【紙ふうせんブログ】

令和6年

紙ふうせんだより 10月号 (2024/11/15)

何度でも繰り返そう

 皆様、いつもありがとうございます。年々、雲の多い日が増えてきました。温暖化の進行により空気中に含まれる水分量が増えてきたからでしょう。空が霞むのもそのためですが、晴れた空が高くなってきました。秋の深まりと共に、自身も深まっていきましょう。

もっと高く何度でも

「落ちてきたら今度はもっと高くもっともっと高く何度でも打ち上げよう」これは『紙風船(※1)』という黒田三郎の詩です。




「紙風船」

落ちてきたら

今度は

もっと高く

もっともっと高く

何度でも打ち上げよう

 

美しい

願いごとのように

※1 詩集『もっと高く』1964年刊




 誰もが一度は遊んだことのある紙風船。ゆっくりと落ちてくるところを見上げながら「今度は」と自分に言い聞かせ、「もっと高く」と想いを新たにすること。それが「美しい願いごと」だと言うのです。高く打ち上げようとして叩きすぎてしまうと、紙風船は凹んで空気が抜けてしまいます。しかし、丈夫なグラシン紙のおかげで破れてしまうことはめったにありません。凹んでしまったっていい。もう一度、息を吹き込んであげればいい。いつか願いがかなう時まで、何度でも何度でも繰り返せばいい…。

 

自身と世界を照らし出す心の火

 私たちは、日々の生活を繰り返しながら、月々を廻(めぐ)り年を重ねていきます。その永続性に、かつて社会学者の宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』と果てしなさに倦(う)む若者を挑発しました。しかし20代も後半になり青春時代が遠のいていった時、「十代はいつか終わる 生きていればすぐ終わる(※2)」という悔恨がやってきます。仕事に打ち込んだ30、40代も過ぎてみれば「光陰矢の如し」です。そして残された時間が気になり始めた頃、この両手が掴みとったものは一体何だったのかを考えるようになります。

 私たち介護職員は知っています。人生も要介護の生活も「いつか終わる 生きていればすぐ終わる」ということを。それが自然の成り行きだということを。しかし、「すぐ終わる」からと言って、粗雑にはできません。すぐ終わるからこそ残された時間を少しでも明るいものにしていきたいのです。

 古代インドでは、全ては「輪廻(りんね)」すると考えました。車輪のように廻り続けることが全ての基本構造であると捉えたのです。その車輪の一回転は、繰り返したとしても一つとして同じものはありません。そうであれば、繰り返しに倦むことなく願い続けることそれ自体が美しく崇高です。

 もし真の「美しさ」というものがあるとするならば、落ちてきても凹んでしまっても何度も繰り返し立ち向かっていく心、その心を明るくする心の中の灯(ともしび)、その小さな燃えている火によって照らし出されていく自身と世界にこそあるのではないでしょうか。

 

「繰り返す過ちの そのたび人は ただ青い空の 青さを知る」これは覚和歌子が作詞した『いつも何度でも(※3)』の一節です。




※2 フラワーカンパニーズの『深夜高速』の歌詞の一節。作詞作曲、鈴木圭介2004年。歌詞中に「生きててよかった」を22回繰り返す。

※3 映画『千と千尋の神隠し』の主題歌2001年。この後に「果てしなく道は続いて見えるけれど この両手は光を抱ける」という歌詞が続く 




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明るい方へ

 私たち介護職員は、利用者さんの繰り言や、せっかく積み上げた石積みを「鬼(※4)」に崩されるような体調不良や転倒にあって、その繰り返しに疲れてしまうことがあります。投げ出したくなる自らの心を明るくしていくためにはどうしたら良いでしょう。凹んだ心にはどうやったら息を吹き込めるでしょうか。

「明るい方へ 明るい方へ 一つの葉でも陽の洩(も)るとこへ」これは金子みすゞ(※5)の詩『明るい方へ』です。草や虫や子供たちは、遮るものがあっても光のある方へひたむきに進みます。「翅(はね)は焦(こ)げよと灯(ひ)のあるとこへ」と「夜飛ぶ虫」も目指します。これが、時に小さな利己に囚われて自らを暗い方へと誘導する打算に動く大人とは違うところで、自然の営みであり本性なのです。私たちに備わる本性は、「明るい方」を願い求めているのです。




「明るい方へ」

明るい方へ

明るい方へ。

 

一つの葉でも

陽の洩るとこへ。

 

藪かげの草は。

 

明るい方へ

明るい方へ。

 

翅は焦げよと

灯のあるとこへ。

 

夜飛ぶ虫は。

 

明るい方へ

明るい方へ。

 

一分もひろく

日の射すとこへ。

 

都会に住む子等は。

 




※4 生活の安定を脅かす存在の意もある(お便り2024年2月号参照)

※5 本名 金子テル(1903-1930)
1923年に童謡を投稿して西條八十に激賞され、童謡詩人会(女性会員は与謝野晶子とみすゞのみ)に入会。1926年に嫁ぐが放蕩の夫に淋病をうつされた上に詩作を禁じられる。1930年に別居し離婚、親権争いを病床に苦しみ同年服毒自殺。没後半世紀はほぼ忘却されていたが矢崎節夫の再発見により再評価が進み1984年に『金子みすゞ全集』刊行




誰かのために灯した光

 あるご利用者さんは塞ぎ込んだ顔をしてベットにおられ、ぶっきらぼうに「調子が悪い」と拒絶的です。「コーヒーをいれるから起きてきてください」とお願いすると起きて来られるのは、葛藤を抱えて自分自身を持て余していても、変化の糸口を求めているのでしょう。「調子が悪いのは、色々と考えてしまうからですか?」とあえて伺うと、「人間は独りで生まれて独りで死んでいくんだ。全部自分持ちなんだ」と鋭い口調です。

「哲学的ですね。その自分が何者なのか考えているんですね」とお返しすると「そんな話はしたくない」と言いつつもコーヒーを飲みだして会話の姿勢です。「自分をどのように考えていますか?」と伺うと「社会的には死人だから生きている価値が無い」と言われます。

「私たちの関係も社会ですよ」と会話を続け、その方の生活史の中の「人の為に頑張った話」に焦点をあてていくと、「コーヒー旨いな、もう一杯いれてくれないか」と言われます。「私もお話しできて良かったです」と感謝を伝えると「本当はめんどくさい奴と思っているんだろ?」と言われます。「重大な問いを私にぶつけられて、私自身がどう答えるかスリリングで楽しかったです」と率直に伝えます。受け入れ難い自分を受けとめてくれた姿勢は、自分を立て直す支えとなります。その瞬間、「ありがとう」と笑顔になられました。

この会話は、私にとっても心に残る価値あるものになりました。人は、自分の枠組外の課題が生じると矛盾葛藤を抱えます。矛盾葛藤はいわば内的な「他者」であり、どのように関わるかという「社会問題」が生じます。矛盾葛藤は生きている限り何度も繰り返します。行き詰まりには「他者」の存在が必要です。私自身も、利用者さんや先輩や家族、音楽や書物や自然等の「他者」によって自己の枠を拡げてきました。

 支えとしての「他者」に必要なことは自分より優れていることではなく、自分の心の側に在るような手触りのある実感です。私たちが誰かの心に寄り添う時、相手も自分の心の側に在ることになります。暗い夜道で誰かの足元を明るく照らし出そうとする時、灯した光によって自分も明るくなるのです。

 


紙面研修

繰り返しによって形成される自己像

 

杉浦の自己モデル

 自分とは「何者なのか」という問いは、誰の心にもあるものでしょう。その問いに対して各人が持つ「自己像」は十人十色ですが、その自己像がどのように形成されるかを考えることは、自己像の変化を目指す時に手掛かりとなります。近畿大学の杉浦健の「自己モデル」をその論文から紹介します。




循環によって立ち現れる多面的自己のプロセスモデル

 循環によって立ち現れる多面的自己のプロセスモデル

 「杉浦 (2014) の自己モデルにおいては、自己とは認識された自己であり、さまざまな行動 ( 他者とのコミュニケーションも行動のひとつである) とその結果のフィードバックの記憶が循環的に軌跡の重なりを形作ることによって、その輪郭が自己として認識されると考えられている。

 例えば、恋人とうまくやっている自分、勉強ができる (できない) 自分、 クラブに熱中する自分などが、一連の行動とそのフィードバックの記憶によって浮かび上がってくるという ことである。またそのように認識される自己はシステムの特徴をもっており、今ある状態を保つように収束する方向で働いている (循環によって立ち現れる自己、システムとしての自己)。例えば、勉強ができない自分という自己認識は、1回テストでいい点を取ったからといって簡単には変わらないということである。

 そのような循環の軌跡の重なりを輪郭として捉えて認識される自己は、唯一のものではなく、さまざまな分野、さまざまな他者との関係において複数認識することができる。私たちは 時と場合に応じてさまざまに異なる自己を認識し、それに基づいて自己呈示を行っている(作動自己、多面的自己)。また、それらの多面的自己同士の関係やバランスによって、私たちのアイデンティティのあり方も左右されている。

 そして当然だが私たちは今でも外に働きかけて行動し、他者とコミュニケーションし続けている。それによって自己として認識される循環の軌跡は付け加わったり、ブレたり、時には大きく軌跡を変えたりしている。例えば、ずっと勉強ができない自分だと思っていたのが、いい先生の授業を受けて授業内容が理解できるようになり、テストでも何回か点数を取れるようになって自信がつき、他の教科もできるようになって、勉強ができる自分に変わるような状況である。

 循環の軌跡の重なりを輪郭として捉えて認識される自己は一見変わらないものに思えたとしても、実は常に外に開かれ、常に変わり続けてその状態を保っていることになる(プロセスとしての自己、外に開かれたシステムとしての自己)。

 さらに私たちは自分の認識した自己に影響を受けて、思考したり行動をしたりしている。私たちの認識した自己はそのまま自分や世界を見る色めがねになっている。より適応的に、より健康的に、より生産的に生きるためには、私たちは自己がどのような性質を持っているのかを知り、自分が自己をどのように認識しているのかを知り、適切な姿勢で自己に向き合い、そして主体としてどのように行動すべきかを考えることが必要になる。(近畿大学教育論叢 第26巻2号 2014.2)




 自己像の変化が必要な時

 好循環とは平均台の上にいるようなもので、バランスが崩れそうになった時はバランスのとり直しが必要になってきます。そのバランスの取り方については、些細なことや自分が直接関われない物事いついて、過度に捉われたり悩み過ぎないことも含まれます。特に意識せずとも問題がない時は何もする必要はありませんが、非適応的な自己像や悪循環が意識されているのなら、どうしてなのか検討が必要です。




変わるのを待つ

 「杉浦の自己モデルでは、循環の軌跡は行動とその結果のフィードバックの記憶であり、その重なりが輪郭となって自己として認識されると考えている。そうすると循環の軌跡が重なって輪郭が浮かび上がり、それが自己の特徴として認識されるまでには、当然それなりの時間の流れが内在している。今の状態の自己はある程度の時間的プロセスを経て現在ある状態に保たれているものなのである。そうすると自分を変えようと思ったとき、行動や心の持ちようを一度変えたくらいでは自分は変わらないことがわかる(図2)。

 図2のように、一回循環の軌跡が変わった(つまり一度、いつもとは異なる行動をした)くらいでは循環の重なりとして立ち現れた輪郭としての自己認識は変わらず、システムとしての自己はそれまでと同じ状態を保とうと働き、もとの状態に戻ってしまうのだ。

 自己が変わるためには、たとえば人生の転機のような、循環の軌跡が変わるような行動や思考や出来事があり、変わった循環の軌跡の重なりが新たな輪郭として認識されるまで、行動や思考の変化が続くためのある程度の時間が必要なのである(図2下図)。もしも小さな変化から自分を変えていこうと思ったなら、そんな小さな変化を続けていくことが求められることになる。」(同書)



 




介護職に必要な気付き

 私たち介護職員に必要な気付きは一体何でしょう。

 私たちの態度や姿勢が利用者さんの自己像の形成に大きく関わっていることは、杉浦の自己モデルを学べば理解できます。例えば、利用者さんの介助を行う時に、嫌そうな表情や大きなため息をついて行っていたら、利用者さんはそれによって「自分は周囲に対して迷惑をかけているダメ人間」という自己像を形成することは十分にあり得えます。そのような時、「嫌そうにやられて気分が悪い」と言える方のほうが、自他の問題を切り分けることができる健全な精神の持ち主と言えるでしょう。

 一方で、業務内容として必要かつ許容される内容を、介護職が嫌な顔をして行うことの問題は、それを利用者が要求するからではなく、自分の無自覚的な表情の表出にあると気が付くべきです。無自覚さは、「働くこと」に対する自身の無意識的な受け止め方もあるでしょうし、「嫌な顔」の相互作用による自身の自己像の矮小化という悪循環も起こるでしょう。

 私たちが楽しく働いていくためには、介護職としての「自己像」を利用者さんとの関係によって成長・発展させていく必要があるのです。杉浦は、固着した家族関係などを例に取りながら、自己像の悪循環が見られる時は、それを「外に開く」必要があるとして、以下のように述べています。

 「本来、循環によって立ち現れる自己は外に開かれた関係性の存在であり、その関係性の中で常に変化しうる(変化し続けている)存在なのだが、問題を抱えた状態の場合、しばしばその関係性が閉じたり、特定の関係に固着してしまったりして問題が維持されてしまっているのである。」自己像の変化や発展には「他者」の拡がりが必要です。

 人間関係が狭まく閉じた環境(施設等)で生活する場合にあっては、その狭さによって些細なことに注目が向いてしまい、それがネガティブな内容ともなれば、そこに居る人(利用者さん等)のメンタルや自己像に影響を与え悪循環してしまいます。そのためには些細なところまで十分に配慮することが必要です。

 ある利用者さんは、医師より「転んだら終わりだよ」と言われて怖くなって外出できなくなってしまい、外出をしていないことから、「自分は歩けない」と事実とは異なる自己像が生じてしまっていました。物忘れやできない事や状態悪化への注視は、自尊心を傷付け自己否定になりかねない繊細なものです。些細なことについても暖かい態度や誉め言葉を贈り、好循環となるように心掛けていきましょう。

 

【memo】「本質主義」とは、男女や民族や個人など属性や個物にその性質を決定するものが内在し、それは本質なので変わらないとする決定論的な考え方。「日本人は勤勉」「女は狡猾」等の見方も本質主義だが、偏見に陥ってしまう面がある。「構成主義」は関係性の中で性質が形成されるので性質は変化し得ると考える。何が本質で何が構成されているかについては決めつけに偏るべきではない。

 

