【紙ふうせんブログ】

平成27年

紙ふうせんだより3月号 (2015/07/31)

皆様、いつもありがとうございます。桜が咲きましたね!

 

私にとって4月の思い出は、なんと言っても子供のころの進級・クラス替え、卒業式・入学式などの新しい始まりに心を躍らせた思い出です。その高ぶった感情が咲き誇る桜と結びついて、桜の花はエネルギーの塊が光を放つようなイメージで心に刻まれています。皆さんはいかがでしょうか。日本人がお花見好きなのは、単に花より団子だけではなく、桜の木でお酒の力を借りつつ、子供の頃の純粋な気持ちを思い出すからではないでしょうか。

 

子供の心の純粋さ

 

打算や世間体などから離れたところで、誰かに絵

 とってではなく自分にとって、良い悪いや好き嫌いなどを、自己抑制なく感じられる心には、命の純粋さがあります。一方で、それを“ワガママ”と言う声もあるでしょう。“成長”とは、自分を抑えて周りに合わせられる事だと言うのです。しかし、皆の為と称してして自らの命の深みからの声を聴かず、自分や仲間への利益誘導や保身に明け暮れ、人の心や命を平気で踏みにじれる“強さ”を持つ事が“大人”への成長だとしたら、どんなにか残酷な事がその人の心の中で行われてきたのだろうかと恐ろしくなります。

河合隼雄『子どもの宇宙』岩波新書より引用します。

 

この宇宙の中に子どもたちがいる。これはだれでも知っている。しかし、ひとりひとりの子どもの中に宇宙があることを、誰もが知っているだろうか。それは無限の広がりと深さを持って存在している。大人たちは、子どもの姿の小ささに惑わされて、ついその広大な宇宙の存在を忘れてしまう。大人たちは、小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのなかにある広大な宇宙を湾曲してしまったり、回復困難なほどに破壊しりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので、余計にたまらない感じを与える。私はふと、大人になるということは、子どもたちの持つこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去っていく過程なのかとさえ思う。それでは、あまりにもつまらないのではなかろうか。

子供や老人の中の宇宙

2絵

 

「老人と子どもは不思議な親近性を持っている。子どもはあちらの世界から来たばかりだし、老人はもうすぐあちらに行くことになっている。両者ともあちらの世界に近い点が共通なのである。青年や壮年がこちらの世界のことで忙しくしているとき、老人と子どもは不思議な親近性によって結ばれ」ていると河合隼雄は述べています。そして、老人や子供の本質の一つを“魂を導く者”と指摘しています。老人や子供がなぜ魂の導者となり得るのか、それは“大人”と異なり社会的規範などに縛られる事なく、魂の側から自然体でこの世を見ているからと言えるでしょう。しかし、老人や子供の声が聞こえない“大人”は、「善意」のつもりでとんでもない事をしている恐れがあるのです。

「介護」や「支援」の両面性

 

最初の引用文の『子ども』を『高齢者』や『認知症高齢者』または『知的障害者』と読み替えたらいかがでしょうか。また『「教育」や「指導」』を『「支援」や「介護」』と読み替えてみましょう。すると私たちの行っている「善意」を自己検証せずに安易に他者に適用する事はできなくなってきます。

私たちの行っている「介護」は生活に働きかける具体的な力を持っています。孤独さに心を閉ざしていた方が「介護」という関わりで、心を開いていくという事もあるように、実に強い作用があります。しかし強い作用というものは、常に薬と毒の両方の可能性を考えておかなくてはなりません。もし医師が処方する薬の副作用を知らなければ事故になります。人の心と関わる仕事をするものは、本人の主体性のない現状変更は本人の力を奪い、時として現状破壊につながる危険性も自覚しておく必要があるでしょう。

 

社会的規範の両面性

 

