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紙ふうせんだより

紙ふうせんだより 6月号 (2016/09/15)

皆様、いつもありがとうございます。雨天時の自転車操作は注意して下さい。スピードの出し過ぎや急ブレーキは衝突や転倒の原因です。

さて事務所としましては、総合事業への移行など制度改正への対応で、2月頃からとても忙しくしていましたが、ようやく落ち着いてきました。

ところで、介護保険の制度改正と言えば、平成27年4月の、介護報酬の大幅なマイナス改定(身体2 404単位→388単位)がありました。そして、平成26年4月は、消費税が8%への増税にともなう、微増の改定(身体2 402単位→404単位)がありました。そのまた少し前、平成24年には生活援助の時間短縮(実質的な給付抑制)もありました。本来、介護保険制度は、制度の安定と発展性から3年に1回の見直しが原則となっていますが、こんなに頻繁に制度が変わっては、安定性もあったもんじゃありません。振り回される事業所はたまりません。重要事項説明書等の差し替えなど、追加の業務が山のように積みあがるばかりです。平成27年8月からは、一部の利用者(年金換算で単身280万以上、夫婦で346万以上の世帯)の自己負担が2割に変更にもなりました。どうしてこんなにコロコロと変わるのか、ここ最近、介護保険に限らずさまざまな政策が“拙速”のように感じます。

介護保険制度、これからどうなる?

特筆すべきは、平成27年4月の介護保険史上初のマイナス改定です。その影響を今年の1月の業界ニュース(ケアマネジメントオンライン)から拾ってみます。

「東京商工リサーチは1月13日、2015年(1月~12月)の全国の老人福祉・介護事業の倒産件数が、過去最多の76件(前年54件)であったと発表した。」マイナス改定が、経営継続への意欲を奪いトドメを差した事が想像されます。

また、「訪問・通所介護を運営する法人の4割超が赤字運営であることが、日本政策金融公庫総合研究所の調べにより、1月26日、明らかになった。」「撤退や縮小を考えている企業も、訪問介護で8.6%、通所介護で8.4%」とあります。介護保険制度の先行きに対して明るい観測を持っている事業者は多くないのです。

このような発表が相次ぐなかで国は一体どのような舵を切るのか、東京新聞の今年の1月21日の朝刊には、このような見出しが出ていました――

介護保険、家事援助除外も 軽度者対象の自己負担を検討(東京新聞見出し)

厚生労働省は二十日までに、介護の必要度が比較的低い「要介護1、2」の人を対象に、在宅での生活を援助するサービスの在り方を見直す方針を固めた。掃除や調理、買い物などの援助を介護保険の対象から外し、原則自己負担とすることを検討する。膨張する社会保障費を抑制する狙いがあるが、負担増につながる高齢者の反発も予想される。

トイレや入浴などの介助をする身体介護は見直しの対象とはしない。社会保障審議会の部会で二月から議論を始め、年内に結論を出し、二〇一七年の通常国会での法改正を目指す。

見直しの対象となるのは、主に介護ヘルパーが自宅を訪れる訪問介護の生活援助サービス。一三年度の厚労省の調査で、訪問介護の利用者のうち生活援助サービスだけを使う割合は、要介護1は50%を超えるため「ヘルパーを家政婦代わりにしている」との指摘が出ていた。財務省も昨年、介護の必要度が低い人については原則自己負担とするよう求めた。(後略)  (東京新聞 H28.1.21)

 

「介護の必要度が低い人については原則自己負担とする」とありますが、そもそも要介護度というものは、国の厳密な基準に照らし合わせ判定されたもので、“介護が必要だ”との国のお墨付きなのです。それを介護の専門家でもない財務省の“要介護1、2には介護(生活援助)は必要ない”というような主張はいかがなものでしょうか。

社会保障審議会の部会でも「生活援助を担うヘルパーが来なくなることで、利用していた人の状態悪化の兆候に気づかずに対応が遅れる」「介護保険からの軽度者外しは重症化を招く」との声が出ています。また、要支援(総合事業)ではサービスが自己負担1~2割で受けられるが、要介護になると生活援助は全額自己負担というおかしな事態になります。それとも総合事業と同じように、区市町村へ負担を押し付けようというのでしょうか。

平成27年度のマイナス改定をめぐる動き

平成26年11月、安倍首相は平成27年度に予定されていた消費税10%への増税を先送りの決定をし、財務省は恨みを飲みました。そのころ財務省は、「特別養護老人ホームにおいては、巨額の内部留保の存在が確認されている。→ 今後は内部留保が蓄積しない水準まで介護報酬水準を適正化することが必要。」(10/8財政制度分科会資料)と主張しています。そのため介護業界では、来年度改正は、特養はマイナス改定かもしれないが他の業種は現状維持と観測されていました。しかし蓋を開けてみると、翌年2月6日「賃金・物価の状況、介護事業者の経営状況等を踏まえた介護報酬の改定率は、全体で▲2.27%である」(介護給付費分科会)と、全ての介護事業のマイナス改定の方針が決定されます。4月開始にもかかわらず介護報酬の具体的な数字は「案」しかないという稚拙ぶりで、役所から介護事業所まで大混乱です。これは消費増税を見送る代わりにマイナス改定を財務省に差し出したという構図です。

消費税の増税の見送りと介護保険改正の関連性

これまでの動きを見ていくと、消費増税見送りの見返りとして介護給付費の削減を行うというのが政府の方針と考えて間違いないでしょう。2月18日の朝日新聞では「今夏の参院選を控えて与党議員が高齢者の負担増や給付減の議論に敏感なため、本格的な議論は参院選後となる見通しだ」と報じています。このままだと、来年度には要介護1・2の方の生活援助は全額自己負担が決定されてしまい、実質的には生活援助が使えなくなる事態となるでしょう。福祉用具や住宅改修も全額自己負担となります。住宅改修を見送ったばかりに転倒してしまう利用者さんも出てくる事でしょう。ヘルパーの買い物が命綱という利用者さんも多くいます。ヘルパーさんの仕事も減ってしまいかねません。

アベノミクスとして現在、日本銀行は日経平均採用225銘柄のうち約200社で保有率上位10位内に入る大株主となっています。また、政府は国民の資産である年金も株式市場に投じました。このような政府による株価釣り上げで利益を得た方もいるでしょう。しかしその後の株価下落で年金積立金管理運用独立行政法人の昨年度決算は、5兆円を超える運用損失が出ています。継続的な社会保障政策の実現の為には景気浮揚策や財源論も大切です。しかしそこで働く人を含めて、基本的人権とも言える“生活の継続性”も考えて欲しいのです。そして、何のため誰のための社会保障なのかという原点を忘れないで頂きたい。現場にいる私達は利用者さんを目の前にして、その方にとっての幸せを思い描いているのです。

★震災時対応について③★

まずは自分自身の安全確保と家族の安否確認は、ヘルパーさん含め全ての方の優先事項です。ただ、営業時間内の被災であれば、家族の電話が通じないなどの状況あるでしょう。その場合は焦って行動しない事です。自身の安全確保しつつ他の従業員との連携図りつつ冷静に対応しましょう。最終的には、全体状況の情報収集と利用者安否確認、そして高優先度順に利用者宅訪問へと行動は集約されていきます。

訪問介護としては、利用者安否確認に先立ってはヘルパーさんの安否確認がより重要になりますが、その対応は、「会社に報告」から「情報収集」までの流れと理解して下さい。ヘルパーさんも自分自身の状況を会社に報告をお願いします。しかし、やはり電話が通じない事もあるでしょう。災害伝言ダイヤルを活用しつつ、ヘルパーさんの行動も「帰社」(通常時は馴染がないかもしれませんが)が必要になってくるかもしれません。ヘルパーさんの行動も社員の行動も、基本的な考え方は同じです。

【災害時対応のケアプラン上の位置づけ~世田谷区への質問~】

「災害が起こった際に、利用者の安否確認を行い必要があれば“落下物の片付け”“安全なところへの移動介助”“食料の買い出し”などを臨時対応として行われると考えるが、それらを介護保険(訪問介護)で算定できるか。またその為に必要な事(ケアプランへの明記・内容等)は何か、具体的にご教示して下さい」と質問したところ、回答は「臨時対応は介護保険で算定できる。但し安否確認のみでは不可で、“何か”を行えば可。しかし“救助活動(と判断される記録)”は不可。ケアプランへの災害時対応の明記は望ましいが、無くても算定できる」との事でした。ケアプランへの明記は取り組んでいきたいところです。

【年休(有給)について】

年次有給休暇は雇用形態に関わらず、全ての労働者に適用されます。

週所定 労働日数 年間所定 労働日数 勤続年数
6ヶ月 1年 6ヶ月 2年 6ヶ月 3年 6ヶ月 4年 6ヶ月 5年 6ヶ月 6年 6ヶ月以上
4日 169日 ~216日 7日 8日 9日 10日 12日 13日 15日
3日 121日 ~168日 5日 6日 6日 8日 9日 10日 11日
2日 73日 ~120日 3日 4日 4日 5日 6日 6日 7日
1日 48日 ~72日 1日 2日 2日 2日 3日 3日 3日
 
* 週所定労働時間が30時間未満であり、かつ、所定労働日数が週4日以下又は年間216日以下の場合は以下の表の日数が法律上認められています。(週30時間以上・週4日以上の場合は、常勤と同じ扱いになります。)

時短労働者(パート)の年休取得時の給与計算は、平均賃金方式で、以下のような計算方式があります。
平均賃金の1日分 =前3ヶ月の賃金合計÷その期間の暦日数
 ※週所定労働日数が1日にも満たない場合(不定期勤務)の場合は、年休は発生しません。

皆様に、紙ふうせんだより発送時に配布している「休暇申請書」は“希望休”の申請のため、年休の申請とはなりません。年休の申請書は事業所にあります。

 

 


紙ふうせんだより 5月号 (2016/09/15)

皆様、いつもありがとうございます。雨の降りかたがだんだん梅雨みたくなってきましたね。長雨の季節はだしっぱなしの食品のカビや腐敗などに注意しましょう。食中毒(急性の胃腸炎)の危険性も高まります。手洗い等を積極的に行って下さい。

障害者の権利に関する条約

さて、平成28年4月1日から「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」(障害者差別解消法)施行された事はご存じでしょうか。この法律の前提となっているのは、2006年12月に国連総会にて採択された「障害者の権利に関する条約」(以下、条約)という国際条約です。ここに至るまでの人権や差別に関する歴史的背景は、26年9月号の紙ふうせんだよりを読んで頂きたいのですが、この条約を批准する条件として、具体的な国内法の整備などがありました。日本は国内法の水準が国際条約を満たしていないために、2011年「障害者基本法」改正、2013年「障害者差別解消法」成立という法整備のもと、2014年1月20日にようやく140番目の条約批准国となりました。(国連加盟国は193か国)