考えてみよう

どのような声かけや態度が利用者さんの自己像をポジティブやネガティブにするだろう。

その言葉を発しその態度を取ることによって自分自身の自己像はどのようになっていくだろう。

従業員間の声かけや態度は、どのようなものが望ましいだろう。


紙ふうせんだより 9月号 (2024/10/22)

夕暮れの物語り

 皆様、いつもありがとうございます。ようやく過ごしやすくなってきましたね。とは言え油断は禁物です。急な涼しさに身体の準備が整わず、風邪をひくこともあるでしょう。夏の体力低下は食事と運動で補い、利用者さんとの関わりで心の活力を得ていきましょう。

 

秋は夕暮れ

 秋の日はつるべ落としです。陽が傾くと昼間には霞んで見えなかった山々が、青紫色の影として西方のオレンジ色の空に浮かび上がります。空を渡る鳥が二羽三羽。帰って行くのはあの山の麓か西の彼方でしょうか。暗くなった庭影から虫の声が湧き上がってきます。私たちは、秋の夕暮れに懐かしさやもの悲しさ、愛おしさを感じます。それはなぜでしょう。

 

 「秋は夕暮れ。夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて、雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず」

 

 これは清少納言(※1)の「枕草子」の一節です。一日の終わりの秋の夕暮れは、一年のみならず一生の終わりを予感させます。平安時代中期の貴族の平均寿命は40歳前後と言われています。ひとたび体調を崩せば死が目前に迫る時代です。この時代の貴族の信仰は浄土教にあり、辛い人の世にあって真の救いは西方極楽浄土にあると説かれていました。

 

 無常である人の世から眺めた太陽は沈んだように見えても、真理の世界では太陽そのものは決して失われません。夕陽の輝きは感傷を誘います。人の命は急ぎ足で過ぎ去って有限ではあるけれど、西の空の果てに行くことができれば(※2)、永遠なるものに連なることができるかもしれない。寝床に急ぐ鳥の姿を見送りながら、深い安らぎへの希求や再生への願いを重ねたのです。

 

 家に帰りたくなる「夕暮れ症候群」

 夕方に「帰宅願望」が生じやすいことは、「夕暮れ症候群」などと呼ばれています。

 「認知症の方の中には、日中は穏やかで話もよくわかるのに、夕暮れ時になると、落ち着かなくなったり、話が通じないような状態になる人があります。この状態を『夕暮れ症候群』といいます。原因は確定していませんが、一番大きな要因は1日の睡眠と覚醒のリズムがおかしくなって、夕方になると半分寝ているような起きているような状態になるからだといわれます。その他に、周囲の介護者が夕方になって疲れた顔をしているのをみて不安になるといった心理的な要因もあるようです。対応は以下のようなことを考えます。

 

  • ・夕方、暗くなる前に早めに点灯する

  • ・昼寝を制限する

  • ・日中の日光浴をおこなう

  •  

その他に、介護者自身が、体調をととのえていつも明るく接していることができる状態であることも重要です。」

 

 これは国立長寿医療研究センターによる解説です。対応を工夫することに異論はありません。ただし、「症状」という理解はすべきではないでしょう。これらは生理的にも長年の生活習慣としても、とても自然なことなのです。



※1 966年頃-1025年頃

※2 日が暮れた後に西方に高速で進むと暮れる前の昼の太陽が現れます。北緯35度(日本の京都付近)では、地球1周の長さは約32800kmであるため、時速13667km(マッハ1.1)で西に移動すればほぼ同じ位置の太陽を眺め続けることができます。



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 日暮れて道遠し

 「世俗のもだしがたきに随(したが)ひてこれを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空(むな)しく暮れなむ。日暮れ塗(みち)遠し」

 

 これは兼好法師(※3)の「徒然草(つれづれぐさ)」です。雑事に追われているだけでは空しく人生が暮れてしまうと兼好は述べています。「日暮れて道遠し(※4)」とは、年老いたのに求める生き方に届いていないと感じる焦燥(しょうそう)を表していますが、晩年に人生の意味を求めることは自然なことで、この時期の課題は「私は私でいてよかったか?(※5)」という自問に対して、どのように自ら回答するかにかかっているとされています。

 

 そうであれば、「私はここに居て良いか?」という問いを含み持つ夕暮れ症候群は、実感の伴う自分や人生の安息地を求めて「私は私でいてよかったか?」ということを確かめたい気持ちなのです。言い換えれば、守り守られてきた温かい生活や人生の回顧などを背景にした「人生を追憶する情動」の表れでもあるのです。

 

 「人は健康なときには死のことなどを忘れて生活している。しかし、死が迫って来ると、人生の意味への問い、生きている目的、過去の出来事に対する後悔、死後の世界などへ関心をもち、人間はこの関心事を追及し、苦悩を持つ。この苦悩をスピリチュアルペインと定義(※6)」した時、「スピリチュアルペインを『症状』とみて『緩和』することを意図するのではなく、『関係性』でもって患者が『意味』を見出すのを支えること(※7)」が重要なのです。

 

 スピリチュアルペインは和訳すれば「魂の痛み」です。利用者さんの葛藤に向きあい受けとめることは、利用者さんの「魂の痛み」に寄り添うことになります。人が変化する時、そこには必ず情動が伴います。悲しみや後悔がその人を変え、喜びや充足が心を潤していきます。寄り添う人の存在は利用者さんに安心をもたらします。それは、支える人の心をも充実させることでしょう。そして、寄り添い続けることそのものが両者を癒していくのです。



※3 1350年頃-1283年頃

※4「史記」に描かれる伍子胥の話が語源

※5 心理学者のエリクソンが示す発達課題で「自己統合」の課題と言われる。孤独を怒りで表現することや抑うつ状態もあるが、再体験を試みる続ける努力が統合へとつながっていく

※6「終末期患者から学んだスピリチュアルペインとケア」新潟県立がんセンター新潟病院看護部

※7 亀田メディカルセンター疼痛・緩和ケア科「緩和ケア革命宣言」



 空にはきらきら金の星

 「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る お手て繋いで皆帰ろう 烏と一緒に帰りましょう / 子供が帰った後からは 丸い大きなお月さま 小鳥が夢を見るころは 空にはきらきら金の星」

 

 これは中村雨紅(※8)の童謡「夕焼小焼」です。国語教師の雨紅は、この詩を八王子駅から恩方までの徒歩16㎞の帰宅路の光景に着想したと言われています。発表は1919年、草川信が1922年に曲をつけています。この名曲の印象について、要介護高齢者の心理に重ねあわせて、独自の解釈を物語ってみましょう。

 

 夕暮れの鐘が人の世における生の終わりを告げています。人生を遊び楽しんだ「私」という人間も、振返ってみれば非力な「子供」にすぎません。人生の総体やその意味を完全に捉えるには、「私」という視界はあまりにも小さすぎます。今すべきことは皆と手を繋ぐこと。「私」から離れて、自然の営みを告げる烏の声に背中を押されながら、あるべきところに一緒に帰ることです。

 

 やがて私たちは小鳥のように眠りにつきます。皆と仲良くできたことは良い夢見を誘います。しかしそれができなくとも心配することはありません。円満を表す満月は必ず昇ります。悪い夢から月が守ってくれます。夜の世界に等しく降り注ぐ月光に見守られながら、やがて全ては眠りの中です。その時、きらきらと金の星が輝くのです。



※8 本名は髙井宮吉1897年-1972年



紙面研修

スピリチュアルペインと宮沢賢治

スピリチュアル」とは

 英語のスピリチュアル(spiritual)は、本来はラテン語の spiritusに由来し、霊的であること、神の、聖霊の、霊の、魂の、精神の、超自然的な、神聖な、などを意味します。オカルトチックな話ではありません。ここでの話は、人間の存在要素の根底にある全体性をスピリチュアリティとして、スピリチュアルな次元でのアプローチを検討します。人の「尊厳性」に関わる領域の話でもあります。

 

 人間は身体のみによって生きるのではありません。「身体的・物質的」な側面のみで人間を捉えることは誤りです。かといって、「考えや感情」を重視しても、それで全てがわかったとはとても言えません。例えるなら、身体に病気が無い人は「健康か」と言えば、必ずしもそうではありませんし、病気を抱えるから「弱い」とも言えません。激怒していても「優しい」気持ちが失われたわけではありませんし、「どうでも良い」と言ってもどうでも良く無かったりします。「元気だよ」と返事をしても元気でないこともあります。

 

 私たちが個人の人間存在の全体を見ようとした時には、その難しさに困惑してしまいます。私たちは、どうしても物事を部分で見てしまい、それを全てのように錯覚してしまうからです。人間を人間たらしめている精神性やその心の奥底や、感性や感情と身体の結びつきや個人の歴史性・社会性など、さまざまな側面を持つ人間の全体性を捉えようとすることは、とても難しいことです。

 

 しかし、臨床心理学者の河合隼雄は、支援にあたっては、その全体性を見ようとすることの重要性を説きます。河合隼雄は、人間の様々な側面を統合し、その全体性を支えるものを「たましい」という言葉を使って表しています。ここで言う「スピリチュアル」と同義です。確かに人間存在の基層となるようなものは生きとし生けるものにあるのでしょう。そのような物語を昔から人間は考えてきたのですから。

 

 スピリチュアルペイン(ペイン=痛み)とは、スピリチュアルな次元、つまり全体や統合性の次元で生じている「痛み」です。スピリチュアルケアとは、スピリチュアルな次元に働きかけ、またはその働きを利用して、スピリチュアルペインを癒していこうというものです。

 

宮沢賢治の捉えかた

 宮沢賢治は、月について正確な科学的知識を持ち合わせています。それが岩石の塊であることなどを知っています。しかし、そのような断片的な情報の総体が「月である」とする理解を賢治は拒んでいます。

 

 「月」という存在の全体性の中には、月と地球や地球の生物との「関係性」や月と人間の歴史的・情緒的な「関係性」も当然含まれるからです。科学的にも言われていることですが、月が存在しなければ地球の自転速度は恐ろしく速くなり大型生物が誕生することは不可能とのことです。賢治は月を「月天子」と称し、いわば「仏様」のように敬っています。これが、賢治がスピリチュアルな次元で捉えた「月」です。

 

 ものごとを全体性の視点で捉えようとする時、それを観察する「観察者」も全体性の中に含まれます。それは、ある人に邪険にされたとしても部分的な「関係性」であって、全体の中では他の「観察者」も存在するので、その人を邪険だとは決められないことを意味します。全体性を見ることの困難さは、そこに「自分との関係性」も含み、自己都合による視野狭窄があるからです。

 

 ですが、これは救いでもあります。全体性の次元ではそこに「自分との関係性」も含むのですから、自分の態度や言動の変化によって、全体性の中での変化は「自分のアプローチによって部分的に可能」ということもまた言えるのです。

 

宮沢賢治の人間観・人生観

 賢治は、「人とは人の身体のことであると、そう言うならば誤りであるやように」と述べています。人間は身体のみによって生きるのではありません。賢治は、「人は身体と心であると言うならば、これも誤りであるように」と述べています。人は、単なる身体と心の集合体ではありません。さりとて人は心であると言うならば、また誤りであるように」と賢治は「唯心論」も否定します。では、賢治は「人間」をどのように捉えていたのでしょう。

 

 賢治は「しかれば私が月を月天子と称するとも、これは単なる擬人でない」と、本気でそう思っていることを賢治は述べています。賢治は信じているのです、月が仏様であることを。

 

 しかれば、賢治が「人」を何と称しているのか、ここでは賢治は明言を避けています。賢治にとってはそれがどうしようもなく大切なことだったからです。理解されないことも解っています。しかし賢治はその生き方を実践しました。その生き方は、死後に発見された賢治の手帳に明らかでした。「雨ニモマケズ」には自分の目指す態度を、困っている人と共に「涙を流し」「おろおろ歩き」としています。あまつさえ「みんなにデクノボーと呼ばれ」「ほめられもせず」と見下される痛みを甘受します。なぜでしょう。

 

賢治は、自分を馬鹿にしイジメてくるような「関係性」こそが自分の魂を磨いてくれると信じ、苦しんでいる人と一緒に苦悩する「関係性」こそが困っている人を真に救い得ると信じていたのです。篤く法華経を信仰する賢治の生きた“物語”は、自分が「仏様」と敬うことによって、自分が(差別する・される)痛みを引き受けることによって、自分が苦悩することによって、皆が「仏様」になれるというものでした。

 

物語ることの大切さ

人は、自分の「物語」を紡ぎながら生きています。ナラティブとは「語る・物語る」ことです。自身の経験や空想したことなどを他者と共有することなどから人生の「物語」は紡がれていきます。新たな関係性やその変化から新たな「意味」が生じ、それを物語ることから「物語」は変容していきます。

 

 【物語例】甲子園を目指していた野球選手がケガで出場を断念せざるを得ず、夢見ていたプロ入りも断たれ自暴自棄になってしまいます。破滅的な生活を送り「自分はだめな奴だ」と自身を呪っています(ドミナントストーリー)。しかし、偶然から子供を助け、その子の「憧れの存在」となってしまいます。「自分は良い奴じゃない」と言い聞かせても「僕にとってはヒーローだよ」と簡単に言われてしまい困惑します。そして、期待を裏切らないようにと、その子の前ではヒーローであろうとしているうちに、新たな自分の可能性(オルタナティブストーリー)に気が付き、挫折に立ち向かっていきます。

 

 介護職の存在は、既に利用者さんの人生物語の一部となっています。私たちの在り方や接し方によっても、利用者さんの「物語」は紡がれ変容していくのです。



参考資料

月天子 宮沢賢治

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
后そこが大へんつめたいこと
空気のないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最后に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
──ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運転が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない

 



ナラティブを重視したがん緩和医療のあり方を探る

 

 スピリチュアルケアとペインの関係

スピリチュアルケアは一見、「こころのケア」と混同されがちであるが、こころのケアはストレスに苦しむ人を対象とした心理的・精神的症状に対するケアである。スピリチュアルケアはスピリチュアリティから派生するスピリチュアルペインのケアと考えられている。前者には薬物療法がある程度奏功するが、後者には効かないという点に大きな違いがある。

 前述した日本臨床死生学退会の一般演題「死とスピリチュアリティ」で座長を務めた窪寺敏行氏(正学院大学大学院人間福祉学研究科教授)によれば、「スピリチュアル“ケア”は“キュア”ではない」 と言う。そして、「スピリチュアルペインは人間存在に伴うものであるから、治療(キュア)して取り去るということができない」。
 つまり、スピリチュアルケアとは、単なるペインの緩和ではなく、人生の意味を失い、揺れ動く患者に寄り添って一緒に揺れ動きつつ患者を支える「寄り添い型ケア」であるべきで、「患者自らが納得できる人生の意味や目的を探し出し、かつ死後のいのちについての理解を持つことができるようにケアし、援助すること」が目的となる。(Medical ASAHI 2021 March)



