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紙ふうせんだより

紙ふうせんだより 3月号 (2018/04/25)

2018年(平成30年)3月

紙ふうせんだより

“出会い”について考える

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。春は出会いの季節です。桜吹雪という刹那に多くの花との出会いと別れがあります。それが人生を予感させるものだからなのか、それとも卒業や入学やクラス替えといった原体験を回想させるからなのか、あの瞬間に私は切なくなります。「出会い」とはそれが本当に成される場合、人と人が単に顔を合わせる以上に、心が動くことによって内的な “自己”を体験したり自己とは異なる“他者”の存在に気が付くなど、未知との出会いがあります。少子化や高度情報化社会の中で濃密な他者体験が乏しくなって久しい現代、そのような意味深い“出会い”のきっかけを作り、人格的成長に活かそうという「構成的グループ・エンカウンター」が今、教育現場等で注目されています。

エンカウンターの必要性

“出会い”とは英語でエンカウンター、この重要性を訴え心理療法から世界平和への活動へと発展させていったカール・ロジャース(1902-1987アメリカ)は、福祉の分野でも重要とされる様々な考えを提唱した臨床心理学者です。「傾聴」とはロジャース自身が専門的知識に捉われカウンセリング中にクライエントの話をよく聞いていなかった反省から重視、「パーソン・センタード・アプローチ」や「共感的理解」もロジャースによるものです。ロジャース派のカウンセリングは、非指示的療法→来談者中心療法→人間中心療法と発展していきましたが、その中心にある考えは、人間は共感的で深く信頼できる人間関係や生活環境と出遭うことができれば、ありのままの自然な傾向として良い方向(適応的な発展・成長・回復・健康)へと変容していく性質(内的資源)を本来的に持っている、というものです。

『人は他の人から理解され、わかってもらえたと思った時、心にある変化が生じます。それが真に自分に向き合う力となり、自らを成長させていきます。』

このようなロジャースの悩み苦しむ人への肯定的な眼差しは、地下室に置かれていたジャガイモが小さな窓からもれてくる薄日を目指して、その芽を60センチも90センチも延ばしているという少年時代に見た光景が原風景です。

『<いのち>は、たとえそれが開花することがなくてもあきらめません。おそろしく歪んでしまった人生を生きているクライエントと面接しながら、州立病院に戻ってきた人たちと接しながら、私はよく、あのジャガイモの芽を思い出します。彼らはあまりにひどい状況を生きてきたために、その人生は異常で歪められ、人間らしくないように思えます。けれどその基本的な志向性は信頼することができるのです。』『彼らの行動を理解する手がかりは、もちろん自分に可能なやりかたに限られてはいますが、成長と生成に向かってもがいているということです。』異常に見えるようなやり方も、成長を目指してもがいている姿なのです。

『面白い逆説なのですが、私が自分のありのままを受け入れることができた時、私は変わっていくのです。』人は変われます。そのために自己や他者との出会いが必要なのです。

構成的グループ・エンカウンター(SGE)とは

構成的グループ・エンカウンターとは、“出会い”をプログラムの定型化により簡単に演出し、グループで取り組む相互作用によって日常より少し深い気付きが生じるように工夫したものです。ロジャース達の実践した非構成のベーシックエンカウンターに比べ、短時間で熟練者でなくても実施できるため、学校でのクラスづくり等にも用いられています。

主な構成は、話題や課題などの“ネタ”(エクササイズ)がグループに与えられ協力して取り組んだ後に、自分や他者に対して気が付いた事などを話し合います。時にはグループで意見をまとめて、グループ同士で発表します。“ネタ”は、同じ体験をすることで感情を共有したり、いきなり話し合いをすることによって起こる心理的な抵抗を軽減するためにあります。最も大切なのは最後の話し合い(シェアリング)ですが、情報や知識の習得、善悪の判断が大切なのではなく本音の交流や心と心のふれあいが行われ、その後の行動の変容の後押しとなる事を目的としています。そして取り組む時のねらいは、メンバーの「①自己理解 ②他者理解 ③自己受容 ④自己主張 ⑤信頼体験 ⑥感受性の促進」となっています。

介護現場はSGE!?