(条約 第2条)「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
この条約の要は、障害者への「合理的配慮の否定」を「差別」と位置づけているところでしょう。簡単に説明すると、健常者が普通にできている事を同じように障害者も行えるように環境や設備の整備をしなければ、それは「差別」にあたるという事です。先日、電動車椅子利用の脳性マヒの方が、紙ふうせんの事業所の門の前で、社員に用事がありつつも声をかけられずにしばらく待たれており、遅れて私が顔を出すと「福祉やってる会社なんだからさ~、インターホンとかつけたらいいんじゃないの~」と冗談交じりにおっしゃっていました。その方の言われる事はもっともで、インターホンをつける等の配慮を怠り続けると、それは「差別」と定義されるのです。このような「差別」は、実はいたるところであります。それらについて、東洋大学経済学部教授の山田肇氏は自身のブログで「障害者権利条約は人権条約である。障害者の人権は、今まで必ずしも守られていなかった。」とした上で、「障害者権利条約の批准は、このように障害者に大きくプラスに働くだろう。またそれは、高齢化に伴って身体機能に低下が進むことが多い高齢者にも役立つだろう。」としています。

障害者に対する差別の具体例

山田肇氏は、参政権を例に差別の実例を説明しています。(以下の囲みはブログより引用)

投票所入場券が郵送されてきても視覚障害者には内容が伝わらず、代読をヘルパーに頼もうとしても、週に一度しか来ないなどの事情で、投票日が過ぎてしまう事態も起きていた。投票所の場所がわかりづらかったり、点字ブロックがなかったりもした。視覚障害者は代理投票の際、声で候補者名・政党名を言うことになるが、その声が遮蔽されないため、投票の秘密が守れなかった。総務省が公表する候補者名簿が画像PDFで音声読み上げできないという問題も参議院選挙で起きた。

投票所に車いすで入れるかわからなかったりなど、投票所入場券には基本的情報の提供が欠けている。投票用紙の記入台の高さは、普通人が立って記入することしか想定しておらず、車いす利用者や長時間立ち続けるのが困難な高齢者などは、投票用紙に記入できない。

街頭演説という候補者にじかに触れる機会を、手話通訳が禁止されているので、聴覚障害者は利用できない。一般的な手話通訳に比べ特異性(時事単語への対応、公職選挙法の知識等)があるので、政見放送や街頭演説に特化した手話通訳士の養成も必要だが、まったく取り上げられていない。

このように障害者の参政権は、社会の側に配慮が欠如していたために、制限されていた。ましてや障害者が立候補するなど、立候補手続きのバリアフリー化や政見放送での代理人による演説などを進めない限り、不可能に近かった。しかし、条約を批准した以上、これからは選挙権・被選挙権に関わる差別は許されない。

これらを見ると、差別をしようとしている意図が全く無かったとしても、結果として「差別」が生じていたという事実が理解できると思います。条約が画期的なのは、合理的配慮を欠く事により障害者が普通の人と同じように生活する権利を侵害されるという、“制度化されていない陰の差別”をも、差別解消法などを制度化する事によって、解決していこうとする志の高さです。障害のある方にとってどんな社会的障壁があるのか、パラリンピック・オリンピックを控えている今こそ、社会全体で考えていく必要があるでしょう。

どんな人も生活しやすい社会を目指して

障害者基本法では、「障害者」の定義を『身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であって、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。』としている。社会になじめずに生きづらさを抱えている発達障害も定義に入っていますし、「継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」という表現は、要介護高齢者なども該当するでしょう。幅広く理解されるようになった「障害」に対して社会の側が合理的配慮を行うようになれば、障害の有無の区別なく、どんな人も生活しやすい優しい社会となるでしょう。「“障害者だから”特別あつかい」は時代遅れのイメージなのです。

これまで「障害」という困難は、障害者自身の心身機能(病気等)が原因と考えられてきましたが(医学モデル)、条約等の理念は、「障害」の真の原因はさまざまな機能障害をもった人がいるという事を考えないで作られた社会の仕組み(社会的障壁)こそが、「障害」の原因としています(社会モデル)。この考え方が明確になったのは、1975年の国連「障害者の権利宣言」ですが、40年を経てついに解決を目指す義務が国際標準となったのです。

現在、紙ふうせんでは障害手帳をお持ちの方が一名、移動支援のヘルパーとして活躍しています。仕事(社会参加)をしていく中での困難さは、障害手帳の有無にかかわらず人それぞれあるでしょう。改善や成長してゆく一人一人の努力も必要でしょう。しかし私としては、合理的配慮を努力し、どんな人でも自分の力を発揮できる働き甲斐のある、働き易い事業所を目指していきたいと思います。

★震災時対応について②★

震災時対応を想定するとしても、震災の被害が想定されないと、対応を考えにくいというところまでが前回の話でした。今回はその対応のイメージを掴むべく書いてみました。

1:日本大震災の時の東京の揺れよりも少々強い程度

・被害想定

日本は今、地震の活動期に入っています。今後地震が予想される活断層としては、立川断層(世田谷区は震度6予想)や三浦断層帯などがあり、活断層から離れた世田谷区もかなりの揺れとなるでしょう。ただ、世田谷区は活断層の直上ではないため、世田谷区では倒壊家屋は多くないと考えられます。被害は家屋の一部損壊や、家具転倒などが考えられます。電話線の寸断は無くとも、回線利用が制限される事から、電話は非常につながりにくくなると思われます。

・訪問介護の対応

訪問予定の利用者宅は、安否確認を含め全て訪問したいです。ただ、効率良く安全に訪問する為にも、命に関わらない不急のサービスは時間短縮する事も考えられます。訪問すると、転倒や転落物によりしてケガをしている利用者を発見する事もあるでしょう。救急車要請をしたり、割れたガラスなどの片付けも必要です。入浴や外出などの身体介護を、共に行う片付けや移動・移乗等の介助に振替えて、介護保険の支援として記録します。家事代行の場合は、ガラスの片付けはそのまま掃除の記録で良いでしょう。食料の在庫が多い方の買物代行は割愛しても良いかもしれませんが、在庫の少ない方は、プランに無くとも買物代行を行う必要もあるかもしれません。なお、救急車には同乗しません。大切な情報は必ず事業所へ報告です。電話が通じなければ業務終了後には必ず事業所へ直接報告に来て欲しいと思います。連携がとれなくても、震災翌日の訪問先は基本的には予定通りです。

 

2:首都直下型地震

・被害想定

フィリピン海プレートと北米プレートの境界の地震の地震が想定され、東日本大震災と同じプレート境界型のため震源域は広く、内閣府の想定モデルでは、東京湾北部を震源とするM7.3の地震では、世田谷区は震度6予想です。広域での家屋倒壊が見込まれ、世田谷区で一番心配されるのは時間帯によっては火災の発生と延焼です。木造密集市街地(環6、環7沿い)の焼失が顕著であると想定されています。

・訪問介護の対応

余震が多くなく、目立った倒壊家屋がなければ、対応は上記と同じですが、ライフラインは寸断されると思われます。室内が入れないくらいのぐちゃぐちゃな様子になってしまえば、一部の方は避難所に誘導する必要がでてくるかもしれません。初動体制としての訪問介護はさらに効率的に、安否確認を中心に行います。印は無くても良いので、記録は日時・時間だけでもつけたいものですが、メモでも構いません。世田谷区が区内の事業所に求めているのも安否確認体制への協力です。災害伝言ダイヤルを逐一活用しましょう。移動時は崩れかけた建物や壁の近くは避けましょう。そして付近で火の手が見える場合は安否確認活動も中止せざるをえません。ヘルパーさんも一時避難所(付近の学校の校庭など)に行くなどし身の安全を図りましょう。家屋倒壊がなくても、電気ガス水道が止まれば、要介護高齢者の在宅支援は見直しが必要になってきますが、それは初動の安否確認の後の対応です。そのような方は、親族を頼って被災地域外へ疎開するのが現実的だと思われます。親族の無い独居の方への対応は継続する必要がありますが、人数は多くはありません。事業所は速やかな業務再開への連携を目指し、伝言ダイヤルに指示等を録音します。電話が通じるまでは各ヘルパーさんの自主的な活動が必要です

 

3:想定外状況(破滅的状況)

・被害想定

世田谷区内でも震度6~7が複数回起こり、あちこちで家屋が倒壊し火災が発生しライフラインが寸断され、広範囲に被災した場合。

いたるところで道路に亀裂や陥没が発生し、倒壊家屋のがれきで通行も困難です。きな臭い匂いがし、煙があがっているのが見えます。

プレート境界型の震源が、想定よりずれて世田谷区が震源直上であったり、世田谷区内で未知の活断層が動いたり等…。(現在国内に活断層は、2000以上あると言われていますが、未知のものはその3倍以上あると言われています)

電話は不通になり災害伝言ダイヤルも機能していません。

・訪問介護の対応

まずは自分自身の身を守る事が第一です。ヘルパーさん自身も被災者となっています。こうなると安否確認活動もできません。業務は中止ですがたまたま近くに利用者宅があった場合は様子を見る事は必要でしょう。しかし、周辺のがれきから助けを求める声が聞こえれば、そこに向かうべきです。今いるところで精一杯の人としての行動をする。利用者宅に訪問できなくても、自分と同じように近所の誰かが救助活動をしてくれている事を信じて、目の前の事に全力を注ぎます。しかし火の手が上がったら速やかに一時避難所に向かいます。自己犠牲ではなく生き延びた自分自身を震災復興にどう役立てるか考えましょう。避難所では、被災者として悲嘆に暮れて受け身になるのではなく、日頃の介護活動の精神性を活かし、自立した被災者として積極的に避難所開設等に協力しましょう。身辺が落ち着いたら事業所へ向かって下さい。また、気になる独居の利用者の情報収集も行いたいところです。社員も出勤不可能かもしれませんが、事業所の壁などに自分が確認した安否情報や自分の避難先などを書いた紙を貼るなどして、復興へ向けてのできる事を開始します。心の中に希望の灯をともしましょう。

マニュアルとして具体化するにはもっと掘り下げる必要がありますが、細かくマニュアル化していくと結局は現実と乖離するでしょう。今後は社員の対応も検討していかなければなりません。

 


紙ふうせんだより 4月号 (2016/09/15)

皆様、いつもありがとうございます。これからはどんどん暑くなってくるので、水分補給には気を付けてくださいね。

新緑がまぶしいですね。街角にはたくさんの花が咲いています。ツバメも飛んできました。鳥たちは巣づくりに夢中です。曲がり角の先には、どんな草花や新しい風景がまっているのでしょうか。新しい季節がはじまっているのです。

新しい季節

ちょっと前は桜の季節でした。皆さんは桜を楽しく眺めることはできましたか? 農大横の千歳通りの桜のトンネルは、桜吹雪がきれいです。桜のトンネルで思い出されるのは、『赤毛のアン』(L・M・モンゴメリ)のリンゴの並木道です。

汽車でプリンスエドワード島に到着したアンは、これから先にどんな生活がやってくるのか、期待に胸を膨らませています。マシュウの馬車に乗ってリンゴの花のトンネルをくぐったアンは、感激のあまりその道を“歓喜の白路”と名付けるのです。そんなアンを変な子だと思いながらマシュウは、欲しかったのは仕事を手伝ってくれる男の子で、女の子のアンが来たのは何かの手違いだろうという事を言い出せずに困っていました。