考えてみよう

介護職の言動が利用者さんにとって否定的なナラティブとなってしまう場面を想像しよう。

自分(介護職員)の物語の中では、利用者さんはどのような役回りとなっているだろうか。

介護職員が、利用者さんを敬うことは、利用者さんの「物語」にどのように影響するだろう。

自己否定的な「物語」は、何がどのように「物語られる」ことで変わり得るだろう。











 


紙ふうせんだより 8月号 (2024/09/18)

あの夏を忘れない

皆様、いつもありがとうございます。連日の猛暑にも負けずにヘルパーさんが利用者さんのもとに訪問するその姿は、利用者さんの心の中に前向きな気持ちを呼び起こし、励みとなっています。いつもありがとうございます。

忘れられない記憶

 新聞を脇に置きながら利用者さんが「8月6日が過ぎましたね」と言われるので、「広島ですね。何か思い出はありますか?」と伺うと、利用者さんは「僕には忘れられない記憶があるんです」と言われます。その方の郷里は島根県で、中国山地を挟んだ反対側には広島県があります。「…8月6日には、『広島が大変なことになっているらしい』という話が伝わってきて、防空壕に皆で隠れていたんだ。大人達は食べ物を持ってきたりするために時々外に出たりするけれど、『子供達は隠れてなさい』と言われて、トイレの時以外は1週間くらい防空壕に隠れていたんだ…」

 その日の午後6時のラジオ放送は「8月6日午前8時20分、B-29数機が広島に来襲、焼夷(しょうい)弾を投下したのち、逃走せり。被害状況は目下調査中…」と「原子爆弾(※1)」を伏せ事実を隠す内容でした。当時、日本政府は情報統制や検閲をしており、政府にとって都合の良いことしか国民に伝えない方針でした。そもそも「表現の自由」に大幅な制限のある明治憲法でしたが、1940年12月に内閣情報局が設置されると、自主取材による報道は政府発表のプロパガンダに置きかわっていきます。しかし、人の口に戸は立てられぬものです。

 「そのうちに『広島に落とされたのは新型爆弾だったらしい』、『広島は全滅で大勢の人がやられたらしい』、ということが伝わってきて、防空壕の中で怖かったことを覚えている」と、その利用者さんは言われていました。緑豊かな山々の向こう側では多くの命が奪われているのです。しかし8日の新聞は曖昧で、「相當(そうとう)の被害を生じたり」「新型爆彈を使用せるものの如(ごと)きも詳細目下調査中」と、僅か2行の大本営発表のみを伝えています。




※1 日本も開発中だった。1945年8月6日の広島へのウラン型で約14万人、9日の長崎へのプルトニウム型で約7万4千人が45年末までに死亡したとされる。




死んでいたのは自分かもしれない

 9日、原爆を搭載したB-29爆撃機は、福岡県の小倉上空に現れます。しかし、雲と煙で目標が定まらずB-29は長崎に移動し、午前11時2分に原爆を投下します。当時、小倉在住だった別の利用者さんは、この投下目標の変更について戦後知ることになり、「死んでいたのは自分だったかもしれない」という思いを強く持ったそうです。

 なお、小倉上空の視界不良については前日の八幡大空襲の煙だと言われてきましたが、八幡製鉄の従業員が次に目標になるとしたら陸軍造兵廠のある小倉ではないか(※2)と予測して、敵機来襲の警報を聞いて用意していたコールタールに火をつけて煙幕を張ってから避難した、と近年証言しています。

  他人の死と自分の死を分けるものは一体何でしょう。いずれにしても、一歩違っていれば自分も死んでいたであろうことは、この時代を生きた多くの方が感じていることなのです。




※2 米軍機は9日から10日朝に「即刻都市より退避せよ 日本国民に告ぐ!」との「原子爆弾」投下予告チラシを大阪、長崎、福岡、東京に投下。ただし、日本では敵国宣伝チラシの所持や内容の口外は固く禁じられていた。




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運よく助かった命

 広島の思い出には続きがあります。「学校の校外学習で先生が連れていってくれて、僕は戦後の広島に行ったんだ。大きな部屋に長机がいくつも並べてあって、その間を歩いて回った。机の上には皿のような物が並んであって、その一つ一つに真っ黒な骨が置いてあった。子供の骨もあった。焼け焦げて炭になった肉がまだついているような骨もあった。見て回るのが辛くて、皆、涙を流していた。皆黙ったままで、しゃべることができなかった。旅館に戻って食事が出たが喉を通らず、皆、下を向いたまま食事ができなかった…。」

 当時、広島市は爆心地周辺に平和記念公園を建設中で、食器のかけらや黒焦になった家財道具とともに、多くの遺骨が掘り出されていました。現れるはずもない引き取り手を待っていた遺骨は、やがて原爆供養塔の地下納骨室(昭和30年建立)に納められていきますが、その後も復興工事の際には広島市内の各地から遺骨が見つかっています。

 のどかな山陰地方の島根県は玉湯や浜田に空襲があった他は大きな被害が見られない地域であり、利用者さんは昭和15年生まれでもあり、苛烈な戦争の記憶は無いように思われました。しかし、自身の避難体験と校外学習で見たものが重なった時、多くの子供や大人が死んでいった傍らで、自分が運良く助かっていたことを利用者さんは痛切に感じ取ったのです。

 この利用者さんは、やがて勉学を志して国立大学の夜間学生となり、上京して就職。苦学しながら60年安保闘争に参加。その後も労働運動や貧しい人を助ける活動を行うなどして、「人のために」という生き方を貫いていかれました。

かけがえのなさに気が付くこと

 奇跡的なことの結果として今の命があることを知った人は、その後どのように生きることになるのでしょう。自分自身にそのようなことが起こったら、その後の自分はどのような考えを持つでしょう。ただ、世の中には、突然の出来事であっけなく日常の連続性が絶たれてしまうことがあまりにも多くあり、それらを知るとむしろ「奇跡は大災害や大事件の中にのみあるのではない」と言わねばなりません。

 本当のところは、今日から明日へと命を繋いで行けること自体が、奇跡それ自体なのです。しかし私たちの日常の生活意識は、明日の後には変わらぬ明後日が来ることを疑いません。人が安心して暮らすために必要な心のメカニズムとして、日常の連続性を信じる思い込み(正常性バイアス(※3))が備わっているからです。

 あるご利用者さんが新型コロナに罹患され、気力も体力も衰えて寝たきりに近い状態となって退院、家族の自宅での懸命な対応がありました。落ち着いた頃、家族が大変な病気にかかっていたことをご本人に教えると、「そうか、助かったんだな。感謝しないとな…」と深く感慨され、家族の絆を深める話し合いができました。そして、ご本人の瞳には光が戻り、日に日に回復されてきました。

 生活や命の連続性が絶たれてしまうような時、私たちは「かけがえのない日常」の幸せに気が付くことになります。その時に後悔を抱いてしまうことになるでしょうか。それとも今までのことに感謝できるようになるでしょうか。良いことも悪いことも人生の一場面であり、それらを全部ひっくるめて「かけがえのない人生」です。そうであれば、本当のところは、後悔も感謝も全部ひっくるめて「かけがえのなさ」に気が付くことそれ自体もまた、「幸せ」と言えるのではないでしょうか。




※3 正常性バイアスは心の安定を保つメカニズムで、ちょっとした変化なら「日常のこと」として処理してしまう人間心理の事を言う。危険な状況であっても「異常を正常の範囲内」として判断の遅れや思考停止を生じさせてしまうので、災害時は要注意。例えば、火災時に「薄い煙だからまだ大丈夫だ。大きくはならないだろう」と願望と判断を取り違えて逃げ遅れてしまうのです。





紙面研修

震災時シミュレーション(業務中発災)

 

20XXXX日(秋)

 日本晴れの爽やかな風の吹く日、天気をネタに気分を盛り上げれば、いつもは「疲れた」と言ってすぐに歩行器機能付きの車椅子に座ってしまう大木さん(仮名)も気分よく歩行練習してくれるかな、と考えながら独居宅に訪問します。ベットサイドのリクライニングチェアに座っている大木さんにご気分を伺いながら外出に誘います。

 と、「ドン!」という突き上げの直後にグラグラと大きな揺れ、大木さんは目を見開いて恐怖の表情、携帯電話の緊急地震速報(1)が鳴っています。とっさに近寄ると大木さんは私の両肩を掴んでくるので、そのまま両脇を抱くようにして椅子から降ろし、二人でベット脇に身を横たえます(2)。ベットの足もとの引きダンスがベット柵に倒れ掛かります。天井が落ちてもベット柵が受け止めてくれるはず、と念じているとようやく揺れは納まりました。しばらくベット脇で抱き合いながら、ふいに笑みがでてきます。「怖かったですね~、死んじゃうかと思いました」と私が言うと、「私はいつ死んでいいんだよ」と笑う大木さんです。

 この(笑)は心理的な防衛機制(3)です。「じゃ、その時は残った寿命は私に下さいね」と努めていつもの調子で、大木さんを起します。幸いなことに二人とも怪我は無いようです。「さて、と…。まずは事務所に電話しますね…(4)」見まわすとテレビも倒れています。事務所の固定電話も事務所携帯も通じません。「ツーツー」という音は回線がビジー状態なのでしょう。大木さんの固定電話(5)を借りても同じです。

 「大木さん、息子さんの番号教えてください」と言うと、大木さんが手帳からメモを出します。息子さんの携帯は、幸いなことに呼び出し音が鳴ります。その間、サ責のラインに「大木様宅にいます。ご本人、私両名とも無事です」と入れました。結局、息子さんの携帯には「大木様宅のヘルパーです。ヘルパー、大木さん共に怪我無く無事です」とメッセージを残しました。リビングの食器棚の扉が開いて、食器のいくつかが床に落ちて割れています。「大木さん、区の助成で転倒防止器具(6)を付けてて良かったですね。食器棚は無事ですよ」と言いながら、内心では扉のロックを付けていた方が良かったかな…でもそれだと大木さんが自分では開けられないかもしれないし…などと思う。




(1)直下型地震では揺れの方が早い  (2)まず身の安全を確保する

(3)ストレスから身を守るための健全な働き (4)安否確認報告は必須

(5)携帯よりも固定、市内よりも遠方が繋がる 携帯の一斉通話で基地局はパンクする可能性が高い、市内固定通話も同じ

(6)上限2万まで助成 03-6432-7177(区)




臨時的内容のサービス提供

 「大木さん、休めるよう枕を置いておきますけど、しばらくここにいてくださいね。余震があるかもしれないので。私、外の様子を見てから買物に行ってきますね」と、リビングで掃除機のコンセントを差し込みました。しかし、停電(7)しています。ベランダのサンダル(8)を履いて玄関にたどり着きました。大木宅は古い都営住宅ですが壁構造の鉄筋コンクリート(9)なので、大きな損傷は無さそうです。エレベーターは案の定動きません。

 私は、落ち着くように自分に言い聞かせつつ優先順位を考えながら階段を登ります。最上階から街中を見渡します。酷い倒壊家屋や火災発生のような様子は見られません。急いで避難する必要は無さそうです。自分の家族にも安否確認のLINEを送ります。家族とは日頃から震災時対応を話あっているので、慌てる必要はありません。降りていくと、大木宅の隣の方(10)が廊下に出て外を見渡しています。

 「こんにちは、隣の大木さんのヘルパーです。私、これから買物に行ってくるのですが、大木さんは怪我無く無事です。大木さんの息子さんの留守電にはメッセージを残しましたが、私が帰ると大木さん一人になってしまうので、何かあったらよろしくお願いします」と伝えます。コンビニでは、店員が行列を前に電卓で会計を行っています。電子マネーは使えません。チリトリと箒は取り扱いが無く、ガムテープとお弁当、パンなどの常温で日持ちする食品とお菓子と飲み物を数点購入し、段ボールを貰って帰ります。

 大木宅に戻ると、大きな破片を拾ったあと段ボールを箒のように使って食器の破片を集めます。集めた破片はガムテープでくっつけて拾います。最後に仕上げとして濡れ雑巾で床をふきあげます。棚の食器は出してしまい、床のすみに置いておきます。普段使いするものは、台所の安全そうなところに置きます。水道は気のせいか水流が弱くなっている(11)ようで、止まってしまう可能性も考えられ、洗ってあるペットボトル全てに水を入れて(12)おきます。ガス(13)も止まっています。

 大木さんの座卓には、冷凍庫の保冷剤を出して置き、その上にお弁当を乗せます。他の食品やペットボトルもその周りに置きます。大木さんは食事に常温保存のレトルト食品や缶詰(自分では開けられないが)を取り入れており、そのストックが結構あるので、いざとなったらレトルトも加熱無しでも食べられなくはないので、食料については何とかなりそうです。テレビとタンスを直して臨時内容の記録を書き、大木さんには定位置に戻ってもらい「息子さんにも連絡したし、私たちもまた来ますね」と安心させる声掛け(14)をして退室します。




(7)送電ルートや発電所や変電所に被害がある 

8)慌てて足を傷つけないように

(9)地震に強く旧耐震でも倒壊事例なし (10)日常の声掛け大切

(11)埋設水道管が破損すると水漏れのため水圧が下がる

(下水管のズレ等の損傷時は流すと悲惨、要建物確認)

(12)カルキで保存に適す (13)震度5以上でマイコンメーターで自動停止

(14)絶対必須




事業所の対応

 事務所には社員1名しかおらず、皆出払っていました。全てのパソコンモニターが倒れましたがUPSで緊急時に稼働(15)させるパソコンを立ち上げると共有フォルダのヘルパーシフトを開き、全ヘルパーのシフト画像を撮影して、一旦電源を落としました。準備してある緊急連絡先一覧(16)震災時情報共有ボードと従業員名簿(17)を出して、事務所の目につきやすい場所に展開します。

 その日のシフトを見て、今から安否確認(今日中にこれからの訪問が無いお宅で、順位が高いお宅)すべきお宅を確認していると、大木様は今現在ヘルパーが入っています。大木様宅と担当ヘルパーに電話をかけてみましたが通じません。LINEで安否情報を流そうとすると、ホームタブに赤枠で「LINE安否確認(18)」が出現しています。どうやら“友だち”に一斉に安否情報を送れるようです。そのうちに社員が1人戻ってきましたが、「LINE?届いてないよ」と言います。

 「いやー、びっくりしたよ。私が伺ってた津山さん(仮名)は大丈夫だったけど、津山さん変に落ち着いちゃってさ、『私は良いから、他の皆さんを守ってあげて下さい。あなたは大切な人です』って津山さん言ってくれて、取り乱すどころかクリアになってて、これが一番びっくり感動だよ」と言った後、「で、どうする?」となりました。