さて賢明な方はもうお気付きかと思います。上記の①~⑥は、介護現場のケアが良い方向に変容していくために、ヘルパーさんと利用者さんがお互いに必要とするものです。そしてケアの深化は、必ずヘルパーさんと利用者さんの深い出会いの体験があり、お互いの変容を伴っています。仕事の側面だけを考えれば、目的はケアの発展(深化)だけかもしれません。しかし「なぜ私はこの仕事をするのか。私はどう生きるのか」という視点に立った時、目的は自己変容、自己深化でもあります。ならばケアにエンカウンターの考え方を導入しない手は無いでしょう。訪問介護の現場は、ケアという“ネタ”があり、ケアプランという目的が示されており、利用者とヘルパーはグループであり、深い出会いが生じやすいように「構成」されています。ヘルパーさん自身が本音の交流を望めば、ノーマルな平場の環境では壁を作りがちな人間関係を越えて、心と心のふれあいを得る事ができるのです。

『何が重要な問題か、どうすべきかを一番良く知っているのは、クライアント自身である。』「クライアント」を「自分」に置き換えてみましょう。誰かと喜んだり悲しんだりという心と心のふれあいがあるから、私たちは今日から明日へと続く日々が楽しくなるのです。

春は出会いの季節

桜の花は一斉に開花し咲いたそばから散っていく事から、昔の人はその中に“諸行無常”を感じました。万物は変わらないものなど無く、変っていく事こそが存在の本質です。

『私たちは、自分の現実の、そのあるがままの姿を十分に受け入れることができるまでは、決して変わることはできません。』このロジャースの言葉はとても厳しいものです。しかし変わっていく力は、いつでも自分自身の中にあるのです。『自分を素直に出せるなら、今のままの自分で十分です。』変わるという事は自分が別人に変身する事でもなく、コンプレックスを満たすための偏った成長願望の実現でもありません。自分を素直に出せる事なのです。

さあ、一期一会です。桜の中に過ぎ去っていく時を感じながら、今日も自転車を漕いだり歩いたりして、利用者さんや自分自身に会いに行きましょう。

★平成30年度の研修計画

(前号の日程に一部誤りがありましたので訂正いたします。)

研修は、年1回は必ず参加して下さい!! 皆様の参加をお待ちしています。
2018年度 訪問介護研修計画 / 基礎 (会場:梅丘 18:30~)
日程 曜日 担当 関連項目
4月18日 佐々木 接遇に関する研修
5月23日 斉藤 緊急時の対応
6月21日 本郷 移動・移乗の介助
7月20日 荻野 熱中症・感染症・食中毒の予防
8月17日 (懇談会) (暑気払い・CMと意見交換)
9月18日 小泉 認知症及び認知症ケア研修
10月24日 佐々木 プライバシーの保護の取り組みに関する研修
11月22日 斉藤 高齢者虐待
12月14日 (懇談会) (忘年会・CMと意見交換)
1月22日 本郷 倫理及び法令遵守に関する研修
2月20日 小泉 事故発生又は再発防止に関する研修
3月29日 荻野 ベッド上の介助(更衣・排泄・移乗)
※梅丘の研修は、基本的にはヘルパーミーティングと同時開催です。日頃の困っている事やケアの疑問など話し合いしますので、是非おしゃべりしに来てください。梅丘、祖師谷どちらも参加できます。
2018年度 訪問介護研修計画 / 発展 (会場:祖師谷 担当/佐々木)
日程 曜日 時間 研修内容 関連項目
4月17日 16:00 研修等のあり方研修 この回はサ責のみの参加
5月 日中開催予定。

日時は調整中。参加に際してのシフト調整の希望はお申し出ください。
自己理解、他者理解、自己受容、自己主張、信頼体験、感受性の促進 リフレーミング他 構成的グループ・エンカウンター、非構成的エンカウンター、グループワーク、自己分析、懇談 他
8月
10月
12月
(2019年の研修は検討中)
【お願い】平成29年度健康診断書の提出、平成30年度健康診断の受診をお願いします。

 
~~ヘルパーミーティングのお知らせ~~

【日時】 2018年 4月18日 水曜日 18:30~

梅丘の事務所内にて

★担当利用者さんの状況等・支援計画の変更の必要性の有無 ★今月の議題・伝達事項

会議参加手当(ミーティング)は1回につき1370円です。
【研修会】 接遇に関する研修 (担当・佐々木)