人は、トンネルの先にはいつも希望を見出しています。しかし辛い経験を多くすると、トンネルの先には、闇が拡がっているかもしれないと考えます。アンはトンネルの先で絶望的な事を言われますが、マシュウやマリラと一緒に暮らす事になります。不安なのはアンもマシュウもマリラも同じです。アンの物語は、その“不安”を“未知との出会い”として楽しんだからこそ開かれていくのです。

何かを楽しみにして待つということ

新しい季節には不安はつきものです。そんな気持ちを吹き飛ばしてしまうアンのひたむきな言葉を紹介します。

「何かを楽しみにして待つということが、そのうれしいことの半分に当たるのよ。」

この言葉は、待たれている私達ヘルパーとしては、とても重いものです。来週もまたあのヘルパーさんが来てくれる。そう思うだけで一週間を楽しい気持ちで過ごせるのです。一方で、「年を取ったら何の楽しみもない。今後の不安ばかり」という方もいます。そのような方は、まだ来ない先のことばかり考えて、今を生きる事を忘れていると言えるのではないでしょうか。不安とは現在や過去の事ではなく、必ずまだ来ない事への悪い考えを伴っています。仕事など何らかの責任がある場合は、最悪の事態を想定して備えを怠らない事は必要ですが、現実の今を忘れて不安にのまれてしまっては、意味がありません。楽しく生きる秘訣は、今この瞬間を丁寧に大切に自分の心に入れていくというような、“今を生きる”という事ではないでしょうか。アンの言葉には今を楽しむ気持ちに溢れています。

「あしたがまだ何ひとつ失敗をしない新しい日だと思うと、うれしくない?」

 

曲がり角をまがった先に

ある利用者さんがいました。だんだんと歩けなくなり、やがてベットをいつも汚してしまうようになりました。介護環境から入所が検討され、ショートステイを試みる事になりました。ショートステイの初日、笑顔も見られ食事も召し上がり、うまくいくかと思われましたが、嘔吐してしまい施設から急遽自宅に戻されてしまいました。

その方は状態が悪化してからは、口数もますます少なくなり、認知症も悪化したように思われました。でもそうではなかったようです。きちんと自身の事を理解されていたようでした。介護環境と自身の関わりへの複雑な想いから、将来の在宅生活の不安が増して気分が塞ぎ込みましたが、かといって心の準備も無しに入所を望んでいたわけでもないのです。

言葉を発しなくなったからといって、何もかも解らなくなってしまったのではありません。

在宅に戻ってからヘルパーの訪問回数も増え、その方は無気力から脱しつつあり、汚してはしまうけれど一人でポータブルに行ったり自分で食事を摂るようになってきました。誰かが良く生きようとして力を発揮するところを見るのは、とても嬉しいものです。その上で、介護の専門家としてその方の生活を見ると身体的に改善する可能性が多くあり、食事もままならない現在の環境よりは、施設の方が可能性が拡がるのではないかとの話になりました。その方にショートステイの話を伝えると「なんとも言えないわね…」とつぶやいていました。

その方のベットの脇には「『赤毛のアン』と花子」がありました。この本は自分で買ったんですか? と伺うと、「誰かが持ってきたのかねぇ」とおっしゃるので、私は本を開いて終わりのほうのアンの言葉を読みあげました。

「いま曲がり角に来たのよ。曲がり角をまがった先に何があるのかは、わからないの。でも、きっといちばん良いものにちがいないと

思うの。それはまた、それのすてきに良いところがあると思うわ。

その方は静かに聞いた後、にっこりと笑って下さいました。

私達は、一人の人としては、誰かの人生にとって何が良い事であ

るとか悪いとか、本当は一つも言えません。私達にできる事は、そ

の時に考えられる最善の方向へと、手探りで進んでいこうとする努力だけです。思いがけず良くない結果になったとしても、それはその時のもので、全ての物語の結末ではありません。

「それはまた、それのすてきに良いところがあると思うわ。」と、ひたむきに一歩づつ進んでいけば、その先の物語は開かれていくのです。現れたものは「きっといちばんよいものにちがいない」と信じ、関わった方々のその先の幸せを祈っていきたいと思います。

『「赤毛のアン」と花子 ~翻訳者・村岡花子の物語~』村岡恵理・著

何よりも花子が若い読者に一番伝えたかったのは

「曲がり角をまがった先にもっと素晴らしい 景色が広がっている」

というアンの言葉。最愛のマシュウの死にあい、大学の進学をあきらめ、マリラのためにグリン・ゲイブルズを守りながら、学校の先生になる決心をしたときにアンが言う言葉です。

「いま曲がり角に来たのよ。曲がり角をまがったさきになにがあるかは、わからないの。でも、きっといちばん良いものにちがいないと思うの。それはまた、それのすてきに良いところがあると思うの。」

アンを心の友としている人は、きっとどんなときも希望を失わず、人生を良い方向に変えていくことができると花子は思っていました。

★震災時対応について①★

平成28年熊本地震で被害を受けられたみなさまに心よりお見舞い申しあげます。

4月のミーティングは、震災直後という事もあり、震災時の対応について話し合いました。そこで出てきたのは、行政も想定していない震災の実情です。

1:熊本地震

大きな本震を1回と想定。15日に政府が「全避難者の屋内避難」の方針を打ち出したことに対し、県知事は「避難所が足りなくてみなさんがあそこに出たわけではない。余震が怖くて部屋の中にいられないから出たんだ。現場の気持ちが分かっていない」と反発。

障害者や要介護高齢者が被災した場合に施設へ避難入所する“福祉避難所”の協定を県内176施設と結んでおり、1700名の定員があった。

NHKラジオでは強く屋内で夜を過ごすことを勧めた。しかし度重なる余震で室内はぐちゃぐちゃ。

気象庁は「今後1週間ほどは震度6弱程度の余震に注意が必要」と繰り返す。

16日の本震ではさらに被害が拡大した。

福祉避難所が実際に開設できたのは34施設のみで104名の受け入れしかできていない(4/25朝日新聞)。介護職員も被災して出勤不能になっているケースもあると思われる。

2:世田谷区で直下型起こった場合の想定

備蓄食料等も少なく、地域の方が避難所に皆やってきたら対応しきれない。倒壊などで自宅に住めなくなった方以外は「自宅避難」を呼びかけている。救護所も設置されるが、対応しきれない事が想定される。命に係わるような方を中心に対応する(トリアージ)するので、骨折程度の方は、救護所に来ても手当は期待できない。要介護高齢者や障害者の為に、区内の施設も“福祉避難所”の協定を結んでいるが、各施設とも数名程度の受け入れ枠しかなく、よっぽどの方でないと施設避難はできない。基本的には、要介護者も引き続き自宅で対応して欲しい。福祉避難所は勝手に行っても入れません。入所の調整は区が行います。

・度重なる余震で室内がぐちゃぐちゃになった場合は、余震が本当に落ち着くまでは室内に入れないのではないか?多くの方の自宅はそのようになるのではないか?その時避難所は足りるのか?

・認知症の方など、混乱してしまい手厚い見守りが必要になるかもしれないが、在宅継続は本当に可能なのか?

・福祉関係の事業所も、職員が被災して出勤不能者がでれば、既存の方への対応だけでも手が足りない事になる。それ以上の臨時対応は難しいのでは。

福祉施設自体も被災するのではないか?

・倒壊家屋や火災で道路が通行不能となれば、安否確認も難しいのではないか?

このように見ていくと現在も行政の想定は、震度6~7が複数回起こり、あちこちで家屋が倒壊し火災が発生しライフラインが寸断され、広範囲に被災した場合(阪神淡路大震災の被害がもっと広範囲のイメージ)は“想定外”となってしまいかねません。

紙ふうせんでも、震災時対応をしっかりと考えていきたいと思っていますが、その為には、災害のレベルを、東日本大震災の時の東京の揺れよりも少々強い程度から破滅的状況まで、3段階くらいに分けて検討する必要があると思っています。いずれにしても、どんな事になっても落ち着いていられるように、ヘルパーの皆様自身と自宅等の備えを、しっかりとご検討下さい

 


紙ふうせんだより 3月号 (2016/09/15)

皆様、いつもありがとうございます。待ち焦がれた桜の花が咲きました。桜の季節はいつも寒の戻りがありますが、それを越えてようやく本当の春という気がします。一年生は二年生に、小学六年生は中学一年生になる季節です。成人○年生の私達は、何年生になるのでしょうか。新しい春はどのような人にも等しく訪れます。変化するのは子供だけではないはずです。私達も一年一年成長をしていきたいと思っています。

変化をどのように受け止めるのか

私達が関わっている高齢者も、今まさに変化の季節を迎えています。それは、身体の衰えという表象とともに現出する、心の変化の要請です。身体の変化に伴い心の成長が求められるにもかかわらず、身体の変化を否定的にしか受け止められない場合、心は変化する事を拒否します。そのような心と体のアンバランスは苦痛となるでしょう。

(「老いを生きる意味」浜田晋)
「生と死から学ぶ デス・スタディーズ入門」鈴木康明・著 には、「私たちの準備」のための「無理のない老いを過すために、今から自分のパーソナリティや人間関係の傾向のうち、好ましくない側面に気づき、その改善を目指したらどうだろうか」とし、精神科医の浜田晋の「老いにもろいタイプ」の10項目を引用しています。これは浜田自身も不完全なものとしている試論ですが、読んでみると私たちも出会った事のあるような、融通のきかない人物像が浮かび上がってきます。ここで考えてしまうのは、このような人物像だから「老いにもろい」という事もあるでしょうけれども、“老いに悩み疲れたから”、このようになってしまったとも言えるのではないでしょうか。
  • あなたはプライドが高く、自尊感情が強い。
  • あなたは自己中心的で独善的である。
  • あなたは過去の栄光にこだわり現実を受け入れにくい。
  • あなたは友人が少なく孤独である。
  • あなたは固定観念が強く主張を曲げることはしない。
  • あなたは人間が好きではない。
  • あなたはものごとをすべてきちんとしたい完全主義者である。
  • あなたは頭や身体を動かすことが嫌いである。
  • あなたは依存傾向が強い。
  • あなたは負けるが勝ちということは嫌いである。
つまり10項目が、「原因」として働いているというよりも、変化を拒否した「結果」としてこのようなタイプになったとも考えられるのです。例えば、“頑固”だから変化に耐えられないのではなくて、変化を拒むから“頑固”になってしまった、というケースもあるのではないでしょうか。“変化”に対しての自身の態度の問題としてこれらを考えていくと、“変化”に迫られる場面は青年や中年や老年に関係無く起こってくるのですから、私達と無関係の問題でなくなります。私達は、自分自身の中の何かを誇りに思ったり譲れないものを持ちながら、日常を生きています。それは基本的にはとても大切な事ですが、それらの持ち方によっては変化を拒んでしまい、自身にとって必要な成長の機会を逃してしまう事にもなりかねません。人生は常に変化していくものと捉えながら、その変化を自身の成長へと繋げていければ良いと思うのです。