 「これだけ回るところがあるんだけど、手分けした方が良いかな、それとも一人は待機した方が良い?」「ここにいても心配なだけだから、できることはやろう。とりあえず必要そうな物を買って持ちながら回ろう。ヘルパーさんが来たら、各種情報がわかるようにメモしてさ」ということで玄関扉に「中に情報共有ボードがあります。ご記入下さい」と貼り、従業員名簿の自分の安否OKに〇をして、これから回るところに対応実行中と書き込み出発。途中、食品等を買物(19)してリュックに詰め利用者宅に訪問し、必要な人には実費精算です。ヘルメット着用し、軍手、掃除用のコロコロも持参。




(15)無停電電源装置、PCやデータ損傷を防ぐため停電後も短時間電気を供給する

(16)安否確認優先順位等が記載

(17)これらの書式はブラッシュアップさせる

(18) iOSまたはAndroid 12.2.0以降対応、出現条件は震度6以上だが状況による

(19)現金必須、食品等はすぐに売切れ




ヘルパーさんの報告・その後

 大木さんの次のお宅はご夫婦ですが、奥様だけの認定なので少し遅れても大丈夫。事務所に寄ってみると、扉に貼り紙があり鍵が開いています。「安否情報書いて下さい」メモで目的の用紙はすぐに目につきました。自分の安否に〇をします。大木さんの名前等を書き、「在宅生活」は可能に〇をするも、困難条件に「毎日の食事提供?」と書きます。緊急対応状況の終結までの数日間を書き込む一覧で、自分の対応を記入。「あの息子さんなら、車でしばらくの間新潟(息子所在地)に連れてってくれるかな…」と考えながら留守電のことも記します。

 さて、次のお宅です。商店街では古い看板建築(20)が倒壊して屋根が電線に引っかかっています。停電の原因はこんな事でしょう。人だかりを裏道に避けながら、「古くて構造に問題のある建物は他にも倒壊しているな」と考えます。ならば火災が心配です。消防や救急のサイレンは遠くから聞こえますが火災とは限りません。しかし、街の雰囲気、音、臭い、空の霞みに目を凝らしながら移動します。もし火の気を感じたら、自分自身がまず避難行動(21)です。ご夫婦宅では、ご主人が割れた食器を片付けており、その手伝いをして臨時内容の記録(22)「共に行う掃除」を記録し30分で終了。ご主人は避難所を知っているとの事。その次へと向かいます。

 さて、また別の社員が事務所に戻ってくると、震災時情報共有ボード等へ記入があり、各自の自発的行動に勇気をもらいます。大木さんの留守電の件が気になり、事務所の電話番号で災害伝言ダイヤル(23)をしてみました。すると、大木さんの息子さんから「何時に着くか分かりませんが、これから東京に向かいます」と入っています。




(20)通りの壁面を看板用に四角くした木造家屋。店入口の開口部に柱無く脆弱

(21)木密地域の最大リスクは火災

(22)介助した記録あれば請求OK、安否確認のみは不可

(23) NTTは「171」




考えてみよう

シミュレーションに無理はないか? 季節や条件は? もっと工夫できないか? 日頃の自分の備えはどうか? 実際に出来ることと出来ないことは何か? 分らない事、知りたい事は何か?

紙ふうせんだより 7月号 (2024/08/16)

境界線を越えて

皆様、いつもありがとうございます。熱中症にご注意下さい。水分とともに塩分やミネラルやビタミンの摂取にも気を配って下さい。落日にほっとしてしまう猛暑です。日が沈んでほの暗くなる頃には、銀河が頭上に横たわります。今では都市部では見ることができない天の川ですが、この霞んだ空を突き抜けたなら、そこに今でもあるのです。

荒海や佐渡に横たふ天河(あまのがわ)

これは、旧暦の七夕に近い頃(新暦の8月18日)の松尾芭蕉の句です。風がごうごうと吹きすさぶ荒波の立つ日にも、天の川は泰然と空に掛かっています。現世の無常や困難のその先に永遠の光彩を放つ銀河。この荒海を越えることができたならば、この悲しみもきっと癒えるでしょう。そんな夢想をしてしまうような星空がこの世界のどこかにあるのです。

想像の翼

もし、どこまでも飛んでいける翼があって、輝けるあの天の川を目指したとしましょう。空と宇宙に境界線はあるのでしょうか。雨が降り雲が流れる対流圏を越え、成層圏のジェット気流を突き抜けて羽ばたいた時、どこからが「宇宙」となるのでしょうか。

やがて、漆黒の海のような空間に数多の星が輝き、足元に青い惑星が見えるようになるでしょう。それでも私たちは明確な空と宇宙との境界線を見つけられないはずです。地上に立っていた時は大地と空が二分され、空に掛かる川は境界のように見えました。その川は、あちらの世界とこちらの世界を橋渡しするようにも、区切っているようにも見えます。しかし今、大地を離れた身となって虚空に浮かんでみると、不思議なことに一切の境界が見当たらないのです。

空と宇宙に境が無いように地球と宇宙に境は無く、地球は宇宙の一部であり、「私」も宇宙の一部なのです。満天の星に圧倒され私の身体が透けて消えて行くように感じます。漆黒の宇宙が潮のように身体を満たします。静まった心はどこまでいっても尽きない深淵のようです。静寂に叫びたくなります。「やまびこ」に返答を求める旅人のように、「誰かいませんか」と、その声を聞いてみたくなるのです。どこまでも続く星空と、ここに私が居ます。

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自己と他者の境界

私たちは身体を持っています。目を開けば、自分の手足が見えて他人の姿を確認します。この身体によって世界は区切られています。あなたと私の境界は身体によって明瞭です。本当にそうでしょうか。

身体の自他を区別するものは免疫機能ですが、免疫機構(※1)の発現には、「自己」を定義する設計図があらかじめ存在していないことが知られています。自己免疫疾患というものもあります。生物の身体の自己・非自己は思いの外にあいまいで、私たちの体細胞の中にあるミトコンドリアは別種の生物が取り込まれたまま温存された機関ですし、私たちの身体に共生する腸内細菌は、約1000種類、100兆個に及ぶとも言われています。

自己と他者の境界を作り、区別を決めているのは身体であると完全には言えないのです。




※1多田富雄の「免疫の意味論」では、免疫とは自己への寛容と非自己の排除であり「身体的に『自己』を規定しているのは免疫系であって、脳ではない」とし、身体の免疫機構の発現は多くの偶然や確率の積み重ねによると論じる。最終章では「『自己』というのは、『自己』の行為そのものであって、『自己』という固定したものではないことになる」と、固定した自己観を解体する。




あいまいな自己

自己と他者の境界線はどこにあるのでしょう。実際の人間関係での心理的な境界は、場面や環境や相手に応じて高くなったり低くなったり厚くなったり薄くなったりするものですが、その柔軟性が上手く育まれていなかったり失われてしまったりすると、自分の意に添わないのに相手の行為を受け入れてしまったり、要らぬおせっかいを焼いてみたり、硬い人間関係になったりしてしまいます。

「境界の在り方に不安を覚えた時、『境界線』を意識してしまう」とも、「下手に『境界線』を意識してしまうから、境界の在り方に不安を覚える」とも言えましょう。自他の「境界線」は、何かで明瞭に引くことができるのでしょうか。

1996年、マカクザルの脳に電極を設置した実験中に、サル自身は動作をしていないのに、人間がエサを取る動作に反応する脳の活動が観察されました。この脳活動は人間にも見られ、他者の行為を見ている時も、自分が行為をしている時も、同じ行為に対して同じように反応するので、その神経細胞はミラーニューロンと呼ばれるようになりました。

行為の由来が自己であっても他者であっても同じ反応をするので、脳中枢のこのレベルでは、「行為」だけが表象されて、それが自己か他者のものかは、区別されていないようなのです。

「自己」という意識の可能性

自己と感じる最小の要因とは何でしょう。科学的な自己研究では、それをミニマル・セルフと呼び、時間的な広がりをほぼ持たずに成立している最小の要因を二つに分けています。それは「主体感」と「所有感」です。主体感とは「私がこの行為を引き起こしている」という感じで、所有感とは「この行為は私の経験である」という感じです。そして「主体感」は運動神経と密接な関わりがあり、「所有感」は視覚などの五感に影響を受けています。

片麻痺の患者は、しばしば自分の麻痺側を「自分の身体では無い」と感じます。思い通りに身体が動かせる主体感がないからです。しかし、麻痺側の腕にモニターをかぶせ、腕のCG映像(健側を映した鏡でも良い)を見せ、そのCGが患者の命令通りに動くようにしてやると、患者はCGの腕を自分の腕だと錯覚して、自分の腕が動いていると感じます。視覚によって所有感が刺激され、主体感と結びつくからです。この刺激に運動神経が活性化します。

すると、全く動かなかった麻痺側が動かせるまでに回復することがあり、これはリハビリ方法としても研究されています。脳科学では、この所有感は大脳皮質正中内側部構造(※2)との関わりがあるとされています。この部位は、安静時の内省状態で高まる「デフォルトモードネットワーク」という脳活動の主要領域です。そして、マインドフルネス瞑想はこの活動を穏やかにする効果があります。

デフォルトモードネットワーク(※3)が静まりミラーニューロンの表象が意識された時、宇宙との一体感や他者との融合感という、深い自己存在感や自己超越感を覚える可能性があり、これは脳科学でも説明し得ることなのです。私たちは「自己」という認識を持つがゆえに「他者」を意識し、他者とより深く結びつくことができるのです。

私たちの仕事は、利用者さんを他者として尊重することから始まります。尊重は相手への観察となります。するとミラーニューロンが活発化し利用者さんの感覚が伝わってくるようになります。それは同時に、あなたの「気持ちが良い」は私の「気持ちが良い」となります。利用者さんは他者であると同時に、自己自身でもあるとも言えるのです。




※2(大脳皮質正中内側部構造は)たんに身体の所有感に対応しているというより,「身体が存在する」という背景的感覚に対応して,「私が存在する」という基底的な自己意識に関係しているように思われる。(田中彰吾・日本心理学会「心理学ワールド」90号)

※3自己認識機能を担っていると考えられるが、活動過剰になると雑念や思考が止まらなくなり不安や疲労の原因ともなる。





紙面研修

脱水・電解質代謝異常

電解質とは

私たちの身体の水分(体液)には「電解質」が含まれています。電解質とは英語で「イオン」を意味します。イオンとは、中性の原子が、正(+ 陽イオン)と負(- 陰イオン)どちらかの電気を帯びた状態(イオン化)のことです。生理学などでの「電解質」は、体液に溶け込んでいる時にイオン化する物質のことで、電気を帯びているその性質から筋肉細胞や神経細胞の働きに関わり、細胞の浸透圧を調節するなど生命維持にとってとても重要です。主な電解質には、ナトリウム(Na)、カリウム(K)、カルシウム(Ca)、マグネシウム(Mg)、リン(P)、クロール(Cl)、重炭酸(HCO3–)などがあります。

通常の状態の身体であれば体内の電解質は動的に恒常性を保っており一定の範囲内にありますが、適正な範囲を外れてしまうと、細胞や筋肉や臓器の機能に悪影響を及ぼします。そして、腎不全や尿細管の病気や尿の生成を調整する内分泌ホルモンの異常などがあれば、電解質代謝異常になってしまい、命にかかわることもあります。「だるい、立ち上がりが困難」などの訴えにより検査したら、急性腎不全になっていたということもあります。

下表では、血液中の電解質の量に異常がある場合には、どのような症状が現れるかを記しています。病気の症状としては、低い場合を「低○○(電解質の名称)血症」、高い場合を「高〇〇血症」と言います。

※下記以外にも様々なことが言われているので調べてみて下さい。
電解質の名称 低い場合 高い場合
ナトリウム 疲労感、反応が鈍くなる、錯覚する、頭痛、意識障害、
手足のつりや脱力
意識障害、口渇、
高血圧、慢性腎臓病
カリウム 手足のつりや脱力、筋力低下やけいれん、むくみ、
不整脈
徐脈(脈が遅い)、
手足のつりや脱力、血圧低下
カルシウム イライラする、手足のつりや脱力、疲れやすい、
まぶたがピクピクする
口渇、食思不振、悪心、嘔吐、便秘や下痢
マグネシウム 頭痛、うつ、食思不振、悪心、
嘔吐、不整脈手足のつりや脱力
血圧低下、吐き気、
嘔吐、食欲不振、めまい、ふらつき
本当に怖い脱水

「脱水症」とは何らかの原因で体液量が不足した状態を言います。身体の水分量が若者に比べて少ない高齢者は、脱水症になると意識障害を起こしやすく、血液が濃縮され血栓ができやすくなり、脳梗塞や心筋梗塞などを発症しやすくなります。

炎天下などで活動を行うと発汗をします。すると、汗と共に電解質が失われることになります。炎天下ではなくとも、熱い部屋で就寝していて朝には喉が渇いている場合などは、就寝中にやはり多くの発汗をしています。この気が付きにくい発汗も要注意です。

発汗の際は、「塩分(塩化ナトリウム=電解質)を補った方が良い」と言われるのは、お茶や水分は摂っても電解質を補わなかった場合、血液中の電解質の濃度が低下してしまう恐れがあるからです。

電解質に着目した水分や食事の摂取

暑さによって食欲が低下する季節や発熱や下痢になった後なども、食事量の低下によっても必要な電解質が不足することがあります。その際は、水分と共に電解質に着目した水分や食事の摂取必要です。

頭がぼんやりする(意識障害)、身体を動かすのがおっくう(脱力)、食べたくない(食欲不振)、足があがりにくい、前に出ない(手足のつり)などの訴えが見られた時は、身体の衰えや単なる疲れなどとして「通常の延長」と考えてしまわないようにしましょう。電解質量の低下が「疲れていておっくうだから食べたくない」という状態を引き起こしていたとしたら、放置してしまうことは悪循環となり症状を悪化させてしまいます。

なお、脱水や食欲不振による電解質の異常は一時的なもので、適切な補給によりすぐに回復します。一方で、電解質を過剰に摂取し過ぎることは高血圧の原因となりましすし、腎臓に負担がかかれば慢性腎臓病となってしまい、それによっても電解質代謝異常となります。




ポカリスエット(100ml当たり)

エネルギー:25kcal

タンパク質・脂質:0g

炭水化物:6.2g

ナトリウムイオン:49mg

カリウムイオン:20mg

カルシウムイオン:2mg

マグネシウムイオン:0.6mg




生活の中での工夫

あるヘルパーさんは、外出時に「梅干し」を持ち歩いていると言われていました。これも上手な工夫です。

電解質を補給するスポーツドリンクでは元祖である「ポカリスエット」が有名です。ただし、糖分の多い清涼飲料水は、大量に飲むことによって急激な血糖値の上昇が起こり急性の糖尿病合併症(ペットボトル症候群、若年層に多く見られる)を起すことがあり、一度の大量飲用は避けるべきです。

利用者さん宅では、いわゆる「塩分タブレット」などを購入し、お茶の時に「これも食べてね」と勧めてみることも大切な取り組みです。




考えてみよう

今まで起こった体調不良の中には、「電解質代謝異常」ではないか?と思われるものは無かっただろうか。今関わっている利用者さんで、脱水や熱中症の危険が伴う生活状況の方はいるだろうか?