(ヘルパーミーテイングと同時開催。個別研修計画に基づく研修会です)
平成30年4月訪問介護改正

今回の改正では、生活援助の評価が下がり“自立支援”が重要視されるようになるとは既にお伝えしたところですが、具体的には「生活機能向上連携加算(Ⅱ)」が新設された事です。従来からある(Ⅰ)は、「訪問リハビリテーションや通所リハビリテーションの理学療法士・作業療法士・言語聴覚士」と訪問介護事業所の連携が必要で、リハに同行訪問してサ責が指導を受けリハビリ目標の入った訪問介護計画書を作成して毎月その達成度を評価するとなっています。自宅に“リハビリ”が来ている利用者さんは多いのですが実は「訪問看護」からが多く、「訪リハ・通リハ」の上記3職種に限定されると対象がとても狭く使えないのです。それで月100単位。うーん、自立支援重視なのは共感しますがねぇ。新設の(Ⅱ)は200単位で(Ⅰ)に加えて、「リハビリテーションを実施している医療提供施設の理学療法士・作業療法士・言語聴覚士・医師が訪問して行う場合」とだけしかまだ示されていません。「行う場合」とは何を行うのか、「同様に」という言葉が抜けているのか、(Ⅱ)は(Ⅰ)の上乗せなのか、リハビリ職の派遣元が違うと倍の単位なのか、言葉足らずのため詳細は不明です。

いずれにしても自立支援はますます重要視されてきますから、再確認しておきましょう。厚労省は「何が生活援助で何が身体介護か」を改めて通知する方針と言っています。身体介護でわかりにくいのは「共に行う家事」ですね。従来のその基準を老計第10号(厚生省人保健福祉局老人福祉画課長が10番目に出した通知の意)から引用します。

【老計第10号 平成12年3月17日 訪問介護におけるサービス行為ごとの区分等について】

身体介護とは、(1)利用者の身体に直接接触して行う介助サービス(そのために必要となる準備、後かたづけ等の一連の行為を含む)、(2)利用者の日常生活動作能力(ADL)や意欲の向上のために利用者と共に行う自立支援のためのサービス、(3)その他専門的知識・技術(介護を要する状態となった要因である身の障害や疾病等に伴って必要となる特段の専門的配慮)をもって行う利用者の日常生活上・社会生活上のためのサービスをいう。(仮に、介護等を要する状態が解消されたならば不要※となる行為であるということができる。)

※例えば入浴や整容などの行為そのものは、たとえ介護を要する状態等が解消されても日常生活上必要な行為であるが、要介護状態が解消された場合、これらを「介助」する行為は不要となる。同様に、「特段の専門的配慮をもって行う調理」についても、調理そのものは必要な行為であるが、この場合も要介護状態が解消されたならば、流動食等の「特段の専門的配慮」は不要となる。

 

1-6 自立生活支援のための見守り的援助(自立支援、ADL向上の観点から安全を確保しつつ常時介助できる状態で行う見守り等)

○利用者と一緒に手助けしながら行う調理(安全確認の声かけ、疲労の確認を含む)

○入浴、更衣等の見守り(必要に応じて行う介助、転倒予防のための声かけ、気分の確認などを含む)

○ベッドの出入り時など自立を促すための声かけ(声かけや見守り中心で必要な時だけ介助

○移動時、転倒しないように側について歩く(介護は必要時だけで、事故がないように常に見守る)

○車イスでの移動介助を行って店に行き、本人が自ら品物を選べるよう援助

○洗濯物をいっしょに干したりたたんだりすることにより自立支援を促すとともに、転倒予防等のための見守り・声かけを行う。

痴呆性の高齢者の方いっしょに冷蔵庫のなかの整理等を行うことにより、生活歴の喚起を促す。

アンダーラインは佐々木が加え、キーワードは太字にしましたキーワードは計画書に盛り込まれている事が望ましいと考えます。(そうでないと根拠が不明瞭で「計画ではで家事代行でも良いように読み取れる」と指摘を受けかねません。)そして、例えば認知症などで不安や猜疑心が強く声掛けなどの細心の“専門的配慮”をして、見守り見守られつつ“生活歴の喚起”をしながら「共に行う掃除」は「身体介護」と解釈し得るのですが、今後は、どんな認知症状なのか? 自立支援の目標は? どこまでを本人にやって貰うか?等、さらには、計画に盛り込んで評価せよ等の明確化が求められてくる事も考えられます。今のうちから「〇〇の様子だった」「〇〇を本人やって頂いた」等を記録に残す習慣をつけましょう。