ライフサイクルという考え方

人生には様々な段階があり時に応じて課題も変化していくと言われています。洋の東西を問わずこのような考え方は昔からありますが、発達心理学者のエリクソンが、人生の課題を乳児期・幼児期初期・幼児期・学童期・青年期・成人期初期・成人期後期・老年期という8段階に分けて説明した事によって、「ライフサイクル」という言葉が広く世間に知られるようになりました。エリクソンに先立って、分析心理学の創始者ユングは人生を太陽の運行に譬えて、少年・成人前期・中年・老人というサイクルを示しました。その太陽の運行は、夜を越えてまた再び朝となる円運動です。“サイクル”(=円環)と言われる所以です。

古代インドでは、人生を、学生期・家住期・林住期・遊行期(がくしょうき・かじゅうき・りんじゅうき・ゆぎょうき)としています。また、全てのものが成・住・壊・空(じょう・じゅう・え・くう)と、その次にまた「成」を繰り返すという円環の思想がありました。古代中国では青春・朱夏・白秋・玄冬といって、人生を四季と重ねて緑赤白黒を象徴とします。孔子は、志学・而立・不惑・知命・耳順・従心(それぞれ15・30・40・50・60・70歳)と述べています。

時代や地域によって定義や区分けは異なりますが、いずれの考えも、人生の各段階の毎に課題があり、現在の考え方の単純な延長線上に次の未来を想定するわけにはいかない事を示しています。今、超高齢化が叫ばれ、老年期が長期化するようになった近年の日本の社会においては、高齢期の心理状況や課題を、もっと分析し研究する必要があるのではないかと言われています。“発達”心理学などは成長期の分析に重点が置かれており、超高齢化社会をカバーできません。ところで日本では、能の大成者の世阿弥が「守破離」として、道を極めていく過程を示しています。「守」とは教わった通りに行い、「破」とは師匠の教えや経験則を破り試行錯誤します。「離」とは、新しい自分を確立する段階です。そしてその上で、一つの部分を極めてもその上を目指すならば、離の後の「守」を再び破っていく円環を繰り返すと考えられます。人生はその内部においてたえず円環を繰り返してしているのです。

では生と死を含めた命の全体は、果たして円環しているのだろうか? 日没を迎えた太陽はその後どうなるのか? このような各個人の考察や試論こそが、超高齢化社会を越えていく為に必要になってくるのではないでしょうか。新しいこれからの日本にとって必要なライフサイクルの考え方とはどのようなものか。死生観に対しても臆せずに向き合う必要があります。その試行錯誤の最先端にいるのは、実は介護の仕事をする私たちなのです。

人格心理学』(鈴木乙史, 佐々木正宏 編著)

「一回限りの人生を生きる個人にとって、正午の絶頂から午後の下降を前もって実感を込めて知ることはできない。人生の午後にいる人間は、生の縮小を強いられるのだということを悟らなければならないのである。そして、自己に対して真剣な考察を捧げることが、義務であり必然だとユングはいう。  人生の午後は、午前と同じプログラムで生きるわけにはいかない時期なのである。人生の午後の課題は、自己に対する真剣な考察を捧げ、人生の前半で排除してきた自己を見つめ、自己のなかに取り入れることである。ユングは、このことを個性化と呼んだ。中年期の転換期ではこのように、生き方や価値観の転換をしなければならないのである。」

<総合事業について>

かねてよりお伝えの通り、4月から、「予防訪問介護」のサービスが利用者さんの介護認定更新時に、順次、世田谷区の新しい「総合事業」に移行になります。(正式名称 介護予防・日常生活支援総合事業第1号訪問事業)

★利用者さんにとってのサービスの内容は、直接的には変更はありません。

★総合事業に変わっても、ヘルパーさんの給与は変りません。

★変更する点

①事業の実施主体が国ではなく、世田谷区になります。

②事業所からの国民保険団体連合会への請求方法等が変わります。

③書式の変更

会計の区分け等のために、サービス実施記録や出勤簿などの社内書式の変更を行います。(ケアマネさんが発行しているケアプランやサービス利用票も変更になります)

★注意する点…利用者さんへのサービスが、2種類に分かれます。

どちらになるかを最終的に決定するものは“ケアプラン”です。

①「総合事業訪問介護サービス」(現行相当と一般に言われています)

いままで同じ内容で、全国的にH30年度末までは同じ基準となっています。料金も今までの制度と同じです(月定額制)。支援内容は、主に自立支援や共に行う家事など、基本的には身体的な介護内容が対象です。

②「総合事業生活援助サービス」(世田谷区の指定を受けた事業所のみ対応可)

支援内容が、主に家事代行の方へのサービスです。1回ごとの利用料金で、事業所への報酬は介護保険の生活援助3(加算無し)と同じで、今までの予防の月額料金よりは少し安くなります。

<総合事業の記録用紙について>

★個別支援計画書

今までの「予防訪問介護書」から変更になります。

名称混同を避けるために、「個別支援計画書」という名称にします。

特徴は、1枚の書式で「総合事業訪問介護サービス」と「総合事業生活援助サービス」のどちらも記載できるようになっています。そして、この二つのサービスは、制度上は併用可となっています。2つのサービスは、介護報酬が異なるので、それぞれのサービスの基準に適合した支援を行ってかどうかが、今後問われる事になってくると思います。そのため、2つのサービスの基本的な考え方を計画書に解るように記載しました。同封の計画書の見本を読んで下さい。(利用者さん各自の計画書は、利用者さんの記録の箱に入っています。初回サービス時等は、ヘルパーさんにもお見せしています。※不明な点は必ず事務所まで確認して下さい)

 

★サービス実施記録

サービス実施記録は、「総合事業訪問介護サービス」と「総合事業生活援助サービス」に分れる為に、それぞれのサービスの枠組みにあった記録用紙に変更します。どっちのサービスだったっけ?と解らなくなる事を防ぐ意味もあります。順次、総合事業が始まるヘルパーさんには、記録用紙を同封していきます。(総合事業の初回訪問時に、できるだけ同行して説明したいと考えています。)

今回は、サービス実施記録2種を両面印刷で見本を同封しています。ご確認ください。

今までの複写式のA5の1回で1枚記入の用紙(伝票方式)から、A4で10回のサービスまで記載できる用紙に変更しました。これよって、“紙”の多さの煩わしさは解消でると思います。ヘルパーさん2人の場合は、それぞれ別に自分の用紙に記入して下さい。

月末頃まで利用者宅に置いておいて、最終サービス日には回収するようにして下さい。※最終サービス日の回収を忘れないようにして下さい。その為には、月末の2回前くらいには、自分の荷物に移しておくと、回収忘れや急なキャンセルで回収不能になる事を防げると思います。※また、サービス実施記録の誤り記入や事後報告が多くて困っています。迷ったらその場からご連絡下さい。


紙ふうせんだより 2月号 (2016/09/15)

 

皆様、いつもありがとうございます。今年もやっぱり雪が降りましたね。電車も大混乱でした。皆様も大変な中お仕事をされたかと思います。本当にお疲れ様です。体調を崩されてしまった方は、是非ご養生して頂きまして一刻も早い回復をお祈りしています。

なお、このような大雪や台風の時に公共交通機関をご利用されたヘルパーさんには、請求があればその費用を会社で負担させて頂いています。ただ、今回も電車やバスは全くあてになりませんでしたね。

今後の教訓ですが台風や大雪の時は、緊急ではないサービス(予防などが考えられる)をキャンセルか振り替えるなどして、“間引き”したルートを徒歩で移動するなどが考えられます。そのような対応が必要な際は、ヘルパーさん側からも事務所に問い合わせして頂いて、どのように変更するかを相談し利用者さんに電話をかけて調整したいと思います。ただ、サービスはヘルパーさんの大切な収入源ですので、皆さんの希望を聞いて対応したいと思っていますので、皆さまからの情報発信も是非よろしくお願いしたいと思います。

相性の問題

さて、このところ個別研修計画を策定にあたってヘルパーさんの課題を明確にするためには、どのような“問い”が必要かを考えていました。結論としては、サービスが長続きしない場合は、主にコミュニケーション領域の問題があるわけですが(ヘルパーさんに限らず、ケアマネさんや事務所と利用者さんの関係もある)、コミュニケーションについて話題になると必ずと言ってよいほど出るのが『相性ってあるよね』と、“どうしようもない”といったニュアンスで相性が語られるのです。相性とは、そそっかしいとか、のんびりとか、性分や生理的な要素に関わるため、自分では自覚しにくいものであると同時に、なかなか改善する事が難しいのです。だから、“どうしようもない”という言葉で撤退が模索される訳ですが、今回は敢えて相性の問題に取り組む価値を述べたいと思います。

一致しない事や隔たりがある事の価値

日常生活で、意見が一致を見ない事や、考え方や感性に隔たりがある事はよくあります。そのような二人は、喧嘩別れしてしまうしか方法はないのでしょうか。

心理学者の河合隼雄さんはこのように語っています。「夫婦ってのは、川の流れの中に杭を二本打つようなものだと思います。離れたところに杭を打って、川の流れに苦労しながら何とか網を張ることができれば、魚がたくさん獲れる。あまり相反するところがなくて杭を近くに打った夫婦は、網を張りやすいけど収穫は少ない。」(ラジオ深夜便こころの時代)

逆に言えば、似たもの同士で集まっても収穫は少ないという事です。自分と違う人間と出会って、何とか関係を作ってみようという努力があるからこそ自分が変わっていく。「自分を変えよう!!」という想いこそが自分を成長させるのであり、その想いが無い人は能力や技術や人格を高める事とは縁遠くなるでしょう。

隔たりがある事についての生物学的な価値について、有名な話があります。

スイスのベルン大学で、匂いに関する面白い実験が行われました。約40人の男の人たちが、2日くらいお風呂に入らずにTシャツを着ます。そして、そのTシャツの匂いを年頃の女の子たちにかいでもらい、どれが好きで、どれが嫌いかを決めてもらいました。そうやって決めたものは、外見で、自分が好みだと思う相手と、だいたい一致するのです。人が着たTシャツの匂いはたいてい嫌なものですが、「これなら許せる」と感じる匂いの人の事を、女の子は気に入ることが多いらしい。さらに面白いことに、好ましいと判断した匂いをもっていた人は、その女の子と最も離れた遺伝子をもつケースが多かったということです。無意識のうちに、遺伝子に多様性をつける方向へと判断していたということですね。 (「つながりの進化生物学」岡ノ谷一夫)
生物的な繁殖の戦略は、多様性を獲得した優れた遺伝子の個体の子孫を残こす事ですが、そのために自分と遺伝子的に隔たりのある相手を本能的に選ぶようなのです。

さて、このように成立したカップルが、この後どうなるか考えてみましょう。恋愛の熱が冷めると、相手と自分との違いに愕然としてしまいます。「どうしてこんな人選んじゃったんだろう」「こんな筈ではなかった」と、ため息がでます。そうして“価値観が違う”“相性が合わない”との理由で別れようとします。育児や仕事に一段落ついた熟年もまた、父親や母親や世帯主や妻といった旧来の役割から降りて、新たに個人として自分のパートナーと向き合ってみた時、このような溜息を漏らす事がよくあります。実はここからが、生物としての個体ではなく、人間的な個人としての課題がスタートするのではないでしょうか。人間として豊かな個性を育てるために、自分とは異なるかけ離れた相手と敢えて交流する事によって、内面の多様性を獲得するための心の仕事がはじまるのです。

