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平成27年
紙ふうせんだより5月号 (2015/07/31)
皆様、いつもありがとうございます。
強い日差しを浴びて、草木が一番成長する季節です。空地はいつの間にか夏草に変り、土も乾きぎみです。草木は青空に両手を拡げて水も欲しているようです。皆さんも水分補給はマメに行って下さいね。
さて、草木はどうやって成長するのでしょうか。光や水や土など適度な環境が整えば、誰からも教わる事なくひとりでに育っていきます。そのような力が初めから植物の種子には備わっているのです。このような成長の季節に私たちも一歩づつ成長していきたいと思います。
“生活のしづらさ”を支える
今年の4月から「生活困窮者自立支援制度」が始まりました。今までの福祉制度は対象者を高齢・障害・児童などの縦割りで支援していましたが、そのような垣根を越えて横断的に、「現在は生活保護を受給していないが、生活保護に至るおそれがある人で、自立が見込まれる人」を対象とし、生活の困窮や社会的な孤立から脱却し自立した生活を目指そうというものです。対象者の「生活保護に至るおそれがある人」というところには、給付を抑制したいという国の痛ましい下心が透けて見えるようですが、ともかく次のようなケースが例示されています。
・高齢で体の弱った親と二人暮らしを続けるうちに、地
域から孤立してしまった人
・家族の介護のため、時間に余裕はあるが収入の低い仕
事に移った人
・離職後、求職の努力を重ねたが再就職できず、自信を
失ってひきこもってしまった人
・いじめなどのために学校を中退し引きこもりを続ける
うち、社会に出るのが怖くなってしまった人
このように支援対象はとても幅広く、3月の研修会で内閣府の資料などを使って取り上げた、対人コミュニケーションに関わる多様な能力のバランスのとれた発達を欠いた“発達障害”の方もここに含まれてくるでしょう。IQなどの知能は普通であっても、物事の段取り構築や、自己感情表現や相手の表情を読んだり、抽象的な言葉の感覚的理解などが苦手な“発達障害”の方は、学校や職場で孤立したりイジメなどを受けて、自己卑下や自信喪失などの感情を生じやすくなります。それは“生きづらさ”となり、就職しても長続きせず“ひきこもり”になるなどし、生活は困窮していきます。2007年にNNNドキュメンタリーが“ネットカフェ難民”を取り上げ流行語となりましたが、生活困窮の多くのケースは、その背景に“生きづらさ”を抱えています。最近、母子家庭の増加とその貧困率の高さが問題視されていますが、一人親になるきっかけにはDVや児童虐待などもあるでしょう。そのような被虐待経験も、情緒の未発達や、自尊感情の破壊、他者への信頼感の喪失などを生じ、“生きづらさ”となります。そして、その“生きづらさ”の解決を障害や心の傷のという“個人の病理や人生の克服”という次元で考えるのではなく、“生活のしづらさ”に置き換え、環境や生活スタイルを整えることに焦点をあてていきます。なぜかというと、“個人の病理や人生の克服”にしか解決策がないのであれば、利用者は自分ではどうにもならない大きな壁にぶつかったような気がして、立ちすくんでしまうからです。また、支援者も“問題のある人”というようにレッテル貼りをしてしまい、利用者をレッテルの中に閉じ込めてしまう事が多いからです。
“生きづらさ”というものは、例えば「自分はダメ人間だけど頑張りたい。頑張りたいけどダメ人間だ」というような、本人にとってはどうしようもないくらいに“どうどう巡り”してしまう思考回路としても現れてきます。そのような時、膠着した思考回路の枠組みをずらして、“生活のしづらさ”として具体的に生活支援の提案をしていきます。「ダメと感じるのは生活の○○で困っているからですよね。では、○○に対してこんな取組をしてみるのはいかがでしょうか」というように、支援者側もレッテル張りの枠組みから抜け出せる提案を考えなければなりません。そのために求められるものは支援者自身の視点の切り替えと、支援の枠組みの変化なのです。
医療モデルから生活モデル(生活者支援)への転換
従来の福祉では、利用者の課題を、疾病や障害を中心に理解してきました。そのため、支援の中心は疾病や障害をいかに治療・改善するのかが課題となり、その方法として投薬やリハビリ、健康管理等の医療的アプローチが優先される事になります。すると支援過程の主体や責任者は治療や健康管理をする側となり、もし利用者が支援を拒むならば、専門家の教育や訓練に従わない“ワガママ”な利用者という事になっていました。利用者の反発は、自分自身こそが人生や生活の主役であるはずなのに、その主体性を奪われた怒りです。しかしその反発を受けた“専門家”を称する支援者は、言う事を聞かせようとますます指導的・管理的になっていきます。その悪循環の結果は、支援関係の破たんです。支援者が支配者として君臨し、NOと言えない利用者は自分の殻に閉じこもり意欲を低下させていくか、支援者がワガママに振り回される事に疲れ果てて降りてしまうか、のどちらかです。そのような福祉の文化を「オールドカルチャー」と呼んで克服していこうという潮流が今あります。 一方の「ニューカルチャー」での支援者の立場は、“専門家”という権力を行使して援助をスムーズにするのではなく、支援者自身も生活者として“対等な一対一の視点を持ち、“共に歩む・支えて手”でなければならないとされています。問題解決型の方法論ではなく、もし“生活のしづらさ”がなくなったらどんな事がしたい?