紙ふうせんだより 6月号 (2024/07/17)

身体が含み持つ「他者性」の大切さ

皆様、いつもありがとうございます。気象庁の発表によりますと、昨年の春から続いていたエルニーニョ現象が終息したとみられ、ラニーニャ現象が発生する可能性が高いとのことです。そうなると太平洋高気圧が優勢になるので猛暑になります。今の内から暑さに身体を慣らしておきながら、夏バテを感じたら十分な栄養補給と休息が必要です。また、多量の発汗によって水溶性のビタミン(B群やC)やミネラル(ナトリウムやカリウムなど)が失われると、身体ばかりではなく鬱やイライラなど心にも悪影響があると言われています。

この身体は誰のもの?

身体が極度に疲れると自分の身体ではないと感じてしまうことがあります。身体には、「自分のものでありながら、自分のものではない」という両義性があります。「この身体を取り替えたい」というようなことを述べる利用者さんは時々おられますが、元気な時には身体を平気で酷使しながら、身体に不調をきたしてしまうと自分の身体を嫌ってしまうのです。身体の視点からは酷い扱いです。

ここには、身体は自分の所有物であるから自分の好き勝手にして良いし、思い通りにならなかったら腹が立つ、というような「身体=私のもの」という観念があります。自己所有の観念は、所有者の「精神」が上で操作され使役される「身体」が下という支配関係となります。これが身体の軽視へとつながるのです。

この観念の傲慢さは、身体を「子供」に置き換えれば理解できるでしょう。虐待親は短絡的な自己所有の観念を「我が子」にまで延長し、子供を思い通りにしようとします。思慮の浅さを防ぐために昔の人は工夫をしてきました。ある利用者さんは「お前の持っているものは、本当はお前だけのものではない。皆ために使え」と親に教えられたと言っていました。

「頂いたもの」「預かったもの」という意識は大切です。人は、「他者」への責任を感じてこそ物事を尊重できるのです。

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身体を置き去りにすることの危うさ

身体には、「それが私であり、かつ私ならざるものである(※1)」他に、もう一つの両義性があります。それは「身体は、私と他者を絶対的に隔てるものでありながら、身体を介してこそ私と他者はつながりうる(※1)」ということです。身体があってこそ私たちは自身を感じ他者を感じることができるのです。

このような身体性に対して軽視や欠如があったらどのような弊害があるでしょう。AI研究では、身体を持たないAIは真に人間と同じ知性を持つことは出来ないと言われています。身体性の無いAIは人を傷つけることを恐れません。シンギュラリティ(※2)が問題を孕(はら)むとすれば、身体性を持たない知性は身体的存在に害を及ぼす可能性があると言えるのです。

近年は、子供のSNS依存(※3)が社会問題になりつつあります。SNS依存は相対的に身体を伴うリアルな接触を減少させており、他者への攻撃性に対する「抑制」が育まれない懸念があります。身体性を置き去りにした精神はバランスを欠き暴力性を隠し持ちます。一方で、精神性の無い身体は暴力性を誇示しますから、身体も精神も人間には大切なのです。

 




※1「心理臨床関係における新たな身体論へ」大山泰宏 2009

※2 技術的特異点のこと。AIが自律的な自己フィードバックによる改良を繰り返すことによって人間を上回る知性が誕生するという仮説

※3 養老孟子は「情報が優先する社会では、記号のほうがリアリティを持ち、身体性がないがしろにされてしまう」として、自然や身体性を置き去りにする情報依存社会を「脳化社会」と呼ぶ。




 

身体性の回復が精神を癒す

「人間は考える葦(あし)である。(※4)」

自然物として暴力に対して身体的な弱さを持つ人間は、だからこそ考えることができる存在として、「よく考えなければならない」とパスカルは訴えました。人間の精神は強力で、文明を築き、戦争で文明を破壊しながらも思想展開や技術革新を繰り返してきました。

その人間の精神が傲慢になったらどうなるでしょう。人間は今、他の生物種の生殺与奪能力まで得ています。人間が様々なものを自己所有物と考えて己の好きにし始めたら、他の生きものや身体や生命に対し、知的能力や利用価値によって優劣を決める恐ろしい社会となるでしょう。パスカルは、精神を万能とする風潮を危惧していました。

1920年にイタリアで「パパラギ」という文明批評の本が出版されました。西洋を旅行し初めて文明を見た南国の酋(しゅう)長ツイアビの演説集で、パパラギとは「空を打ち破って来た人」というサモア語で、転じて「白人」を指します。ツイアビは、「『精神』という言葉がパパラギの口にのぼるとき、彼らの目は大きく見開かれて、すわってしまう」と違和感を述べ、「考えるという重い病が、彼らを襲っている」と指摘します。

「彼らは切れ目なく考える。『日はいま、なんと美しく輝いていうことか』これはまちがいだ。大まちがいだ。馬鹿げている。なぜなら、日が照れば何も考えないのがずっといい。かしこいサモア人なら、暖かい光の中で手足を伸ばし、何も考えない。頭だけでなく、手も足も、腿(もも)も、腹も、からだ全部で光を楽しむ。皮膚や手足に考えさせる。頭とは方法が違うにしても、皮膚だって手足だって考えるのだ」と、身体で感じることの重要性を説き、精神の独断専行に警鐘を鳴らしています。




※4 「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。」 パスカル(1623-1662)




精神の孤独を癒す「他者」

心身医学(※5)の中核概念に「心身一如(しんしんいちにょ)(※6)」があります。心と身体は本来分離不可分であるという「禅」の言葉です。身体と心をわけてしまうのも、身体を「自分のものではない」と感じてしまうのも矛盾です。心身が調和的な時はこの矛盾を自覚することは無いでしょう。しかし、要介護ともなれば、先走る心に身体がついて行かず転倒を起こします。身体の不調がフォーカスされて、身体を自分の領域外の「他者」のように感じてしまうのです。「これは自分の身体じゃない」と自分で自己疎外を起しては、身体を呪うようにもなります。しかしこの「呪い」には、両義的には「祈り」の意味を含んでいます。こんな身体はいらない(死んでしまいたい)、しかし身体が死ぬと精神も死ぬから死ねない、という矛盾に引き裂かれながら、私たちは要介護の生活に一体何を求めているのでしょう。

人生の最晩年の「祈り」とは何でしょう。自分の人生で関わった「他者」を受け入れて「これが自分の人生だった」と納得し、きちんと(他者にも身体にも)感謝を述べて自身の旅立ちを寿(ことほ)ぎたいのです。矛盾の自覚はさらに大きな統一への入り口です。他者論の哲学では「他者」こそが自己完結を破り、自己を高みへと導くと考えます。そうであれば、「他者」のような身体を受け入れる生活にも大きな意味があるのです。

思い出してみましょう。誰かにご飯を食べさせて貰ったり身体を洗って貰ったりした記憶はいつのころでしょう。いつの間にか忘れてしまっていた他者に包まれ育まれる感覚は、人生の最晩年に再来することになります。私たち人間は、この身体の接触を介してこそ他者との繋がりを深く実感し得るのです。人生の最晩年に、生かされ生きてきた命をヘルパーとの交流に感じることができれば、人生の深い肯定と満足になるはずです。




※5 デカルトの心身二元論に発する科学は身体をモノのように扱い医療は「病気を看て人間を見ない」となったため反省から生じた医学

※6 曹洞宗の開祖の道元(1200-1253)の「正法眼蔵」には「仏法にはもとより身心一如にて、性相不二なり」とあり、元来は「身心一如」





紙面研修

他者としての「身体」

R6年3月号の紙ふうせんだよりでは、「他者論」を取り上げています。他者とは、予定調和的な自分を打ち破る「外」と感じる存在です。自己の発展は、そのような外的な存在を自身が受け入れていく過程となります。他者を他者として正しく遇していく時、他者は永遠に自分の知ることができない「外」の要素を持ち続けます。そのような他者に対して敬意を払い、理解したいと願い片想いのように接近を試みること。これが、自己の可能性を開いていく鍵と言えましょう。

下記引用の筆者の内田樹は、フランス文学を専攻してレヴィナスを研究し直接師事したこともあり、学究の傍らに合気道の道場を開設しています。身体に対する内田の考えは武道家としての実感があります。大抵の人は自分の身体を知っており自由に操作できていると勘違いしていますが、武術の達人の考えは異なります。

私たちよりはるかに身体操作能力の高い達人は、身体に命じて身体を動かす操作的な把握では後手になるので、より本質的には主体を身体に譲り、身体の動きに任せる非操作的な態度をとります。達人といえども身体は永遠に「他者」で尊重すべきあり、追求すればするほど極め尽くせない奥深さが現れるものなのです。そのように外の世界の拡がりの豊かさを知る人が、自身の中を豊かにしていくのです。




身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない  

「子どもは判ってくれない」(2003)内田樹

 (略)勘違いしている人が多いけれど、「敬意」というのは、他人から受け取る前に、まず自分から自分に贈るものだ。自分に敬意を払っていない人間は、他人からも敬意を受け取ることができない。

こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分に敬意を払う」というのは「威張る」という意味ではない。

自分に対して敬意を持つことは、まず自分の身体を丁寧に扱うことから始まる。

そして、自分の身体を丁寧に扱う人は、すでにそれだけで、他人から丁寧に遇される条件をクリアーしているのである。

こんなことを書くと間違える人がきっといるだろうが、「自分の身体を丁寧に扱う」というのは、別にエステに行ってお肌をぴかぴかにするとか、毎日シャンプーするとか、そういう意味ではない。

自分の身体を丁寧に扱うということは、言い換えれば、自分の身体から発信される微細な「身体信号」に鋭敏に反応するということだ。(略)

セックスやドラッグにどろどろはまりこむ人間のことを「身体的快楽に溺れて……」と形容する人がいるが、これは用法が間違っている。

身体そのものは身体を傷つけたり、汚したりする行為を決して「快楽」としては感知することがない。身体毀損を「快楽」として享受するのは脳である。

売春する少女たちも別にめくるめく身体的快楽を追求しているわけではない。彼女たちが求めているのは「お金」である。それも生計のための金ではなく、蕩尽(とうじん)するための金である。売春の代償で得た貨幣でブランド商品を購入して、それを快感として感知するのは身体ではない。脳である。

冷たいコンクリートの地面にじかに座るのも、耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、身体的には不快な経験である。それが「快感」として感知されるのは、それらの身体操作を「ある種の美意識やイデオロギーの記号」として他人が解釈しているだろうと脳が想像しているからである。

メディアが誤って「身体依存的なふるまい」に分類したがる若者たちの行為は、総じてすぐれて「脳依存的」なふるまいなのである。

繰り返し言うが、自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。

それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。(略)

自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か (休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか……)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か……それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。

身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。どういう動作をしたがっているのか、どういう姿勢をしたいのか、どういう音質の声で語りかけられたがっているのか、何をされたいのか、何をされたくないのか……いっしょにいる人について、それが自然に分かり、求めるままに反応できる人は、「人の気持ちが分かる人」という社会的評価を受ける。そのようなささやかな積み重ねのうえに、社会的敬意というものは構築されるのである。

自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、他者の身体の発する身体信号をも感知できない。自分の身体を道具的に利用することをためらわない人は、他人の身体を道具的に利用することもためらわない。

自分に敬意を払う、というのはそういうことである。(略)




感じてみよう

自分の身体を「他者」のように感じてみよう。うまく動かないことの歯がゆさや、上手く行ったときの喜びを感じてみよう。そして、身体が感じ発信してくる声に耳を傾け、身体とコミュニケーションをしてみよう。


 


紙ふうせんだより 5月号 (2024/06/25)

衝突矛盾のあるところに…

皆様、いつもありがとうございます。すがすがしい気候もやがて移ろいゆきます。食中毒に気を配るべき雨の季節がそろそろやってきます。

梅雨の別名に「五月雨」があります。なぜ五月かと言えば、旧暦の5月が新暦の6月から7月ころに該当するからです。従って、「五月晴れ」とは本来は梅雨の晴れ間を指す言葉でした。しかし、天気予報などの放送用語では、新暦の5月のさわやかな晴天を指して使われることもあります。なんだか矛盾していますね。

自分の中にある「矛盾」を認めること

 「どんな盾も突き通す矛(ほこ)」と「どんな矛も防ぐ盾(たて)」を武器商人が売っていて驚いた。中国の故事(韓非子)に有名なこの「矛盾(むじゅん)」という言葉は、「二つ以上の事柄が一致しない状態、または、一つの事柄が自身の内部で一貫性を欠く状態を指す言葉」(実用日本語表現辞典)と解説されています。私たちが接する利用者さんも一方には是と言い他方には非とする矛盾した自己表現をされる方が多くいます。訪問しては振り回されて「困った方だ」と断じたくもなりますが、“断罪”は早計です。そもそも人間の存在は矛盾を内包しているものだからです。

生物は生存競争の過程で個体の死を獲得しましたが、個体の意識は死を拒みます。最大の矛盾は生死です。社会的な動物である人間は社会と個の関係が重要ですが、個の視点のみの利益追求が過剰になると個人が生きにくい社会となってしまいます。ミクロ視点での個々の合理性が全体となった時、マクロ的な観点からは非合理になっていることがあります。世界的な環境問題もその一つです。これは経済用語の「合成の誤謬(ごびゅう)」です。

矛盾の対立軸を個人の中にも見てみましょう。宿題をしなければ追い詰められることが解っているのにゲームが止められないという葛藤は、現在と未来の視点からの矛盾です。アイドルの“推し活”が冷めてしまった時など、アイテムを大量購入しため込んだ自分が馬鹿らしく感じます。かといって、捨ててしまうことは過去の自分を否定してしまうようで簡単にはできません。人間とは「今ここにいる自分」に限定されない、今の自分とは異なる視点を持つことができる存在なのです。位相(いそう)(※1)の異なる視点の同時所有、これが矛盾を感じさせる基本構造です。