多様性の受容

ヘルパーさんから利用者さんとの関係を伺っていると、利用者さんに対してしっくりとこない感情を抱いていると、やっぱり利用者さんもそんな感情を抱いていて、結局長続きしない事が多々あります。それはそれで致し方ない事かもしれませんが、私としてはやっぱりもったいないと思うのです。せっかくのご縁なのだから、今まで自分とは異なった新たなものを受容し、多様性を自分自身に取り入れる事ができれば、仕事のしがいがあると思うのです。

相性の問題はつい割り切って切り捨ててしまいがちですが、そんな時、川に二本の杭を打って網をかけている自分の姿を思い浮かべて欲しいと思います。感情の川の流れに翻弄されてしまうような内面の苦労はありますが、苦労が多いほど心の収穫は多くなるのです。

<個別研修の年間計画>

個別研修計画策定に関するアンケートは、誠にありがとうございました。おかげさまで計画策定は3月までには終了予定です。そこで研修の実施について、年間計画を立てましたのでお知らせします。

※実施時期の幅は、アンケートに基づく参加者や事業所から指定する対象者のスケジュールを個別にお伺いし、日程を調整する為です。また、予定を変更する場合もございます。ご了承ください。

具体的な日程は個別にお知らせするとともに、決定したら紙ふうせんだよりでも告知します。

 

事業所としての目標

全員が参加できて、皆の想いを受け止める研修実施

【事業所の方針】

心が軽くなった!気負いが柔らかくなった!元気が出た!学べた!やる気がでた! 少しでも良い変化を創りましょう。

1:介護技術

介護技術(事業所で学習できるもの) を学習したい希望者 技術向上の必要がある事業所から指定した方:7~12月頃。事務所で。

現場で介護技術を学習した希望者 術向上の必要がある事業所から指定した方:随時現地同行訪問

2:コミュニケーション

アンケートを提出されていない方などで、目標や課題が明確でない方。 新年度から新たに目標立てて取り組みたい新人の方など:4~6月頃

チームワーク研修 コミュニケーション領域の研修 周辺分野の研修:7~12月頃

ストレスマネジメント研修 ヘルパー同士やサ責やケアマネと懇談:8月 12月

来年度へ向けて目標を明確にしたい方:翌1~3月

3:介護知識

介護保険制度や制度改正についての学習 法令遵守:4~6月頃

食中毒や感染症 事故・救急時等の緊急対応:4~6月頃

介護や医療の基礎知識:7~12月頃

外部研修:随時

 


紙ふうせんだより 1月号 (2016/09/15)

皆様、明けましておめでとうございます。皆様のおかげで無事年を越すことができました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

ところで、皆さんは今年の目標は立てられましたか? 私は「ヘルパーさんともっとコミュニケーションを取りたい」と考えています。そこには、それが思うように出来ていない業務繁多な事もあるのですが、ヘルパーの皆さんあっての事業所運営ですので、一番大切な事だと思っています。

自分を知る

ところで、私は皆さんの事を良く知りたいと思っています。なぜかというと、その方が適切な指導ができるからで、知らないと的外れになってしいます。同様に、自分自身の事も良く知らないといけないと考えています。そこが欠けていると、やはり指導は自分の価値観を押し付けるものになってしまうでしょう。皆さんはどのように考えますか? 適切な利用者さんへの支援は、同じように相手や自分の事を良く知る必要があります。

ジョハリの窓

心理学者のジョセフ・ルフトとハリー・インガムが1955年に発表した、「対人関係における気づきのグラフモデル」は、自分と他人の関係を解りやすく示してくれます。研修でも取り上げた事がありますが、二人の名前を合せて「ジョハリの窓」と呼ばれるこの概念によると、自己には「公開された自己」と「隠された自己」があり、また「自分は気がついていないものの、他人からは見られている自己」や「誰からもまだ知られていない自己」もあると考えられています。

自己覚知を深めていく事は、(Ⅰ)の領域を拡げ

ていく事です。自分には分かっていない事(Ⅱ)

を誰かに教えて貰ったり、他人に分かっていない

事(Ⅲ)を自己開示して知ってもらうようにする

事などで、自分の無意識を意識化していくのです。

そうすると結果的に未知の領域が減って(Ⅳ)

いきます。

「未知の窓」が大きいと、自分自身の感情

は自分の知らないコンプエレックスに左右さ

れ不安定になりますし、対人関係も他人から

見て理解しにくい付き合いにくい人になって

しまいます。しかし、どんなに努力してもこ

の(Ⅳ)が消滅する事はありません。言い換えればそれは未来に残された“可能性”であり、この未知の可能性がある限り、人間はどんな年齢でも成長していく事ができるのです。

 

個別研修計画の策定について

今私は、個別研修計画の検討作業を行っています。それは、研修の方向性を全体としてどのようにするかという事と、各個人の課題をどのように抽出・分析していくかという問題です。介護職に求められる職能をおおざっぱに分類すると、三つが考えられます。

  1. 介護技術力 ② 介護や制度の知識力 ③ コミュニケーション力
このうち、①と②は、経験を積むと共に現場や座学で比較的容易に習得可能ですが、③に関しては、「利用者さんの変化を敏感に察知する」というような細かい“気づき”も要素に含めて考えると、教科書的な“勉強”では習得困難です。では、経験を長く積めば良いかというとそうでは無く、その経験を客観的に分析し実際の介護に還元する取組があってこそ始めて身に付くものではないでしょうか。この③を高めて行くような研修をこれからも行っていきたいと考えていますが、先に書いた「自分を知る」という事もこれに含まれると思います。

 

良いコミュニケーションとは何かついて考えましょう

利用者さんとの人間関係が、良い方向に発展していくコミュニケーションを“良い”ものとすると、それは、利用者への偏見の無い理解と、自
自己覚知適切な

自己開示
偏見の無い 利用者理解
良いコミュニケーション
分を知るという自己覚知や、自分がどのような人間か

を相手に伝える適切な自己開示が交わった所にあるも

のではないでしょうか。自分と相手とのコミュニケー

ションの齟齬が見られる場合は、これらのどこが弱点

になっているのかを見つけ出す事は重要です。

その事を検討するために、ジョハリの窓を参考に以下の図を考えてみました。
“コミュニケーションの窓” 利用者さんが自覚している

自己像
利用者さんが自覚してない

自己像
ヘルパーが利用者さんに開示している自己(意識的) Ⅰ 相互理解の領域(公になっている関係) Ⅱ 利用者さんと周囲のズレの領域
ヘルパーが利用者さんに開示していない自己(意識的・無意識的) Ⅲ ヘルパーさんの抑制・抑圧の領域 Ⅳ 未知の領域(思いがけない発展の可能性)
 
(Ⅰ)の相互理解の領域が拡大する

と関係性は安定します。関係が不安定

な時はこの領域が狭いと言えます。こ

こを基盤に利用者・ヘルパー共に関係

性を深める心の活動を意識的・無識的

に開始します。それはもっと自分を知っ

て貰いたいという欲求ですが、欲求に

温度差があると上手くいきません。

(Ⅱ)は、利用者さんの周囲とのズ

レの領域ですがが、これは介護の方向性(目標)のズレでもあります。これが広いとヘルパーさんは利用者さんの老いの葛藤などに付き合う事になります。それは利用者さんの自分を知って貰おうとする正直な心の働きでもありますが、ちょっとした事から依存や反発をされて、ヘルパーさんは消耗してしまいます。クレームを生じやすいケースでもあります。

(Ⅲ)は、ヘルパーさんが自分の考えや感情を抑制・抑圧している領域です。あって当然の領域なので、バランスとれた状態である事が望まれます。利用者さんに自分を知って頂く事は、お互いの関係を深めていく事にもつながりますが、一方通行だと「ヘルパーさんが自分の事ばかり話して…」と利用者さんから反感を買う場合もあるでしょう。この領域の課題に取り組むには意識的・自覚的でなければなりません。利用者さんとのより良い関係を築くために戦略的に、自分を出したりひっこめたりする事ができると良いのです。もし、利用者さんに伝える事のできない自分の考えや気持ちが拡大すると、自分自身が何もかも抱え込んだような気持ちになって、突然心が折れてしまう事もあるでしょう。介護職離職の原因にもなってくる領域です。これは介護者が葛藤を抱えている状況ですので、思わぬミスを招きやすいとも言えます。また、そのように自分が我慢をしている気持ちを準備なく突然利用者さんに伝えると、気が付かずに自分が攻撃的になってしまって、失敗する事もあるでしょう。

 

目標を明確にしましょう

このように具体的に考えていくと、利用者さんとのコミュニケーションの困難さは、努力次第である程度改善ができそうです。ヘルパーさん一人一人が、まずは自分自身を検討して、どのような事を今後学習していく必要があるかを、自分なりに考えて頂けると良いと思います。新年度からはある程度グループ分けするなどした個別研修を開始します。是非、この機会に介護職として、また人としてより成長する為に、自分自身にできる事は何かと考えて頂きたいと思います。思考が具体化されれば取組みも明確になっていきます。また、私の考えだけでは絶対に足りないものになるので、皆さんの意見や考えをどんどん寄せて下さい。(その為の個別面談でもあります。)今後ともよろしくお願いします。

 


紙ふうせんだより 12月号 (2016/09/15)

皆様、いつもありがとうございます。年末年始に仕事をして下さるヘルパーさん、本当に有難うございます。皆さんあっての利用者さんの生活です。また、皆さんあっての事業所です。本当に有難うございます。くれぐれもお身体をお気を付け下さい。ところで、皆さんにとって今年はどんな年でしたか? 来年はどんな年になるでしょうか。皆さんが、介護の仕事を通して、各々の人生観を深め、良い人生を生きられる事を念願しています。

人生観を深められる介護という仕事

紙ふうせんのホームページをご覧になった事はありますか? 2年前の暮れ頃にホームページを立ち上げ、その際に『経営理念』として「介護職一人一人が、介護という貴重な体験を得て人生観を深め、豊かな心で生きていく事が最高の果実です。」と掲げさせて頂きました。

 

豊かな心を次世代に継承しゆく大樹でありたい (紙ふうせんホームぺ―ジより)

会社組織を樹木に例えるなら、樹冠(枝や葉)が現場、幹が管理者や責任者など、根が経営者と言えます。

樹冠は葉を青々と陽光に差し向け光合成をして栄養を作ります。幹はその栄養を根に送り、根は養分と水を吸い上げ、幹を通して葉に送ります。作られた栄養は、新たな枝を伸ばして葉を育てる為に使い、冬を乗り越える蓄えとして使います。

根が弱れば、大風に根こそぎ倒されてしまいます。「縁の下の力持ち」の役割をしっかりと果していかなければなりません。幹が弱いと樹冠を支えきれず、大風が吹けば樹木は折れてしまいます。また、枝や葉を多く茂らせる事もできなくなります。

樹幹・幹・根の調和し協動していくことが大切です。それぞれが、自分の役割と他への責任を果し、共に成長をしていく事が全体の成長です。全体の成長は、それぞれに還元されなければなりません。なかでも、一番充実して欲しいところが樹冠です。