私たちが社会的生活を送る上で、「○○しなければならない」というような社会的規範は実に多くあります。それらは、多数の他者によるこの社会を成りたたせる為には必要不可欠ですが、それらが余りにも多く重くのしかかると、社会は窮屈になります。社会全体の許容量が少なくなり多様性は損なわれ、皆がイライラし始め、枠に入りきらない人を意識的・無意識的に排除し始めます。そのような時、排除された者や脱落したと感じる者が、うつ病や引き籠りなどという静かな抵抗を試みる事もあるでしょう。

排除の論理が働く時、排除する側には、「自分は排除される側に回りたくない」という強迫観念めいたものが現れます。すっかり定着したかのような“勝ち組”“負け組”という言葉もそうでしょう。最近では、中高生の間でも“スクールカースト”などという言葉がささやかれ、自分が“下位”にランクされないように“下位”のクラスメートとの付き合いは避け、“上位”のクラスメートとのみ付き合っているように表面上は見せかけるという“処世術”もあるようです。残念ながら、“大人”の世界の論理がだんだんと子供の世界を侵食しはじめ、子供が本当に子供らしく生きられる期間が、極端に短くなってしまっているようなのです。

 

導者の役割

 

言うまでもなく誰の心の中にも“宇宙”は存在しています。しかし、現実の生活や生産活動がネオンのように輝くと、それは夜の星の光のように見えにくくなってしまいます。そのような時、改めて“宇宙”の存在を気づかせてくれるのが、子供や老人なのです。そしてそれはある種の反抗として現れます。私たちが“介護”している方たちも、時々私たちの“介護”に“反抗”します。それは、不確実な言動で周囲を右往左往させたり、認知症の方の行動・心理症状(昔は問題行動や周辺症状と呼ばれていた)だったりします。しかしそれらは、“大人”の合理性や一方的な論理を押し付けないで欲しいという悲鳴だったり、“介護”を見て“人生や魂”を見ないような、「木を見て森を見ない」態度を改めさせるべく生じていると考えてはいかがでしょうか。“導者”は道化師(ピエロ)のように振る舞いながら、“大人”が目に見えないものを軽んじるようになった時、そんな事あってたまるか!と、私たちに迫ってくるのです。それは人間存在の重みの叫びであり、命の深みへの気付きを導くのです。

河合隼雄は、戦時中を舞台にする児童文学を例に導者について次のように言っています。

 「方向性が明確に定まっているところでは、指導者や教師が活躍する。彼らは何が「正しい」かについて確信を持っており、同じことを繰り返し言っておればよい。そして、その正しい方針に従わぬものは悪として裁断すればいいのである。しかし、人間の生き方というものはそれほど一方向に規定できるものであろうか。あるいは、何が「正しい」かそれほど簡単にきめられるものだろうか。人間の魂はそれに対して、強く「否(ノー)」と叫ぶだろう。(略)導者は社会的規範や、指導者のことばにまどわされることなく、魂の呼びかけに応じていく。そこでは、言葉よりも行為が、概念や規範よりも人間存在そのものが、重みをもつのである。」(同書)

 

価値観の逆転

魂の導者は、既存の価値観の見直しを促し根源的な問いを発します。それは露骨な言い方をすれば、介護を受けなければ生活できないような者は哀れな存在なのか否か、というものであり、それに答える私たちが明確な答えを見出さないかぎり、介護する側と介護を受ける側に作られてしまった序列を逆転させるのです。私たちは、人生や魂の学びの為に、導者に頭を垂れ謙虚に教えを乞う立場なのです。

このように考えると既存の価値観の多くが揺らいできます。例えば、還暦を迎えた老人に赤いちゃんちゃんこ着て頂く風習があります。これは、還暦を迎えた大人が赤子のように無力な存在になるという意味ではなく、社会的役割から徐々に解放され、社会や生活の維持などの視点から人生を見つめるのではなく、子供のような純粋性を持って、魂の側から人生を眺め直す時が訪れたと理解すれば、意義深いものになるのではないでしょうか。年を重ねる事は悪い事ではないのです。


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