※1 氷・水・水蒸気は位相の異なる同じ物質。自分の中に状況や場面関係性によって多様な自分が現れるとも言える




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人は、今の自分とは異なる視点を考えられる

私たちは自分を社会や他者や異なる時間軸の自分の視点から見つめなおすことができます。今は是の気分でも明日には非になっている自分を想像することもできます。矛盾に葛藤するということは、現在が視野狭窄(きょうさく)の危機にあるか、今まで以上の視野の拡がりを獲得する契機が訪れているか、恐らくはそのどちらでもあります。葛藤は「必要なこと」として起きているのです。

矛盾に自覚的になり対立項の双方と向き合い、他者や今の時間軸ではない自分と、今の自分とを対置させながら本当の最適解とは何かを模索すること。矛盾に対して開かれた態度で止揚(しよう)(※2)を目指す時、私たちは動物的な個体としてではなく、複層的な繋がりの中での人としての自己を見出し、社会的歴史的存在としての「個人」として自立していくのです。




※2 ヘーゲル1770-1831の弁証法の言葉で、矛盾対立する二つの概念や事物をより高次の視点によって統合して調和や秩序を見出すこと




矛盾と向き合い乗り越えていくこと

介護保険制度にも矛盾があります。総則で「尊厳」と「自立した日常生活」をうたいながら、「健康で文化的な最低限度の生活」に配慮できていない制度運用や日常生活の文化的な側面を切り捨てる給付抑制が行われているからです。

もちろん制度的矛盾には、行政に対して意見を述べたり政治や選挙を通じて声を上げたりする必要があります。しかし、だからと言って矛盾の全てが制度に起因するものではありません。「絶対に事故を起こさない、絶対に安全な車」が存在しないように、完璧な制度は存在しないからです。

つまり、制度の不備をどうにもならないような「矛盾」にまで拡大させてしまっているのは「人」なのです。手間を省きたい、楽をしたい、責任を負いたくないといった個々の安易な合理性が優先された時、その集合の結果として主体者不在の硬直化した「制度中心」が生じるのです。

現在の介護保険をめぐる状況は、介護職員の私たち自身が要介護になったことを悲観しないでいられる仕組みになっているでしょうか。疑問に感じるならその自覚は良いことです。「利用者中心」という考えを知っていて、その空文化の矛盾を認識しているからです。全体の問題は合成の誤謬的な要因もあり、個々を一方的に断罪することは出来ません。

ただ、もしこの「矛盾」を乗り越えたいと本当に願うなら、矛盾から逃避したり他責的に原因を何者かに押し付けたりせずに、まずは自分自身の中にある矛盾と向き合うべきです。

哲学者の西田幾多郎(※3)は主著の「絶対矛盾的自己同一」の中で「過去と未来との矛盾的自己同一としての自己自身の中に矛盾を包む歴史的現在は、いつも自己自身の中に自己を越えたもの、超越的なるものを含むということができる。いつも超越的なるものが内在的であるのである。現在が形を有(も)ち、過去未来を包むということ、そのことが自己自身を否定し、自己自身を越えゆく」と述べています。

矛盾の超克は自己超越の鍵です。過去や未来を認識し作っていくのは現在の自分です。その自覚が自己や世界像を「作られたものから作るものへ(※4)」と転換していくのです。




※3 禅と近代哲学を融合した西田哲学を展開1870-194京都学派の創始者

※4 同書に75回登場する言葉。過去(作られたもの)と未来(作るもの)を矛盾的に内包する現在をどのように生きるかが自己を転換させていく




 どんな時にも、人は楽しむことや喜ぶことができる

生存者の究極の矛盾である生存否定の願望が語られる時、考えたくないことを考えてしまう辛い葛藤があります。家族や社会のことを考えたり過去の自分に捕らわれたりしているのかもしれません。未来を恐れているのかもしれません。作られた“利用者”という自己像を打ち破り、自らを「作るものへと」するために究極の自己選択を夢想しているのかもしれません。葛藤の内容を安易に決めつけてはいけません。

ただこれだけは言えます。「命は生老病死を内包している」という矛盾的自己同一的な事実と利用者さんは向き合っていて、命の意味について自己覚知したいと願っています。覚知はどのように訪れるのでしょう。それは論理的考察ではなく、自分が苦しい中にあっても自然の美しさに見とれたり、人と人とのふれあいに楽しさや喜びを感じたりできる「実感」によるのではないでしょうか。

苦境の中にも心が煌めく瞬間はあります。人は、どんな時にも楽しむことや喜ぶことができるのです。その矛盾を発見した驚きと悲哀が、人を自己統合へと歩ませるのです。どんな葛藤も最後は「受容」に至るとキューブラー・ロス(※5)は指摘しています。安心して心の多様性の現れでもある利用者さんの矛盾と向き合いましょう。

心の多様性は苦悩一色に塗り潰されません。出会いの不思議に心を満たして日々の生活に楽しみを見出し、喜びを利用者さんと共有しましょう。




※5看取り研究の先駆者1926-2004






紙面研修
 

マインドフルネス瞑想

東洋思想と西洋思想の融合

西田幾多郎は参禅による感得と仏教思想を西洋哲学の中で捉え直して論理化を試みました。「哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は〈驚き〉ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と西田は述べています。西田の葬儀では、遺骸を前に座り込んだ元同級生で親友の鈴木大拙は号泣したといいます。鈴木大拙は、仏教や禅についての英文著作があり禅を欧米に紹介したことで有名です。禅の影響を受けた著名人は多く、アップルの創業者スティーブ・ジョブズも自己を高めていく生き方を求めたその一人です。スティーブ・ジョブズには有名な演説(2005)があります。

「私は毎朝、鏡の中の自分に向かって、『今日が人生最後の日だったとしたら、今日の予定をやりたいと思うだろうか』と問いかける。『ノー』の日が続いたら、何かを変えなければいけない」

ZENブームにより参禅の効果が知られるようになると、技法を整理したマインドフルネスが考案されます。基本はとてもシンプルで姿勢を正し「呼吸」に意識を向けます。抑圧や葛藤が強いとかえって気が散ってネガティブな感情が現れることもありますが、練習により静めていくことができます。集中力が高まりQOLや生産性にも良い影響があるため、Googleなどの世界的大企業で取り入れられています。

マインドフルネスとは (現代精神医学事典・弘文堂2011)

1979年にジョン・カバットジンによりマサチューセッツ大学医学部にストレス低減プログラムとして創始された瞑想とヨーガを基本とした治療法。慢性疼痛、心身症、摂食障害、不安障害、感情障害などが対象となる。ジョン・カバットジンは鈴木大拙の禅に影響を受け、仏教を宗教としてではなく人間の悩みを解決するための精神科学としてとらえ、医療に取り入れた。

その基本的考えは、煩悩からの解脱と静謐な心を求める座禅に軌を一にしている。マインドフルネスの語義は“注意を集中する”である。一瞬一瞬の呼吸や体感に意識を集中し、“ただ存在すること”を実践し、“今に生きる”ことのトレーニングを実践する。これにより自己受容、的確な判断、およびセルフコントロールが可能となる。マインドフルネスは認知行動療法に取り入れられ脚光を浴びるようになった。しかし、認知行動療法は認知の変容を目指すのに対して、マインドフルネスは認知のとらわれからの解放を誘導する。

衝突矛盾によって、さらに大きな統一に進む

「衝突矛盾のあるところに精神あり、精神のあるところには矛盾衝突がある。たとえば、われわれの意志活動についてみるも、動機の衝突のないときには無意識である。すなわち、いわゆる客観的自然に近いのである。しかし、動機の衝突が著しくなるにしたがって意志が明瞭に意識せられ、自己の心なる者を自覚することができる。

(中略)衝突に由って我々は更に一層大なる統一に進むのである。実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、この衝突の際においてである」と西田は「善の研究」で述べています。

マインドフルネスでは、瞑想の入り口では身体感覚の不快や自我が意識されますが、無心となり、自我の執着から離れて矛盾を止揚し自己に至る、とも言えましょう。意識的に「今この瞬間」に「判断しないあるがままの意識」を向けることで、新しい気付きが得られるのです。

 自己の心を意識して整える 認知症ケアに用いられる瞑想

 認知症の利用者さんが穏やかに過ごされている時、まるで瞑想のように見えることがあります。ですが、技法を行うのは介護者です。バリデーションでは「センタリング」といって、瞑想することで自分の中のイライラや不安などから離れ、心の静まった状態で利用者さんと向き合うことの大切さを説いています。実際のところ、自身の心が静まると自然の美しさへの感受性や他者への共感性が高まります。




実践してみよう

(導入)姿勢を正して座ります。(天井から伸びた糸に頭部が吊るされているイメージなどで)

両手を太ももの上に置いて静かに目を閉じます。(浅すぎず深すぎず自然なペースで) 大きく5回深呼吸。

〈呼吸に集中する瞑想〉

自分の意識を呼吸に集中し、鼻から入って出ていく空気の流れだけに注意を向けます。

「調身・調息・調心」を行い心身を整えていきます。雑念が生じたと気が付いたら呼吸に意識を集中するよう努めます。瞑想を5~10分程度続けます。

(終了)集中させていた意識を、少しずつ自分そのものに戻していきます。自分に意識が集中できたら、ゆっくりと目を開けて瞑想を終了します。

 

発展〈ボディスキャンによる瞑想〉

瞑想中に緊張など不快な情報を確認したら、不快な感覚を呼気と一緒に吐き出すイメージを繰り返します。

静まったら、心の落ち着いた感覚を観察します。次に、光で頭の表面や内部をくまなく照らし、確認していくイメージを持ちます。頭の次に、両目、鼻、口周り、頬、顎、首、両肩、胸、背中、腹、尻、左右の太ももからふくらはぎ、両足底と順に身体感覚を観察していきます。瞑想中に緊張など不快な情報を確認したら、不快な感覚を呼気と一緒に吐き出すイメージを繰り返す。





紙ふうせんだより 4月号 (2024/05/27)

今日までの日は今日捨てて…

皆様、いつもありがとうございます。初々しい学生や新社会人が闊歩する季節になりました。新年度です、気持ちを新たに進んでいきましょう。

「批判」は悪い事?

新人教育の現場などでは、「最近の若者は批判を悪い事と思っているのか、批判する事ができないし批判される事にも弱い」などということが聞かれます。皆がそうなっているとしたら構造的な問題です。まことしやかに語られる原因は、「今の若者世代は同調圧力が強い」とのこと。本当なら「圧力」には上の世代が作り出した「空気」もあるでしょうから、責任はオジサンにもあります。

もっとも、柳田国男が古代オリエントの研究者のセイス教授から聞いた話として、エジプトの中期王朝の一書役の手録に「この頃の若い者は才智にまかせて、軽佻(けいちょう)の風を悦(よろこ)び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは嘆(なげ)かわしいことだ云々(※1)」と記されているというので、四千年前も今と同じことを言っているのです。

オジサンの若者批判は、世代刷新と文化変容に伴うありがちな構図です。オジサンが「ステレオタイプ(※2)」の反応をしているとも言えます。私はここでオジサンのぼやきを批判していますが、これはオジサンの否定ではありません。「批判」とは問題の意味や所在を明らかにすることです。




※1柳田国男(1875-1962)「木綿以前の事」

※2社会心理学のステレオタイプとは多くの人に浸透している類型化された固定観念で印刷術の鉛の原版(ステロ版)が語源




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批判的思考(クリティカルシンキング)のすすめ

「無理解」なオジサンとはどのように付き合ったら良いでしょう。戦うのか黙って丸呑みするのか極力スルーするのか。どれも良くありません。第一、オジサンは「仮想敵」ではありません。手始めに「無理解」との断罪に決めつけはないか、自分の思考態度を疑ってみましょう。その上で、疑問を感じたらきちんと聞き矛盾や誤りを見つけたら指摘をしましょう。

教育認知心理学の楠見孝は「マイサイド・バイアス(自分の信念が正しいと思ってしまうこと(※3))に陥らずに自他の思考を吟味するという、メタ的(※4)に一つ上の立場に立って考えること」が大切だと述べています。これをクリティカルシンキングと言います。もちろんオジサンの側も「最近の若者は…」と愚痴る前に、マイサイド・バイアスを疑うことが必要です。

「批判的思考のガイドライン(※5)」(Wade,1997)では、次の8項目を挙げています。

・問いをたてよ ・問題を定義せよ 

・根拠を検討せよ ・バイアスや前提を分析せよ

・感情的な推論(「私がそう感じるから真実である」)を避けよ

・過度の単純化をするな

・他の解釈を考慮せよ 

・不確実さに堪えよ

見通しが立たないことは不安です。焦りから責任を誰かに預けたくなります。解らないものを「解らない」と留保する「不確実さに堪え」なければ、人は安易な「決めつけ」を行ってしまうものです。どこからか与えられる回答に簡単に飛びついていては、物事を深く見ることはできません。感情の動揺や、結論を急ぎたい早く片付けたいという欲求から距離を置き、自分自身の「おごり」にも気を配り、自分と対象と状況の構図を俯瞰するべきなのです。




※3 バイアスとは偏見や先入観のことで、認知心理学で言う認知バイアスにはたくさんの類型があり、思考や判断に影響を与える。思考の効率化に資する面もあるが、事実誤認や思考停止を引き起こす等の悪影響もある

※4「高い次元の」等の意味で枠組みの外側に出て俯瞰するような視点のこと

※5 道田泰司「批判思考の諸概念」琉球大学教育学部紀要2001.9




ケア過程の展開に必要な最初の一歩

ケア理論でも重要視されているクリティカルシンキングは、ケア過程の展開を促進します。「常識がとらえた物事のみかけに対して、より洞察を求めるもの(※6)」であり「実践した行為を目的と照合し振り返ることで判断と知識を統合し、その場で起こっている状況を把握して、その後のケアに適用できる(※6)」からです。時には定着している常識を疑うことが大切です。

お泊りデイのフランチャイズ本部で、私が担当事業所の立ち上げ後の指導に出張した時のことです。利用者さんと昼食を共にし、生活の縮図である食事風景を観察しました。配膳時に女性の利用者さんが浮かない顔をして、自分の口元を触っています。その方の前にはペースト食が置かれました。しかしその認知症の方は、姿勢も良くムセずにお茶飲んでおり食事も問題なく自立で終了。

私は、MTGで「あの方はなぜペースト食なのですか?」と聞きました。管理者の回答は「契約の時にご主人が家でミキサーをかけていると言っていたから」というものでした。「医学的根拠は聞いていますか?お茶にとろみはついていませんよね?嚥下の問題があれば指示があるはずですが…(※7)」と問うと、ピンときた様子の介護職員がファイルを調べて根拠資料の無いことを確認しながら、「あの方、総入れ歯をよく外してしまうんです。そしてその顔が恥かしいのか、顔をよく撫でています」と発言。「皆さんが毎日ペースト食だったらどうですか?」と投げかけると、「ケアマネさんにペースト食の理由を聞いてみます!本人にも普通の方が良いか聞いてみます!」と返答。それから口数の少ないその方に説明を工夫して意向をくり返し確認します。