葉が色艶よく輝いている事こそが、樹木が健康な証しです。樹冠には鳥が歌い、花が咲き果実が成ります。

介護職一人一人が、介護という貴重な体験を得て人生観を深め、豊かな心で生きていく事が最高の果実です。そしてその心を次世代に継承してゆくことができる大樹でありたいと願っています。

 

人生観とは、山あり谷ありの人生で起こる楽苦とどのように向き合うのか、という態度決定の問題です。人生観は、学習や経験や人との出会いによって形成されますが、それは人間に対する価値観でもあります。自分という“人間”は何者だろう。また、他人という“人間”とどのように関わっていくのか、人生観は人間観でもあるのです。

自己の人間観をチエック

人間観について、平木典子はマズロー(後述)を引用しながら支援者の態度について、自己の人間観の検討の必要性を述べています。本文中の「カウンセリング」の言葉を「介護」に置き換えて読んで頂くと理解し易いと思います。『カウンセリングの話』の中には「カウンセリング(※介護)の学習の中には自分自身への検討も含まれる」とあります。

 

あなたの人間観は (「カウンセリングの話」平木典子 朝日選書)

カウンセリングや人間相手の仕事をしようとする人は、マズローの人間観を持たないまでも、少なくとも自己の人間観をチェックしてみる必要があるだろう。もし根本となる人間観が「人間は駄目な存在だ」というものであるならば、何を目的に人を援助することになるだろうか。人間の本来の姿を自己実現に求めるか、欠乏動機を満たすことに求めるかということは、重要な分岐点だと思われる。自己の価値観や人間観の検討なしに、理念に一貫性のないままカウンセリングの理論や技術を学ぶとするならば、木に竹を接いだようなカウンセリングになってしまうことをまぬかれないだろう。

つまり、カウンセリングの学習の中には、自分自身についての検討も含まれるのである。

 

自分自身への検討

自分の姿というものは、知っている様で実は、自分ではよく解っていないものではないでしょうか。私は、介護の仕事を通して自分自身を成長させる事ができると思っています。利用者さん等のリアクションを見て、自分の姿を鏡で見るように検討していく事ができるからです。私達が利用者さんにとって本当により良い支援とは何かと考える時、それは自分自身にとっての本当に良い生き方や人生観は何だろうと問う事にもなります。目の前の利用者さんについて真に悩む時、自分自身の人間観・人生観をも深める事になるのです。

新年に向けて

できれば楽しい年にしたいですね。でも、楽しい事ばかりではないですよね。悩む事もつまづく事もあります。しかしどちらかというと、避けて通りたい悩みやつまづきこそが、実は自分自身を深めてくれるのではないでしょうか。そこから逃げては何も変わらない――。いつでも皆様からの相談をお待ちしています。来年もどうぞよろしくお願いいたします。新しい年が、私達にとってより成長する年である事を願っています。


紙ふうせんだより 11月号 (2016/02/08)

 

 

皆様、いつもありがとうございます。あっという間に年末がやってきます。早いものですね。この早い感じは、それなりに充実している事だと捉え、前向きにいきましょう。
人間の心の中に生じる暴力
先日、パリで大規模なテロ事件が発生しました。犠牲になった方の無念さや、ご家族や友人の方々のはかり知れない痛みに、足のすくむような思いがします。また、テロを弁護するつもりはありませんが、テロリストに志願した者も心に苦悩や痛みがあり、やがて憎悪へと成長し、それが悪用されての事件と考えると、人間社会の痛みや憎しみの連鎖というものに、やるせない悲しみを感じます。ロックバンド「ザ・ブルー・ハーツ」の『トレイン・トレイン』に、「弱いもの達が夕暮れ さらに弱いものをたたく / その音が響き渡れば ブルースは加速して行く / 見えない自由が欲しくて 見えない銃で撃ちまくる / 本当の声を聞かせておくれよ」の歌詞が思い出されます。移民として差別されたものがその恨みを晴らそうと、銃を手に取り“弱者”から“強者”になろうとしたのです。
このような暴力の連鎖は国際社会が解決してゆかねばならない問題ですが、人間の心の中に生じる問題と捉えると、介護や福祉の問題ともリンクしてきます。
暴力の連鎖の背後にある構造的な問題
暴力とは銃で撃つ事だけではありません。例えば虐待防止法が虐待の定義を、①身体的虐待 ②放棄・放任 ③心理的虐待 ④性的虐待 ⑤経済的虐待 としているように、心理的なものも暴力になります。また、個人間の暴力だけではなく、組織や国家が個人に対して暴力を振うという事もあります。ここでは、暴力の連鎖について考えてみたいと思います。
ある方が幼児期に親から暴力を受けたとします。その方が親になり子を授かった後に、子育てで周囲から孤立しイライラも高じて、泣く子を黙らせようとつい手をあげてしまったとします。本当に辛い気持ちになります。その辛い気持ちから自分を省みる余裕が失われ、子供の心を想像する事が出来ませんでした。後ろめたさから“しつけの為なんだ”と自己弁護します。叩けば子供は一時は言う事を聞きます。自己弁護が自己欺瞞となると正常な感覚がマヒしてしまいます。手を挙げる事がやがて習慣化してしまう…。このような時、個人の病理の背景に家族の病理がある事を見ていかなければなりません。この方は、自分が小さかった時に、泣いていても優しく抱きしめて貰う事ができずにいたため、言う事を聞かずに泣く子を見てどうしたらよいか解らなかった。そして自分の受けた心の傷の痛みが瞬時に蘇ってパニックになり気がついたら手を挙げていた、という事もあるのです。このような親から子への暴力の連鎖は、事実よく見られます。暴力とは、“強者が“弱者”に何かを強制するものです。その暴力が連鎖する時、単純に個人の問題と捉えるのではなく、個人の背後に働く構造的な力を見逃してはなりません。ここでは親子関係が連鎖しているのですが、学校でイジメを働く子供が、家では親からの心理的な暴力にさらされていた、という事もあるのです。

暴力の連鎖を断つ
 暴力が連鎖する場合、そこには構造的な問題が隠れています。暴力を働いた者を処罰すれば解決するというような単純な考え方では、暴力の連鎖は止められません。ではどうしたらよいのか。パリのテロの被害者が「君たちに憎しみという贈り物はあげない」という文章をフェイスブックに投稿しています。憎しみに対して憎しみを返さない事。それが本当の意味で暴力に勝つという事だと教えてくれています。

テロ遺族フェイスブック投稿文(朝日新聞デジタルより)
金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。

介護現場の問題を構造的に理解する
ある利用者さんが、こんな事を言っていました。「娘が介護してくれるんだけど、私にいろいろ命令したり指示したり口うるさくて、本当に辛い。でも、仕方がないのよね。今になって気が付いたんだけど、私もそのように子供を育てたんだもの…」
ここにも構造的な問題が見られます。辛い気持ちは辛いと受け止めつつ、一つ良かった事を挙げれば、介護されるようになって親がそれまで知らなかった子供の心を理解したという事です。そして子供の方も親の世話をしながら、自分を世話してくれた時の親の気持ちを理解するでしょう。そしてお互いに介護状況を辛いと感じながらも、その共感の先にそれぞれが新たに理解した事を話あえれば、親子関係が再構築される可能性があるのです。

ケアする人の「共感疲労」 日本赤十字看護大学名誉教授 武井麻子 (こころの健康だより No113)
人をケアする施設で起きてはならないことが起きる。それは、その仕事の性質と関連しています。そうした施設でケアを必要としている人たちは、身体的にも心理的にも自由を奪われ、健康な生活や自分なりの楽しみ、自尊心、大事な人とのつながりなどを失ってしまっています。多くは、そうした状況に怒りや無力感、虚しさを抱えながら言葉にできず、孤独と絶望の中で目や声や行動で伝えてくるのです。こうした言葉にならない感情にさらされる中で、スタッフはまるで自分が責められているように感じるようになります。気づかないうちに毎日の仕事に意味を感じられなくなり、時にそうした状況を引き起こすクライエントに苛立ちや憎しみまでもが湧いてくるのです。
つまり、クライエントの怒り、無力感、絶望などがスタッフに流し込まれ、彼らに代わってスタッフがそうした感情を体験するのです。そこにはある意味「共感」が起きているのですが、スタッフとしてはそのようには思えず、自分がケア提供者として失格のような気がして、自己嫌悪が募ります。すると、クライエントのところに行きたくなくなり、仕事が嫌になっていくのです。これが、「共感疲労」と呼ばれる心理的状況です。
実は、ケアする者にネガティブな感情が湧いてくるのは必然的なことなのですが、悪いことには、そうした感情は言葉にしにくく、言っても伝わらない気がします。そして、同僚や家族など身近で一番わかってほしい人に苛々してしまいます。こうして職場の人間関係が悪くなっていくのです。そこで、ケアする者の第一の任務は、こうした辛い感情を持ちこたえ、そしてクライエントとともに生き延びることなのです。

共感のその先を見る
ところで、辛い気持ちへの共感は「共感疲労」が生じます。東京都の「こころの健康だより」では、怒りなどの感情が連鎖する事を指摘しています。利用者(クライエント)の怒りなどがスタッフに流し込まれ、スタッフは利用者と同じ感情を体験します。そうして、怒りなどが利用者→スタッフ→同僚や家族へと連鎖していくのです。
共感疲労が生じていると感じる時、疲労は疲労として受け止め何か別のストレス解消法を試みつつ、その共感から生じる肯定的な人間関係の変化を見つめていきたいと思うのです。それは、スタッフの利用者に対する視点の深化であり、感情を受け止めて貰った事による利用者さんの安堵感であり、それらの相互作用としての人間関係の発展なのです。共感の疲労は、新しい関係性が生じてくる産みの苦しみなのです。
辛い感情を持ちこたえ、生き延びること
私たち介護職は仕事の性質上、怒り、無力感、絶望などの感情にさらされます。構造的に「共感疲労」を生じやすい職種なのです。もし共感疲労が生じた時に、利用者→スタッフ→利用者と返してしまったら、怒りなどが際限なく増幅され、苛立ちが憎しみに変わり、ついには虐待事件を発生させてしまうのです。
先月の研修では「メンタルヘルスとストレスチェック」を行いました。自分に生じた苛立ちをそのまま他人にぶつけていないか。そのようにならないために、自分自身にどの程度ストレスがあり、心の健康は保たれているかを確認するという主旨でした。
利用者さんの苛立ちがヘルパーさんに流し込まれた時、ヘルパーさんも苛立ちます。そのような時、苛立ちを持ちこたえ、切り替えて次に訪問する事。これが大切です。苛立ちの連鎖も小さな暴力の連鎖です。暴力の連鎖を止めるためには、自分に順番が回ってきた時に、自分のところでそれを留める事です。憎しみには、憎しみを返さない。怒りには怒りを返さない。苛立ちには苛立ちを返さない。なかなか難しい事なのかもしれませんが、辛い気持ちになったら「君たちに憎しみという贈り物はあげない」という言葉を思い出して、(君には苛立ちをあげないよ)と心の中でつぶやいて頂きたいと思います。そしてその努力は、きっと新しい何かを産むのです。


紙ふうせんだより 10月号 (2016/02/08)