と、思い描く生活への目標を話し合いながら、具体的に生活環境の改善を目指します。それは、本人の主体性を促した上での取り組みとなり、本人の自己決定を支援していくものになります。 進行性の癌の方を例にしてみましょう。医療モデルでは、ガンの治癒を第一の目標とします。抗がん剤の投与などの辛い治療により、患者の多くは食欲不振になるなどし、日常の生活もままならなくなります。医療という専門家の視点からすれば、延命こそが価値の第一番になるので、治療による患者の苦しみや生活破壊は、深く顧みられなくなります。それに対して生活モデルの視点では、本人がどのような“生活”を送りたいか、という想いを明確にする事から始め、その為には何に困っているのかを明らかにし、そこにどのような治療が要・不要なのかという事も含めて一緒に考え、それらを自己決定できるように促していきます。そして、ゆくゆくはどんな場所でどのように締めくくりたいかという事にまで、本人が心を定めて不安を乗り越えて、周囲に自分の気持ちを伝えられるようにしていく事が大切だと考えられています。生活モデルの視点は、常に主役は本人であって支援者ではない事が強調されます。そして、本人が主役であるために最も大切なのは、本人による本人のための「自己決定」なのです。
「自己決定」を支援する
先の「生活困窮者自立支援制度」の国研修の資料によると、「健康な『自己決定』を成立させる要素」として、以下の5項目を挙げています。これらが“できなくなった”時には、 「健康な」自己決定がさまたげられ“生活のしづらさ”が生じてくるとしています。
(平成26年度自立相談支援事業従事者養成研修 ・相談員研修「自己決定の支援とは何か ~判断能力が不十分な人への関わりを中心に~」より)・率直に話し、かたよりなく聴いて理解する
・見通しを立てて、段取りを組む
・優先順位を決める
・実行に移し、最後までやりとげる
・適切にふり返り、記憶に残しておく
このように見ていくと認知症の方は、自己決定を“健康”に行う事が困難になってくる事はすぐに了解できます。しかしだからといって、自己決定ができないわけでも、自己決定が必要ないわけでもありません。むしろ、支障を来しているがゆえにその支障となっているところを支援する。絡み合った困難さを一つ一つ解きほぐしながら一緒に考えていく、というプロセスこそが大切なのです。「健康な『自己決定』を成立させる要素」は、アセスメントを行いそこから抽出された課題を本人と一緒に確認しケアプランを作るというような、PDCAサイクル(Plan計画→ Do実行→ Check評価→ Act改善)を回せと言われているケアマネジメントのプロセスとそのまま重なります。まさにケアマネジメント過程は自己決定の支援過程でもあるのです。そして、話し合った事を本人が忘れてしまったとしても、自分の事を一緒に考えてくれる信頼できる人間関係があると感じるか、自分の知らないところで自分の事が勝手に決まってくという疎外感を得るかは、その後のその人自身の在り方に大きな違いとなって現れてくるのです。
自己決定はその人固有のもの
ケアマネジメントについて書くと、ヘルパーさんは“関係ない”と思われるかもしれませんが、そんな事はありません。自己決定の重要性は自分自身の問題でもあるのです。例えばヘルパーさんが、この仕事を「自分自身が希望して、やりたいから、好きだから」やっている人と、「他に仕事がなくて、仕方がなくて」やっている人とでは、ヘルパーとしての相手の方との関わり合いにも大きな差が出てくるように思われます。前者は健康な自己決定をしていますが、後者は社会的・経済的な圧力の下に“不健康な”自己決定をさせられていると言えます。そして、“不健康な”自己決定をしてしまった人に限って相手に対しても“不健康な”自己決定を強いるような合わせ鏡の関係になってしまいがちである事を感じます。そして、相手を批評という天秤に掛けてしまう時、実は自分の秤こそが歪んでいるかもしれないのです。前出の資料には「相談員自身が自己理解をしていなければ、相談者の自己決定を混乱させてしまう」とあります。また、自己決定は「誰も代われないその人固有のもの、その人の人生そのものであると理解する」とあります。
「彼らと一緒に悩む、迷う、つまずく、謝る、喜ぶ →彼らが『生きていく』ことに寄り添っていく」(同資料)これは、誰かの伴走者になる事の重たくて必要不可欠な態度を示しています。私たちは、一週間の内の何時間かは誰かの人生の伴走者になるのです。そしてそこから得た想いは、自己理解という形で合わせ鏡のように結局は自分自身に帰ってくるのではないでしょうか。懸命に生きている方と関わるなかで自分自身を振り返ると、他人に対してと同じように自分で自分にレッテル張りをしていた事に気付かされます。そのレッテルをはぎ取った時、自分にとって不本意だった状況も、実は自分自身が無意識に望んでそのような状況を作り、自己変革を求めて知らず知らずに飛び込んでいた、とさえ思えてくるのです。
私は、自己決定をする力はどんな人であっても、認知症や知的障害や精神疾患があっても、種子のようにその人の中に在り続けるものだと信じています。支援者は、その種が芽を出すように環境を整える事が役割なのです。なぜならば、私自身“不健康”な状況もあったけれど、結局自分は自己決定してきたし、今後も自己決定していきたいと望むからです。それが掛け替えのない自分自身の人生に他ならないと感じるからです。
2015年7月31日 12:41 PM | カテゴリー: 【紙ふうせんブログ】, 平成27年, 紙ふうせんだより