夕食の時間、荒く刻まれたトンカツが配膳されます。刻んであってもトンカツです。しかしその方は満面の笑みで問題なく完食なさいました。ケアマネも根拠を知らなかったことから、食が進まないことによりご主人のミキサー使用が常態化していったことが推測され、義歯安定剤を試みたのです。この後の展開は、ご主人にデイ対応での歯科受診の許可を頂くことになりました。先の職員は「義歯が合うようになれば装着していられるようになるし、顔の形も整いますよね」と、ケアの発展に意欲を見せます。

翌日のMTGで私は「お泊りデイは利用者さんのお家です。皆さんは単に預かるのではなく利用者さんの幸せの『責任』を負っていると自覚して、利用者さんの満足を第一に考えて下さい」とお願いしました。すると経営者が「私は親の介護で苦労をしたから、家族の苦労を引き受けようとこの事業を始めました。従業員には家族の意向を大切にしろと言ってきましたが、利用者さんのことも第一に考えるようにしていきます」と述べて下さいました。

 

自分や周囲の人を自由にする批判的思考

人は前提とした自分の考えを疑わないバイアス(確証バイアス)を持っています。そのためクリティカルシンキングでは、最初に思いついた考えや決定、すぐに利用できる方法や楽な決定に「固執するな(※5)」としています。より良い考えを導き出すためには、柔軟で多面的な視点に基づく論理的な推論の過程が大切です。

「固執」を手放すことが可能になれば、人の心はもっと自由になれるはずです。心構えを変えれば見方は変わります。見え方が変われば態度が変わります。すると状況も変わるのです。未来は過去の単純な延長線上にはありません。風が季節を運びます。桜が咲き散って姿を変えるように、自分自身を刷新していきましょう。

 

けふまでの 日はけふ捨てて 初桜   加賀千代女(※8)




 ※6尾形裕子「日本の看護実践におけるクリティカルシンキングの動向と今後の課題」北海道文教大学研究紀要2016

※7ムセのない不顕性誤嚥の場合は水分にとろみが必要

※8加賀千代女(1703-1775)表具師の娘で幼少より俳諧をたしなむ





※紙面研修は本月号はお休みです。


紙ふうせんだより 3月号 (2024/04/23)

「他者」と出会うことの大切さ

皆様、いつもありがとうございます。北風と太陽の綱引きのような、寒いのか暖かいのか「どっちなんだい?」という日々が続きましたが、春も本番です。気持ちを新たにして、草木が葉を伸ばすように、私たちもまた降り注ぐ光を捉えて成長していきたいと思います。

そこにある「価値」を発見すること

利用者さんが、「いつもニコニコして朗らかだねぇ。会うと元気を貰えるよ」と言って下さいました。対して私は「ありがとうございます。私の方こそ元気を貰っていますよ」とお答えしています。またあるヘルパーさんは、常日頃から「仕事が楽しいです。楽しい上に給料を貰えるのだから、本当にいい仕事です」と言って下さっています。どちらも訪問介護の実践がポジティブな相互作用となっています。喜びなどが好循環して掛け算のように増えているのです。

好循環は入口を誤れば起きません。「お金の為に働くのだから、給与額以上に労働の価値は無い」とか「この人からは得るものは無い」などと、自分中心の狭い了見で価値や利益を決めつけてしまったら、ゼロの掛け算です。原点に立ちかえり、自分とは異なる「他者」との出会いを積極的に肯定しましょう。ひとり一人の存在には掛け替えの無い価値があります。これを「尊厳」と言います。それは、他からの認識や評価の優劣や判断の有無に関わらず、それそのもの自体の絶対的な価値としてそこに存在しているものなのです。

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そこにある「光」に気が付くこと

イソップ物語には、北風と太陽が力比べをするお話があります。北風は、何でも吹き飛ばして見せると自慢気です。旅人が通りかかったので、北風は旅人の外套を吹き飛ばそうとします。しかし、風が吹くほど旅人は外套をしっかり押さえてしまうので、北風は旅人の外套を脱がせることができません。次に太陽が燦々(さんさん)と暖かな日差しを見せます。すると旅人はその暖かさに、自分から外套を脱いでしまいます。

実際に物を動かす運動の力は北風の方が優れており、太陽にはそれがありません。だから太陽は旅人が自分の力で外套を脱いでくれるように暖かい光を送り届けて、旅人の変化を待ったのです。人を変えるのは北風の説得よりも温かい態度です。これは支援者が持つべき態度ですが、違う解釈をしてみましょう。

様々な制約といった「北風」に気を取られていて、「太陽に気が付かない旅人」が私たちだったとしたらどうでしょう。利用者さんは、静かに「光」を送り届けながら旅人の変化を待っている「太陽」の位置づけです。自分なりに光っている利用者さんの人間らしい温かさに気が付いて、旅人が外套を脱ぐことができたらなら身も心も軽くなります。お互いに一皮むけるような変化が起きるかもしれません。

利用者さんを中心に回るケアへの転換は、天動説から地動説への転換とも言えるので、やはり利用者さんは「太陽」です。そうやって敬うことによって好循環も回りはじめます。そして、「光」に気が付つくということは尊厳の再発見であると同時に、利用者さんから向けられている親愛の情に気が付くことでもあります。

 

そこに「他者」がいるということ

しかし利用者さんは、親愛の情などを本当に私たちに向けているのでしょうか。このように問うと、「他人の気持ちの本当のところは解からない」という諦めに近い結論に落着させる人も多いと思います。ここで結論を断定すると、「他人が自分に対して何を考えているか、結局は解らないのだから自分はやりたいようにやるし、他人の気持ちは軽視してよい」という、他者を恐れ敬えない切断された関係に向かいます。これは、現代人の「自分を中心にすえる」思考様式の罠で、他者不在の「孤独」に陥ります。

このような限界を他者論(※1)の哲学を展開するレヴィナス(※2)は越えようとします。「自分が認識するから他者がある(※3)」のではなく、「他者が存在することによって私たちが存在する」との考え方の転換を行い、自分を起点として他者は理解不能という安易な「結論」に達するのではなく、他者を起点として自分や他人を知っていく「過程」を重視します。そして、自分中心の認識の限界を脇に置き、確かに存在する他者を最大限に尊重するのです。

レヴィナスは、他者の本質を「絶対的に他なるもの」とします。私たちは、安易な結論を求めて他人を自分の思惑や論理に回収してしまいがちです。しかし、それでもそこに予測不可能性を持ちながら「他者」は厳然と存在しています。他者から自分に向けられる眼差しや表情や言葉は「他者の表れ」であり、それに関心を払い、他者の表れ方に対して「自分の責任を負う」べきだとレヴィナスは主張します。それが、自分の殻から自分を引き出すことになり、「他者」との深い出会いとなるのです。他者は断定不能であると同時に、「私」を自己完結の孤独から救い出す「無限の可能性」を持っているのです。




※1 現代哲学での他者論は、他者は「無限に続く『他者』の連鎖」を成しておりどのような言葉や理屈を述べてもそれを否定する「他者」が存在することだけは決して否定できず、「他者」が現れるからこそ自己は、自己完結して停滞することなく無限に問いかけ続けることができる、としている。

※2 エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)現代哲学における「他者論」の代表的人物

※3 「我思う、故に我在り」と、あらゆる懐疑の上に疑いようのない自分が残ったことを起点とする近代哲学は、客観的に確かなものを積み上げて科学の発展には寄与したが、客観的に認識できない「他者」などについては範疇外となってしまった。




 「利用者さん中心」とはどのようなことか

 近年、他者論を土台とするケア理論も展開されるようになってきました。シュミット(※4)は「無条件の肯定的関心」が「承認」になるとして、「承認こそがパーソン・センタードという在り方の表れなのだ」としています。「承認」とは他者との出会いです。

シュミットは論考しながら、「パーソン・センタード・セラピーの展開(※5)」では「他者とは、同一化もコントロールもできない、私とは本質的に異なる存在である。それゆえ他者を知ることはできない。他者の他者性を破壊せず関係を結ぶには、ただ共感し、承認することである。また理解し得ない謎を含んだ、無限の他者こそが、自己の限界を克服する。他者に出会うには、何よりもまず、他者が真に『向こう側に立っている』と理解する必要がある。反対側に立たずして出会いはない。この隔たりが、他者を、自立的な価値ある個人として尊重する」と、まとめています。

 自己と他者の動的な関係

 利用者さんの前に立つとき、「利用者さんは、私と良い関係になりたいと願っているか?」と問うことは誤りです。「関係」の責任を利用者さんに問うのではなく、「自分が何を願って利用者さんの前に立っているか?」なのです。私たち支援者が他者のありのままの承認に努め、ありのままがどうあれ「どのようにその前に立つのか」と自らを問う時、私たちは自己自身と成り得ます。

 自分の中にある温かい気持ちを確認しながら利用者さんの前に立つこと。温かい開かれた態度で「他者の表れ」を受けとめること。それができた時、私たちは暖かい「太陽」です。その時、同時に利用者さんもまた私たちの真ん中で光り輝く「太陽」となります。この共時的な承認の応答関係の循環が、人に「生きてて良かった」と思わせるのです。




※4 ペーター・シュミット

※5 関西大学心理臨床センター紀要「対話・他者との『出会い』の哲学から考える無条件の肯定的関心」白﨑愛里





紙面研修

紙面研修

「共生社会の実現を推進する」

【認知症基本法】

 いわゆる「認知症基本法」が2024年1月1日に施行されました。これは、認知症の人が2025年には700万人(高齢者の5人に1人)に達すると予測が背景にあります。認知症とどう向き合っていくかということは、誰にとっても身近なものになりました。国や自治体や企業もこれを避けて通ることはできません。

認知症の方は“異物”として社会から排除されがちですが、それを容認すれば誰の利益にもならないどころか社会そのものが歪んでしまいます。そのようにならないために、「共生社会の実現」を目的として、社会全体に共通認識の枠組みを作る必要がでてきました。

「共生社会の実現を推進するための認知症基本法」

第一条 この法律は、我が国における急速な高齢化の進展に伴い認知症である者が増加している現状等に鑑み、認知症の人が尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすことができるよう、認知症に関する施策に関し、基本理念を定め、国、地方公共団体等の責務を明らかにし、(中略)

認知症施策を総合的かつ計画的に推進し、もって認知症の人を含めた国民一人一人がその個性と能力を十分に発揮し、相互に人格と個性を尊重しつつ支え合いながら共生する活力ある社会の実現を推進することを目的とする。

基本理念
  • ・全ての認知症の人が、基本的人権を享有する個人として、自らの意思によって日常生活及び社会生活を営むことができる。
 
  • ・国民が、共生社会の実現を推進するために必要な認知症に関する正しい知識及び認知症の人に関する正しい理解を深めることができる。
 

・認知症の人にとって日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるものを除去することにより、全ての認知症の人が、社会の対等な構成員として、地域において安全にかつ安心して自立した日常生活を営むことができるとともに、自己に直接関係する事項に関して意見を表明する機会及び社会のあらゆる分野における活動に参画する機会の確保を通じてその個性と能力を十分に発揮することができる。

 
  • ・認知症の人の意向を十分に尊重しつつ、良質かつ適切な保健医療サービス及び福祉サービスが切れ目なく提供される。
 
  • ・認知症の人のみならず家族等に対する支援により、認知症の人及び家族等が地域において安心して日常生活を営むことができる。
 
  • ・共生社会の実現に資する研究等を推進するとともに、認知症及び軽度の認知機能の障害に係る予防、診断及び治療並びにリハビリテーション及び介護方法、認知症の人が尊厳を保持しつつ希望を持って暮らすための社会参加の在り方及び認知症の人が他の人々と支え合いながら共生することができる社会環境の整備その他の事項に関する科学的知見に基づく研究等の成果を広く国民が享受できる環境を整備。
 
  • ・教育、地域づくり、雇用、保健、医療、福祉その他の各関連分野における総合的な取組として行われる。
《行政や立法の責務》

基本理念にのっとり、認知症施策を策定・実施する。法制上又は財政上の措置その他の措置を講じなければならない。

《国民の努め》

国民は、共生社会の実現を推進するために必要な認知症に関する正しい知識及び認知症の人に関する正しい理解を深め、共生社会の実現に寄与するよう努める。

《福祉・医療事業者の努め》

国及び地方公共団体が実施する認知症施策に協力するとともに、良質かつ適切な保健医療サービス又は福祉サービスを提供するよう努めなければならない。

《その他の事業者の責務》

日常生活及び社会生活を営む基盤となるサービスを提供する事業者は、その事業の遂行に支障のない範囲内において、認知症の人に対し必要かつ合理的な配慮をするよう努めなければならない。




「私たちのことを私たち抜きで決めないで」

ある利用者さんが「俺は禁治産者だ。人権を奪われた」と嘆いていました。事実ではないのですが、生活上の望まない制限が重なり我が身を嘆いての発言でした。「禁治産者」とは障害や病気により心神喪失の常況にある人が家族等の申立てにより「財産を治めることを禁じられた者」と家裁で認定を受けたものです。差別的なニュアンスを含んでいたこの制度は1999年の民法改正で「成年後見制度」に変わりましたが、現在も、認知症に対する社会の無理解が見られ専門職が主導する偏見もあります。

今回の基本法制定は、無理解や偏見に起因する差別を解消する意図を含み、認知機能に障害があっても「社会を構成するフルメンバーとして受け入れる」と宣言するものです。「私たちのことを私たち抜きで決めないで」とは、2006 年に国連で採択された「障害者権利条約」(日本は2013年に障害者差別解消法を制定して2014年に批准)の策定時の合言葉でしたが、参画する権利を有する「私たち」の中に、「認知症の方」も入らなければならないのです。




考えてみよう

認知症の方を社会で共生する「他者」として、「社会を構成するフルメンバー」として迎え入れる為には、社会や自分は何をどう変わるべきだろう。





紙ふうせんだより 2月号 (2024/03/19)

禍を転じて福となす

皆様、いつもありがとうございます。「立春」の前日、季節の分かれ目のこの日は「節分」です。変わり目に現れる邪気や疫鬼を払い、古い年を送りだして新たな年の春の陽気と吉福を内に迎えるこの行事の歴史は古く中国から伝来し、室町時代の記録(※1)には「散熬豆因唱鬼外福内」とあり、今と同様の掛け声をして、魔目(豆)を投げて「魔滅」を祈願していました。