皆様、いつもありがとうございます。
最近、何人かの利用者さんから、最近の状況が「昔の日本と似てきた」「怖い」という声を聞きます。戦前の何が今と似ているのか、考えずにはいられません。人生の最晩年の方々の想いを引き受け、社会や次世代へと受け渡していく使命が介護職にはあります。その想いに介護職として寄り添い理解する為にも、あの時代について考えてみたいと思います。

あの時代、国民の何奪われたのか
あの時代の日本は全体主義だった。個人の幸福追求よりも全体の利益追求が優先される。それを盾に、我こそは全体の利益を代表するものだと騙り“利権”を貪る者は、戦争を取
り返しのつかない方向に導いていった。個人の幸福を追求するように見られた一般人は、非国民として非難され警察に逮捕される事もあった。そんな事になれば“村八分”
で生きていけない。同調圧力が強く働き、場の論理を優先する日本人は、自然と自己規制を始めた。「進め一億火の玉だ」というスローガンが作られ歌にもなった。国民生活の目的
は戦争勝利となり、全精力が傾けられた。「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」“一億総動員”の価値観で育てられた若者は、全体に忠誠を尽くす生き方しか知らなかった。最も崇高な死は全体に命を捧げる事であって、その全体の質がどのようなものかは、疑って見る尺度は持っていなかった。全体の利益を代表するように騙っている者たちにとって、からっぽの頭の国民は都合が良かった。国民が目覚めないようにする為には、日本は「神の国」であり続ける必要があり大本営発表ではウソの戦勝報告を垂れ流し続けた。そのウソも隠せなくなってくると、特攻作戦を同調圧力によって強要し、“聖戦”で戦死したものは靖国神社で“軍神”に成ると強調した。その為、南方戦線では餓死や病死も多かったが全て戦死とされた。“一億玉砕”すれば“神風”が吹き、国民が死んでも大日本帝国は戦争に勝てると叫ばれた。若い男たちはお国の為に命を捧げる“戦死”を目的に戦地に赴いた。「国破れて山河在り」とは杜甫の漢詩だが、権力者は庶民の“国=郷土(山河)”意識と“国=統治機構”を意図的にすり替えた。
「男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差しだけを残し皆発っていった」
「わたしの頭はからっぽで わたしの心はかたくなで」
若い女たちも勤労動員という強制労働で兵器などの生産に励んだ。疑問を持つ事は許されず汗と油にまみれながら、空襲にあって死ぬものもいた。
茨木のり子さんは、19歳で敗戦を経験した。戦争体験は青春時代の一時期だけだったが、その影響は生涯続いた。「わたしが一番きれいだったとき」とは、単純に身体的なきれいさだけでは無いだろう。こころの純粋無垢さも表している。そのような時に軍国主義が刷り込まれた。「おしゃれ」も美しいものや綺麗なものを楽しむ心と言える。頭は空っぽになり心は頑なになった。その戦争で奪われたものは、自己選択・自己決定・自分らしさなど、一人の人間としての“尊厳”だったのだ。

わたしが一番きれいだったとき
茨木 のり子(1958年)

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように

“尊厳”はどこにあるのか
茨木のり子さんは、敗戦の街を怒りに震えながら歩いたのだろう。国民一人一人が自分を含め馬鹿だったのだ。好んで聴いた「ジャズ」は敵国アメリカの音楽。しかも奴隷として連行されてきた黒人の“魂の解放”の音楽だ。二度と「ふしあわせ」「とんちんかん」「さびしかった」思いをしない為に、自分自身の尊厳は自分で守らなければならないと強く誓った。その決意の一つが「長生き」にあった。その“尊厳”について自身を厳しく戒めている詩「自分の感受性くらい」がある。そこからは「腕をまくり」、「のし歩いた」時の気持ちが伺われる。介護の現場でも“尊厳を守る”とよく言いうが、“守る”主語は誰だろう。真の尊厳は、生命の存在そのものに基づくものと考えれば、誰かに与えられものではなく一人一人の心に元からあるものだ。自分の尊厳を自分で守る事が自立であり、それを支える事が自立支援だ。介護職は上の者が下の者を守るというような上下関係を作ってはならない。
翻って私達は自身の尊厳を自分で守れているだろうか。強者に媚びを売ったり、お金に頭を下げたり、心にも無い事を言ったり、社会に過剰適応して、自身の尊厳を自分から捨ててはいないだろうか。「尊厳」とは自らの存在に関わるものであり、生死に関わるような厳しさがあるのではないだろうか。

自分の感受性くらい
茨木 のり子(1975年)

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

同調圧力が強まりつつある社会
近年、高校生・大学生の間で“便所飯”という言葉があります。若者の間で働いている同調圧力は、“友達がいないのは悪い事”“友達と一緒でなければならない”というようなものであり、“友達のいないヤツ”と思われたくない為に、一人で食事をしている所を見られないように、一人の時は、便所の個室の中に隠れて食事をするのだそうです。同調圧力の強まりは、子供や若者の心に対人恐怖症的な影を落としているのです。
メディア論についての書籍『ご臨終メディア 質問しないマスコミと一人で考えない日本人』では、現在の大手メディアが権力に対して「質問しない」、国民に対しては「見せない」「懲罰機関化」していると警鐘を鳴らしています。その根底には、権力や国民からの「抗議を恐れる優等生が垂れ流す報道と、一般市民の善意による共同正犯」の関係が「過剰なまでの自主規制」を生じさせているとしています。そのような風潮が強まってきたのは、地下鉄サリン事件以後だと森達也は述べています。何か事件が起こると、権力やそれを監視するべきメディアや一般市民が同一化して、一斉にバッシングを始める空気があります。
これらの“同調圧力”の本質は、「みんなと一緒でなければならない」という意識です。そしてこれは、自分自身の真の“自立”を考えた時、真っ先に疑問を持ち、ぶつからなければならないものなのです。すると同調圧力が強まりつつある今という時代は、社会全体が“自立”から遠ざかりつつあるという事になるのではないでしょうか。
戦前の何が今と似ているのか、一つはかつてない程に“同調圧力”が社会全体を覆ってきており、民主主義の危機的状況になってきているのではないかという事です。民主主義とは一人一人の国民が自発的・自律的に自分自身で判断し意見を述べるところこそが要諦です。最近某国会議員が、ツイッターで「戦争に行きたくない」という「若者」は「自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだ」と、民主主義の根幹である基本的人権や言論の自由に圧力をかけるような主張をしました。政治の現場は、このような発言がこぼれ落ちるような、危うい“空気”が流れているようです。
介護の理念と同調意識
民主主義と介護の理念は、実は根底を共有しています。それは、どんな人もそれぞれ“平等”の権利を有しているという信念です。認知症者でも障害者でも、健常者と同じようにその“基本的人権”は保障されなければならない。誰かの人権や尊厳が侵害される事は、“全ての人の人権や尊厳の平等性”を侵す事であり、それは自分自身への人権侵害でもあるのです。
介護の現場でも同調圧力は作用しています。施設介護での複数犯による虐待の背景には、その人間関係内での同調圧力が必ずありますし、単独犯でも周囲からブレーキがかからなかったのは、「事を荒立てたくない」という同調意識でしょう。また在宅の家族介護でも、世間様向けの顔を作る為に、内心は嫌だけど一生懸命介護をしているというような場合、家族による隠れた虐待を生じやすい状況となります。ここで作用している力は、“世間様”という顔の無い同調圧力です。
周囲と同調しようという意識は、必ずしも悪いものではありません。適度な調和の範囲内では、「和」という日本人の美意識そのものとなります。しかし、同調意識が圧力にまで高まると、それは日本人の「病理」となります。介護は基本的人権に関わる仕事である為、その現場で、同調意識がどのように作用しているのか、注意深く見ていく必要があります。

『トランスパーソナル心理学入門』諸富祥彦(講談社現代新書)
「“自分”を実感する事ができない、“自分”が何をしたいのか、何を感じているのかわからない、と多くの人は言います。それは何かと言えば、一つにはやはり、周りに合わせ過ぎるからです。私たち日本人には昔から、“まわりの目” “世間の目”を過剰に気にするところがあります。よく言われる事ですが、“人さまからどう思われるか”という意識、それが日本人にとって、欧米の罪に代わる恥の意識となり、私たちにとって最大の規範となってきたのです。」

介護の現場を良くする為、そしてその先に
同調意識は、主体性の無い仲間意識のようなものでもあり、悪く作用すれば「仲間はずれ」や「差別」を簡単に生じさせます。悪い組織の典型は、真に利用者さんにとって良い介護は何だろうと模索する職員が「めんどくさい事をする迷惑なヤツ」として足を引っ張られ、全体の質が、志の低い人基準に引き下げられていきます。そして介護職は、相変わらず離職率の高い職業です。実は、この話は前回の紙ふうせんだよりと繋がっているのです。前回、「積極的に主観的判断を積み上げていく事が重要です。それが介護職員の真の主体性です。」と書きましたが、介護現場を良くしていく最大の鍵は、この主体性の発揮にあると私は考えます。
このように見ていくと、歴史的過去の日本の課題は、現代でも同じように日本人が考えなければならない課題である事が理解されます。介護の現場を良くしていく事は、日本の社会を良くしていく事でもあるのです。
誰しも幸せに生きたいと願っています。しかし周囲との関わりに悩み「自分とは一体なんだろう」と、自己存在の手ごたえを探す不安と苦悩に苛まれる時がある。あの時代は、個人が呑み込まれ色を付けられ消されてしまい「自分とは何だろう」という疑問すら持てなかった。自分らしく生きる“自立”は多くの人々の想いだ。しかし、自分らしさが周囲と対立してしまう孤立も悲しい。自他共に自分らしく繋がっていくにはどうしたら良いだろう。個人や組織や国家や民族といった狭い枠を越えて、地球民族や人間や生命、自然や宇宙といった深いところを基盤として繋がり、自他が調和していく在り方を志していきたい。

★お願い★
風邪をひきやすい季節になってきました。利用者さんに風邪をうつしてしまっては、元も子もありません。ウガイ手洗い等をお願いします。訪問時は細心の配慮をお願いします。インフルエンザ予防接種を受けて下さい。摂取したら領収書を事務所まで持参して下さい。1000円の助成を行っています。


紙ふうせんだより 9月号 (2016/02/08)

皆様、いつもありがとうございます。日が暮れるのもずいぶんと早くなってきました。
仕事が終わってスーパーで買い物をすると、大きな月が自転車を追いかけてきて…ついゆっくりとペダルを漕いでいませんでしたか? 9月27日は中秋の名月でした。

月々に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月
読み人知らず
この句は「毎月毎月、月を見る事は多いけど、見る価値のある月は、この月の月です」という意味です。さらに一つの句の中に「月」を8つも出す事によって旧暦の八月(中秋)も暗示して中秋の名月も称え、とても洒落ています。
多くの人に見られている多くの月があって、客観的にそれを考えると自分が眺めている空の月こそ特別な月などとは決して言えません。しかし主観的に「この月が良い!」と言う事によって、読み手の月を見ている高揚感が伝わってきて、とても印象的です。
月天子   宮澤賢治

