虐殺やミサイル攻撃は許されるものではありません。同様にイスラエルの無差別空爆や民間人虐殺は容認できません。いいかげん虐殺も地上侵攻も勘弁して下さい。
日常の裏側
ウクライナにロシア軍が侵略を開始した時も、そして今も、信じがたい暴力の行使に心が引き裂かれるような思いがします。なごやかに誰かと話し美味しいものを食べて、笑いあって過ごしていけるという日常が実は薄氷(はくひょう)を踏んでいるのではないのかという疑念。この瞬間にも誰かが血を流し涙も枯れて生き残ったことさえ恨んでしまうような凄惨(せいさん)な状況が、この日常の裏側で起こっています。
私たちに見えている世界のなんと狭いことか。自分が感じている現実は、無限とも言うべき無数の現実から選びとられた、わずかな一つであるということを思い知らされるのです。しかしたとえ自分の現実は針の穴から覗くような小さなものであったとしても、強制的に命を断たれるようなものではないのだから、自分とは異なる数多(あまた)の「現実の複層性」に戸惑いながらも、生きていることそのものをまず肯定し、失われていったものたちの弔(とむら)いのためにも、今ある得難(えがた)きものを大切にしていきたいと思います。
紙面研修
「リアル」と「リアリティ」
「現実」認識の複層性の理由
映画やアニメの演出家が、「リアルとリアリティは違う」という言うことがあります。リアル(real)は形容詞で、「真の、本物の、 実在(存)する○○」という意味です。リアリティ(reality)は名詞で、「現実、実在、現実性、本性、迫真性」を意味します。品詞が異なるだけで本来の意味は同じですが、演出家が使う場合は、現実の存在を「なるべくそのまま描いた」ものを「リアルだ」と言い、時に空想の存在を「あたかも現実存在かのように描いた」ものを「リアリティがある」と言ったりします。そして現実存在を描いたのに下手糞で「ニセモノのよう見える」時は「リアリティがない」となります。
このような言葉使いを援用すると、私たちは、個人の外側にある現実世界(リアル)を個人の心象風景(リアリティ)によって認識している、と言えるでしょう。実は「リアル」の四次元的な時空間の拡がりは無限の情報量があり人間には認識不可能です(そこに他人の「心」という物理的に計量不可能な次元を加えれば一体「現実」は何次元になるのでしょうか)。そこで人間は、感覚器官からの入力情報を意識や無意識(これも複層性がある)のデータべースに照合して認識するという情報処理の簡略化を行っています。そのようにして認識された物が「リアリティ」です。
このような「リアル」と「リアリティ」を最初に論じたのは、古代ギリシアの哲学者プラトンです。
人間とは洞窟の住人で住人の後ろには様々な「リアル」があるが、洞窟の住人は振返って「リアル」を直接見ることが出来ない状態にあるので、人間は「リアル」の後ろで燃えるたいまつに照らされて洞窟の壁に映し出される「リアルの影」(リアリティ)を見て、「リアル」だと思い込んでいる。これがプラトンの主張(洞窟の比喩)です。
そしてプラトンはこれを個人の内面に生起する認識の問題のみならず、世界の存在についてもあてはめて考えました。本当の実在(リアル)は「イデア」であり、イデアを私たちは見ることはできないが、現実世界のさまざまなリアルはイデアの表れであり、その表れを見て私たちはイデアを観念し認識することができる、としたのです。
「現実の複層性」の話に戻りますが、これまで3つの階層構造が出てきたことになります。便宜的にそれを「イデア、リアル、リアリティ」と表記してみましょう。「現実」はこの3つで終わりでしょうか。そんなことはありません。
まず「リアル」に対する目の付け所は複数ありますし、「意識や無意識のデータべースに照合」と述べたように、照合先が「何であるか、どんな状態であるか」によって「リアリティ」は異なってきますから、原理的には、一つの事象からほとんど無限に近い「現実」認識が生じてくることになってきます。認識が異なってくることは、例えば、空腹の時に大好きな人から差し出された鯛焼きと、満腹の時に嫌いな人から差し出された鯛焼きの「味」は、異なりますよね。これは皆、経験済みです。
存在論では認識不可能なので、目的論的に考えてみよう
私たちは利用者さんの「本当の姿」を果たして見ることが出来ているでしょうか。これは原理的に不可能です。しかし「それぞれが見ている現実は異なるから何を持って本当かは言えない」と相対主義に逃避してしまっては、話は前に進まなくなるどころか後退してしまいます。
目的論的に話を前に進めましょう。テーマは、介護提供が「美味しい鯛焼き」になれば良いのです。目の前にリアルな利用者さんがいます。しかしリアリティには高低浅深があります。「肯定的なリアリティ」があれば鯛焼きはお互いにとって「絶対旨いやつ」になります。「肯定的なリアリティ」を得るために「イデア」を仮定します。利用者さんの「リアル」は今こんなだけど、この利用者さんは「本当はとても良い素晴らしい人なのだ」と考えるのです。すると当然ですが、今まで見えなかったことが見えてきたり、見えるものの解釈が違ってきます。
しかし本当に「イデア」なんてあるの?という疑いが生じてきます。プラトンは「イデアを観念できるなら、イデアは実在する。無から有は生じない」と、こんな風に答えています。これ、「神の存在証明」とほぼ同じなんですが、「人間は不完全な存在である。しかし、不完全な人間は完全なるもの(神)を観念することができる。不完全な存在は、完全な存在の実在が無ければ『完全』という認識を持つことはできないはずだ。したがって、神は存在する」とデカルトは言いました。
プラトンは、「善のイデア」を最高のイデアとしました。利用者さんも自分も「最高最善のもの」から生じたものだ、利用者さんの中にも自分の中にも「最高最善のものがある」、利用者さんも自分も本当は仏様だ等、言い方は色々あります。
信じるか信じないかはあなた次第です。でも、鯛焼きは美味しい方が良いですよね。
考えてみよう
① どんな人にも可能性として「最高最善のもの」があると前提してみよう。
② その上で、ネガティブな「リアリティ」が生じる要因について考えてみよう。自分が見落としている可能性や「現実」について考えてみよう。 |
2023年11月22日 6:40 PM |
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