「節分の夜、父が各部屋を回って、部屋の窓から外に向かって『鬼は外!』と豆をまいていた。そこかしこの家から掛け声が聞こえてきた…」、これは利用者さんの思い出です。




※1 相国寺の僧、瑞渓周鳳の文安4年12月22日(1449年1月16日)の日記




鬼は本当に「外」であるべきか

「鬼は外、福は内」の掛け声ですが、地域によっては「鬼も内」と言うところがあります。その由来は様々で、鬼を神や神の使いとして祀(まつ)っていたり、鬼が逃げないようにという配慮であったり、鬼の改心の可能性を考えたり、不動明王と鬼が重ね合わされるなどがあります。

これらは「鬼」の持っている多義性の表れと考えられます。福知山市の大原神社では、鬼(災厄)を神社の内に迎え入れるために「鬼は内」と呼びかけ、受容された鬼はお多福に変身(改心)し、「福は外」と言って恩返しに福を地域に送り出すそうです。

「鬼」という漢字は、元来「死体」を表す象形文字でした。中国では「鬼」は死者の姿形のない「霊魂そのもの」とされてきましたが、日本に伝わると姿形のない「恐るべきもの(※2)」の概念に「鬼」の漢字が当てられるようになったと考えられます。卑弥呼が用いたまじないは「鬼道」でしたし、万葉集や日本書紀では「鬼」を「カミ」と読む場合もありました。

日本では、「鬼」の言葉に様々な意味が重ねられるようになります。その本質は、病のいくつかは鬼によってもたらされる「鬼病」であると考えられたように、「鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在(※3)」としてイメージされてきました。日本各地で行われる「来訪神(※4)」の行事は、ナマハゲに代表される仮面を被った異形の存在が人々を怖がらせますが、人々のもてなしによって教訓や福を残して去っていきます。




※2 折口信夫

※3 岡部隆志

※4  10件の重要無形民俗文化財の地域行事がユネスコ世界遺産に登録されている。




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「トリックスター」との関わり方

分析心理学(※5)には「トリックスター」という考えがあります。トリックスターは、破壊や反道徳ないたずらをして状況に対して否定的に働きますが、新たな価値や秩序をもたらす創造性を合わせ持っています。このような両義的な「働き」は神話や物語や人間関係や人の心の中に現れるのですが、鬼の持っている秩序を引っかき回す来訪者のイメージは、まさにトリックスターです。

民話「こぶとり爺さん」の鬼は宴を開いていて騒がしく異様で恐ろしくもありますが、陽気なお爺さんが楽しく関わったら、鬼は喜んで長年の“しこり”を取り去ってくれました。一方で自分本位の欲張り爺さんの方は、自分の利得のために利用しようと鬼を軽んじたら、鬼を怒らせて余計に損をしてしまいます。

恐れ敬うべき対象に対して忌み嫌ったり、軽んじてしまっていては禍となりますが、敬い大切に扱えば福となるのです。




※5  C・G・ユングの提唱した心理学。無意識には歴史的文化的な積み重ねにより培われた集合無意識があるとし、心に鋳型のような働きをする「原型」を重視したことから原型心理学とも呼ばれる。




意味や価値は最初からは決まっていない

中国の戦国時代、斉が燕を攻めて(紀元前314年)領地を奪うと、燕の蘇秦は斉王の元に赴いて領地返還を訴えます。そして、「昔から『禍を転じて福と為なす』という言葉があります」と述べて和平を提案しました。大昔の昔から、否定的な物事の価値的転換は、主体的な意識の持ちようで可能であると言われてきました。なぜ転換が可能となるのでしょう。

私たちの日常的な意識は、「ケンカは悪い」というように、あらかじめ物事の善悪を決めてしまっています。しかし、本当は「雨降って地固まる」との言葉のように、違う価値もそこには存在しています。物事の存在に対する意味付けは、人間による社会的な関係の中からの「後付け」なのです。

これを実存主義哲学者のサルトル(※6)は「実存は本質に先立つ」と言いました。「現実存在は、意味付け(本質)より以前から存在している」という意味です。言い換えれば、本当は多義的な意味の「重ね合わせ状態」にある存在から、人は認識の限界の中で「有用、無用」等を言い立てて、一部の意味のみを自己都合で引き出しているのです。

これは量子力学の原理と重なるイメージです。量子力学では、物質の最小単位である量子は、運動や位置や性質などの状態像が未決定の「重ね合わせ状態」で存在しているが、観測によって初めて状態像が確定するとしています。私たちが物事から受け取る価値もまた、自分自身の観測(意味付け)によって、自分にとっての価値が定まってくるのです。




※6  J.P.サルトル(1905-1980)は「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。




「価値」を発見するのは誰?

人の認識は経験によって狭められがちです。それに気が付いて、無意味に見えるようなことからも価値を発見できれば人生は充実します。例えば「病気」には利益があるでしょうか。「一病息災」との言葉は、「一つくらい病気を持っていた方が、自分の身体の声に耳を澄ませて節制や養生をするので、かえって健康な人よりも長生きする」と、病気の価値を肯定しています。

では、最悪な人物との出会いはどうでしょう。ある利用者さんが郷里の史跡の「黒塚(※7)」や土地の伝説について話して下さいました。能の演目でもある「安達原」のお話です。

諸国行脚の一行が一夜の宿を求め、老婆は断り切れず応じます。修行中の山伏(※8)に老婆は「人としてこの世に生を受けながら、こんな辛い浮き世の日々を送り、自分を苦しめている。なんと悲しいことでしょう」と身の上を嘆きます。老婆は暖を取るために薪拾いにでかけます。奥の部屋だけは覗いてはならないと言い残して。しかし山伏の連れが覗いてしまいます。部屋には人の死骸の山がありました。秘密を暴かれた怒りや悲しさで老婆は般若の相で追いかけてきます……。

昔、老婆は都で乳母をしていました。姫様の病を治したい一心で「胎児の生き胆が効く」との易者の言葉を信じて旅にでます。時がたち機会が訪れました。老婆は旅の妊婦に宿を与えて手を掛けます。しかし、殺めてしまったのは母を探す自分の娘だったのです。老婆は自分のした事の本当の意味を知って苦しみ、「鬼」になってしまったのです。

しかし、鬼婆になっても心の中には善意や愛情や人間らしい感情が同居しています。山伏の法力で鬼婆が退治される場面では惻隠(そくいん)の情が呼び覚まされます。善悪が心の中に同居する人間の業を思い知って我が事のように心を痛めた山伏は、その後の生き方を改めたことでしょう。

どんな人にも生きてきた意味があります。その意味を感じ取ったときに、そこから自分にとってのどのような価値を導き出すかは、自分自身の課題なのです。




※7 福島県二本松市には鬼婆が住んだとされる岩屋や墓が現存する。しかし埼玉県や岩手県にも同様の伝説が伝わる。

※8 東光坊祐慶(紀州の僧)
伝説は奈良時代(726)だが、同名の僧(-1163)が平安時代に実在する。





 

 


紙ふうせんだより 1月号 (2024/02/27)

竜を治める者

明けましておめでとうございます。お世話になっている皆様に感謝申し上げます。今年は辰年です。十二支の中で唯一伝説上の生きものです。時々、過去の干支の置物が飾ったままの利用者宅があります。その干支の頃までは自分でなんとかやって来られたと察するのですが、入れ替えを放擲(ほうてき)せざるを得ない「変化」がその年の間に生じてしまったのでしょう。

未知の物事を「恐れ敬う」こと

 人は、現在の安寧(あんねい)を脅かす「変化」を恐れます。しかし万物は流転します。だから人は、変化という根源的な力の発現を敬いもします。恐れるか敬うかによって、導かれる意味は両義性を持ちます。

「老い」という変化を恐れるばかりでは、それを悪化や理不尽な痛みにしてしまうでしょう。一方で、先達に対するように自らの老いを敬えば、変化を好機として良いことも見出せるはずです。かといって、「恐れるに足りず」という態度では、慢心からフレイル(※1)や転倒骨折となりかねません。古(いにしえ)より人は、自らの手に余るものや人間の思惑によって制御できないものに対しては、「正しく恐れ敬う」ことを旨(むね)としてきました。

 「老い」に直面した利用者さんは、必然的にそれぞれのやり方で老いを畏怖(いふ)するようになります。そのような時に、老いに慣れっこになっている支援者の態度が不遜(ふそん)なものとして目に映れば、ケアに拒否感を抱いてしまうことはあるでしょう。支援者がとるべき姿勢は、利用者さんと共に揺れる気持ちを共有しながら、適切に「恐れ敬う」ことを利用者さんに示していくことではないでしょうか。少しだけ「老い」について知っている私たちは、それを神聖なものに見立てて譬(たと)えるなら、利用者さんと老いの仲立ちをする「巫女(みこ)」のようなものと言えるかもしれません。

しかし、介護ニーズをネガティブ面からのみ捉えて(「老い」を恐れる家族と一緒になって)「対策」ばかりを考えていては、「不安」は決して解消されません。不安は「老いを適切に恐れ敬うこと」ができていない、その向き合い方の中から生じているからです。不安から逃げたい人に、魔法の薬を提供してみせるような「専門家」ぶった態度は、私たちを「毒薬を提供する魔女」に変えてしまうかもしれません。




※1 老年医学の概念で「虚弱」と訳される。心身が衰えた状態を指すが、適切な対応で回復する可能性を併せ持つ状態。要因に多面性があり、「心や認知機能」の虚弱、「身体」の虚弱、「社会性」の虚弱等などが相互作用して起こる。予防と早期対応が重要。




「神獣」であり「怪物」である根源的な存在の「竜」

竜もまた善悪理非(ぜんあくりひ)という両義性を持っています。古代メソポタミアの大河は、適度な氾濫なら肥沃な土地をもたらしましたが、ひとたび暴れれば人家を呑み込みます。河川の力や自然の脅威は竜の現れとされ、竜は大河を統べる王権の象徴にもなりました。しかしローマ皇帝がキリスト教を弾圧すると、竜はキリスト教から邪悪の化身とみなされるようになります。

一方、古代中国の漢の高祖劉邦(りゅうほう)には、雷と共に母親の上に竜が現れ懐妊したという出生伝説があり、日本書記では神話上の最初の天皇とされる神武の母親は海神(わだつみ)の娘であり竜の化身とされてきました。東洋では、王権と神威(しんい)が西洋のように分離されず近代文明に遅れた面もありますが、根源の多義性の表象としての「竜の両義性」は分離せず保たれていきます。

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物事の奥にある多義性を尊重する

やがて西洋では、竜を倒し姫や宝を手にする英雄譚(たん)が好まれるようになります。C・Gユングは、「神話の英雄は『目覚めた自我の典型的な姿』であり、その冒険行は『自己化の道』である」としています。冒険は困難です。近代自我が科学や人権思想を発展させ、「個人の確立」が努力の報われる社会への可能性を拓きましたが、同時に目覚めたことによって人は孤独を知りました。両義的存在の竜は「倒して終わり」にはできません。

人には意味を明らかにしたい欲求(不安)があるので、物事の表層的意味付けは時代が下るほど単純化されます。だからこそ、物事の根源的な意味の「重ね合わせ状態」を再認識し様々な物の見方をしていかなければ、生活実感は貧しくなります。心を豊かにしていく為には近代合理主義による人間の疎外(※2)を乗り越えて、多様な意味を含み持つ自己の全体性に気が付いていくことなのです。

西洋医学は、「死と生」の両義性を持つ「命」に対しても両義性を分離させ、悪と見なされる「死」の側にある「病や老い」と対決し、退治しようと試みてきました。その成果は超高齢化社会に表れています。

私たちは、病や老いから生じる苦悩を克服できたでしょうか。私たちは、「死」を恐れ、生活の中から一度はそれ追い出してみても、いつか病や老いに追いつかれ、その手に捉えられます。その時、適切に「恐れ敬う」ことをされてこなかった神が「祟(たた)り神」となるように、軽視したり目を逸(そ)らせたりしてきた者ほど「死」への想念が呪縛(じゅばく)と成り得るのです。

高度情報化により安易な正解に依存して誤答を恐れる「不安」な時代だからこそ、解ったふりをせずに「敬う」ことが一層重要になってくるのではないでしょうか。




※2 人間疎外とは、社会の巨大化や複雑化とともに、社会において人間というのは機械を構成する部品のような存在となっていき人間らしさが無くなることをいう。しかし、労働の意味を「お金の為の苦役」か「生きがい」とするかは自分次第でもある。




自分の片割れを受け入れて「均衡」をはかる

心理学者の河合隼雄は、ル=グウィンのファンタジー三部作「ゲド戦記」を解釈しながら竜について、「それは人間にとって時には、あるいは、一部は退治する必要があるが、すべてを退治すべきではないし、また、することはできないものだ」「竜は人間にとって『均衡』」をはかるべき、きわめて困難な相手なのである。西洋の物語において、竜退治の話が多かったときは、均衡よりも、『支配、統率』の価値が重く見られていたことを示す」と語っています。

若者は世に出ていくために自らを「支配、統率」する「強さ」を身につける必要があります。しかし、自分が追いやったように見える「弱さ」は、影のように静かについて回ります。いつかはその片割れの自分と自己統合を成し遂げなくてはなくてはなりません。それは、人生をかけた大仕事となります。

「ゲド戦記」は、自らの若さと傲慢と嫉妬により影を呼び出し世界の均衡を壊しかけたゲドが、「行く手にあるものよりも背後にあるもの」への恐怖から、自ら危険を求めて竜に挑み協定を結び、さらには逃げ回ってきた影に対して立ち向かい自己統合を果たしていく物語です。そして、三部目では、「大賢人」と称された後の年老いたゲドが「わしにはわかるのだ。本当に力といえるもので、持つに値するものは、たった一つしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ」と語っています。

「敬う」とは、他人や物事に対して敬意を払い、その存在や価値を受け入れていくことです。他者や高齢者や自己や死を敬うこと、その本質は同じです。それができる者は、荒ぶる竜を平定するように心の「不安」を治め、竜や人や死の可能性を善導し、やがては「竜王」や「大賢人」と称されるようになることは、物語が述べているところです。


紙面研修

紙面研修

「フレイル」について


↑画像は、都パンフレット「住み慣れた街でいつまでも-フレイル予防で健康長寿-」より

 

 

※ロコモ:ロコモティブシンドロームの略称。骨や関節、筋肉など運動器の衰えが原因で、歩行や立ち座りなどの日常生活に支障を来している状態のことをいいます。

サルコペニア:加齢に伴って筋肉量が減少する状態のことをいいます。

 

 

考えてみよう
  • フレイルは、社会的なつながりの減少などで生活範囲が狭くなることが一般的な入口とされています。どうしてこのような「社会性の虚弱」が生じるのだろう。
  • ヘルパーに「それ以上はやらなくて良い」「やったら早く帰って」と言うような「社会性の虚弱」が見られる方の生活範囲を拡げ、身体を動かしたり心や頭を使ってもらうなどして活性化して頂くためには、支援にどんな工夫が必要だろう。

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