私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射していゐるのもはっきり見た
後そこがたいへんつめたいこと
空気がないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
――ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運動が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない

以前客観的な「月」と主観的な「月」も取り上げましたが、宮澤賢治の未発表原稿の中に「月天子」という詩があります。
賢治は科学知識も豊富で“客観的”に月を理解していますが、一方で月を「月天子」として、“主観的”には“仏様”のように尊んでいます。
「人」に対してはどうでしょうか。

もしそれ人とは人のからだのことであるとさういふならば
誤りであるやうにさりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに

賢治にとって人とは「身体」でも「身体と心」
でも「心」でも無いのです。では、賢治は人に対
してどのように理解していたのか。岩石の塊であ
る月を“仏様”のように尊ぶ賢治は、人に対して
も同様であったと伺われます。客観的な科学的事
実は、人を“仏様”のように主観的に敬う事に、
何の障害にもならなかったのです。
客観的事実と主観的意味はまったくの別物で、
一つの事象に対して2つの見方があり、それらは
両立するのです。

客観的な情報が大切な時
さて、介護現場で情報の客観性が求められるのは、利用者さんの体調や病状を正確に把握し、人に伝えたりする時です。この場合の客観とは“事実”に基づく見方となります。
例えば、「○○さんが風邪をひいています」と、ヘルパーさんから連絡があったとします。
これは、客観的でしょうか、主観的でしょうか。実はこの連絡だけでは必要な情報が欠けていて、事実(=客観)かどうかは解りません。それは、“誰が風邪と判断したのか?”という情報が欠けているのです。もし、医者に風邪だと言われた場合は、「風邪をひいています」という情報は客観的事実だと言え、その場合は「医者にかかって風邪だと診断されたと家族が言っています。咳が少し出ています」が、客観的な一番“正確”な言い方です。しかし、ヘルパーさんが、咳き込んでいる本人を見て「あぁ、風邪だろうな」と判断して伝えている場合は、それはヘルパーさんの主観的判断という事になります。もし、ヘルパーさんの言葉を根拠に「軽い風邪だから大丈夫」と関係者が思っている間に症状が進行し、実は「誤嚥性肺炎」だったとあっては、悔やまれる失敗になります。
利用者さんの体調や病状など正確さが求められる場合は、情報をキャッチし発信する時、「何の根拠に基づいてそれを誰が確認し、誰の判断で」という確認が重要です。「ご家族が風邪だと言っています」というのも、情報の精度としては甘いです。ご家族の自己判断なのか、医者の診察を受けたのか等は、必須です。というのも、ご家族が「大丈夫、いつもの事だから」と言っていても様子がおかしいので、強く医者への受診を勧めたところ、実は「骨折だった」「硬膜下血腫だった」「正常圧水頭症」だったというケースがこれまでにもあるのです。正確さを求められる情報を自分が発信する場合は、その情報の確認と伝達内容が、客観的事実であるか、主観的判断は含まれていないかを意識して欲しいと思います。
介護現場で主観的な見方が重要な場合
さて、言葉による意思表示が難しい利用者さんが「楽しんでいる様子でした」と伝達する場合、これは「楽しんでいました」と断定していないところは客観的な装いをしていると言えます。しかし、この言葉には「楽しんでいる様に(私からは)見えた」という主観的な判断が隠れています。本人の自己申告が無い場合、内容としては完全に主観的なものなのです。
このような情報をヘルパーさんに尋ねると、自信のないサービスに限って「わかりません」という言葉が返ってくる事が多いように思われます。また、ヘルパーさんによっては単純に主観的な情報は良くないと勘違いしている方もあるようです。しかし介護現場こそ主観的な見方を、胸をはって述べて頂きたいと思うのです。
というのも、先ほどの宮澤賢治の例にあるように、ものごとの“意味”や“価値”に関わる事は、究極的には客観的というものは無いからです。一つ考えてみてください。「客観的に“幸せ”と判断できる基準や、人生はあるだろうか?」と。私達は多くの方の人生を垣間見ていますが、幸せそうな家族にも苦悩はあり、苦悩に沈んでいる人にも幸せを感じられる心や場面や環境があるという事を知っています。要は、どこに焦点をあてて注視するのか、という問題なのです。価値観に関わる時、真実の客観は存在しません。そして介護は、価値観の問われる仕事であるため、主観的にどう判断するかが重要なのです。

主観的に判断する時、自覚して欲しい事
「楽しんでいる様子でした」という主観的判断の内容を詳らかにするならば、次のようになるでしょう。『“私が”「楽しんでいる」と感じた(=それは、私自身が楽しかったから)。その自分自身の気持ちをベースにして見た時、利用者さんは「楽しんでいる様に見えた」』と。
この時の“私が”という気持ちを自覚する事は、積極的に相手の気持ちを“想像”する事と同じです。それは相手に気持ちとして寄り添って行く事になります。そのような態度が無いかぎり、意思表示が難しい利用者さんと関わる事は困難と言えるでしょう。もし、「利用者さんが本当に楽しいかどうかは、どうせ解らないから考えても無駄」という事ならば、仕事としてのやりがいは失われ、最悪の場合は思考停止となって虐待につながるかもしれません。また、『私自身が楽しかった』けど「本当に利用者さんも同じ気持ち?」という事も、何度も検証して欲しいのです。子供同士のイジメの言い訳によくあるような「自分は楽しかったので相手も楽しんでいると思いました」というような自分本位の感情を防ぐためです。
虐待を防止し介護の価値を高めていくためには、積極的に主観的判断を積み上げていく事が重要です。それが介護職員の真の主体性です。利用者さんのどんな仕草を見て、自分自身のどんな感情をベースにどのように主観的に判断したのかを自覚して下さい。そしてその内容を客観的な言葉で周囲にも積極的に言いましょう。他人に言って意見をもらう事によって、自分の判断や感性や磨がかれます。虐待等をしてしまう人の傾向性として見られる「組織の中で自分の意見を表明できない」「主体性が無い」等は、決して偶然では無いのです。
主観的判断の先の主体性 私はどのように行動するのか
ところで宮澤賢治は、法華経や日蓮を熱烈に信仰していた事はよく知られています。賢治が影響を受けたであろう日蓮の言葉に「浄土と云い穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」があります。「極楽浄土のような環境も、地獄(穢土)のような環境も、環境である事に違いは無い。環境と人間の相互関係の中で、どこに焦点をあてて注視するかという主観的な判断と態度が、実は環境に影響を及ぼし環境の違いを作り出している。では浄土と穢土の差は一体何で生じるのか、全体の良し悪しは一人一人の心の善悪によるのだが、特にその人自身の環境から幸・不幸をどのように受け取るかは、その人自身の心のあり方で決まってくる」という意味です。ことわざに「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」とありますが、日蓮の主張も「その人(主体)とその人の環境(客体)は切り離せない」とうものです。もし本当に、自分自身の環境を作るのは自分自身であるならば、それは自分自身の意思を信じる究極の主体性ではないでしょうか。介護職の一般論で言えば、「待遇が悪いからやる気がでない」「職場が悪いから良いサービスが出来ない」というような主体性なき態度では、ますます環境を悪化させてしまい、決して良い介護はできないでしょう。
主観的判断の先には、では、私はどのように行動するのかが問われてきます。宮澤賢治の手帳にある「雨ニモマケズ」には、“弱者”に対する深い慈しみと共に賢治自身も同じ“弱者”として、救済の為に行動せんとする強い意思が感じられます。賢治にとっては、弱者こそが“仏様”であったのかもしれません。私自身も、認知症やその他どんな病気や障害の方に対しても、一人一人を唯一無二の存在として尊び敬う行動できるようになりたいと思います。

【硬膜下血腫】
頭がい骨の内側にある硬膜と脳を包んでいるクモ膜の間にある静脈から、少しづつ出血して血腫になったものです。
原因は、転倒により頭を打った事が多く、初期は自覚症状がまったくありません。「頭を打ったけど、骨折も無かった。いつもの生活に戻れた」と本人や家族が胸をなでおろしている間にも、じわりじわりと硬膜の下から出血し、血腫が脳を圧迫してしまうのです。
血腫が脳に障害を与えるほど大きくなった時に、脳梗塞の片麻痺のような自覚症状が現れます。片側がしびれる、力が入らない、めまいか気持ちが悪いなどで、転倒を繰り返す場合があります。
硬膜下血腫の危険を予測して、頭を打ったあと3ヶ月くらいは、慎重な経過観察が必要です。
もし、硬膜下血腫ができたとしても、血腫が周辺組織に自然に吸収されてそのまま治る場合もあります。もし消えない場合は手術で取り除きますが、頭がい骨に小さな穴を開けるだけなので、大変な手術にはなりません。
ただし、硬膜下の出血は慢性化する事があり、硬膜下血腫の再発率は10パーセントとされています。

【正常圧水頭症】
「最近認知症が進んだ」「加齢の為か急に足腰が弱った」「尿失禁するようになった」という、ありがちな症状が実は正常圧水頭症である場合があります。
脳というのは、クモ膜という水風船の中に浮いていて、衝撃や振動から守られています。クモ膜内を満たす水(脳脊髄液)が、何らかの理由で循環不全になり過剰にクモ膜内に水が溜まり、軟膜に包まれている脳がその水に圧迫されて、障害をきたすものです。(脳圧は微妙にしか高まらないため“正常圧”と呼ばれます)症状としては、脳梗塞のような神経症状が多彩に両側に現れる事ですが、特徴的なのは、認知症状・歩行障害・尿失禁です。
町医者に診せたら「認知症」と言われた、というようにアルツハイマーやパーキンソンとの誤診も多く、実は、大きな病院で調べたら正常圧水頭症だったという事があります。正常圧水頭症と診断されたら、むしろ喜ぶべきかもしれません。正常圧水頭症は、脳脊髄液の量を減らしてやる事によって、治癒する可能性もあるのからです。手術によって、歩けなくなった方がピンシャン歩けるようになったり、認知症状がすっかりと無くなる場合があります。(※改善が見られない場合もある)
ただ、正常圧水頭症である期間が長い場合は、足腰に力が入らない事からくる筋力の低下や、脳そのものへのダメージの蓄積も心配です。正常圧水頭症を疑う場合は、その後の回復の事も考えて早めの検査が必要です。

【大腿骨頸部骨折】
高齢になって骨粗鬆症になると、ちょっとした転倒でも骨折してしまう事があります。
骨折部位でやっかいなのは、大腿骨頸部や大腿骨転子部です。これらは脚の付け根の股関節にあり、ふとももの骨(大腿骨)を骨盤とつなぐ役目を持っていますが、ここを骨折すると歩けなくなります。最悪の場合は、寝たきりになってしまいます。
ちなみに医学的には“ひび”が入っている状態も骨折と言います。ひびが入っている状態で、痛みは多少あるものの我慢して歩いていた方がだんだん歩けなくなってきた場合には、患部が悪化して痛みが増し、骨折側の足に体重が乗せられなくなって歩けないと訴えます。
認知症があって、自分の体を正確に認識したり人に伝えられないような方で、普段から膝や腰の痛みを訴えながらようやく歩行をしているような方は、大腿骨頸部骨折が、それとは気が付きにくい場合がありますので、要注意です。


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