紙ふうせんだより 2月号 (2018/03/13)

2018年(平成30年) 2月号
創発的介護のすすめ

ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。 日当たりの良い地面にいつの間にか小さな春の花がありませんか? その傍らでうごめくものは蟻、巣穴のメンテナンスに忙しいようです。「また春がきたね。おはよう」と呟いてみます。ところでこの蟻はどうやって全体の行動をマネジメントしているのでしょう。誰か何かがコントロールしているのでしょうか?

「一極モデル」から「自律分散モデル」へ、従来の世界観を逆転させる「創発(そうはつ)」

一時期、「脳を理解すれば人間の全てが解る」といったような短絡的な脳科学がはやりましたね。この考え方には、西洋の一神教的世界観という原型があります。全知全能の神という“一極”は、科学の発達にあわせて物理法則やDNAなどに置き換わりながら、時代の流行を作ってきました。一極モデルとは中央集権型です。人間にとっての一極は発達した大脳であり、そのような高度な中枢神経を持っているからこそ、人間は高度な社会生活を営めると考えられてきました。だから、組織や社会を発達させていくためには、より高度な中枢機関と強力な指揮命令系統が必要とされてきました。しかし謎がありました。脊椎動物のような中枢神経を持たない昆虫の蟻が巨大な蟻塚を築き、分業を発達させた高度な社会性を有している事や、粘菌と呼ばれる微生物の集合体が高度な栄養ネットワークを作っている事などは、「目に見えない何かで意思を統一するなど特別な仕組みがあるのではないか」などと考えてはみたものの、一極モデルでは説明ができませんでした。実は、全体をマネジメントする指示系統などは無く、個々の蟻や菌は自身の性質を過不足なく発揮しただけで、個と個が組み合わさった時、個々には見られなかった新しい性質が自然と全体に発現していたのです。そのような性質の飛躍を“創発”と呼びます。

例えば、水素原子と酸素原子が結合すると「水」が創発します。DNAはA(アデニン)・G(グアニン)・C(シトシン)・T(チミン)の四種の塩基から成っていますが、これらが組み合わさって細胞質の中に置かれると、細胞質にも塩基にも無い遺伝子としての性質が創発します。春の花の一斉開花も創発という概念で捉えられます。創発が生じる時、個々の要素は自(みずか)らの性質を自律的に発揮しているのみで、マネジメントしている一極はありません。しかし実は、物質から生物に至るまで自然界のものは全て、他のものと出会うと創発を生じさせる可能性“創発特性”を内在させているのです。(古代東洋ではそれを「自然(じねん)」と呼び、万物は特別な原因がなくても自然に生成変化する“自(おの)ずから然(しか)る”と考えてきました。)この創発は、自然科学以外の分野からも注目され、ネットワークやAI、仮想通貨などの分野でも応用され目覚ましい発展をしています。キーワードは中央集権の反対の“自律分散モデル”です。人材マネジメント分野では、“チームメンバーの創発特性をどうやって発揮させるか”が目指すところとなっています。

創発的介護には、意見交換から生じる“気付き”が必要

「三人寄れば文殊の智慧」も創発の例です。“文殊菩薩の智慧”は、三人の人間の考えの総和ではありません。もっとそれ以上のものです。1+1+1の過程で創発が起これば、解は3では無く、5や10やもっとそれ以上のものになるという事が創発です。

ビジネスのマネジメントで言われている創発は、プロジェクトの過程で、埋もれている考えをいかに拾っていくかが大切だとされています。計画が立案されたら、一極モデル的にそれの実現にただ邁進すれば良いのではなく、計画の実施過程で生じてきた様々な疑問や計画に取り入れなかった考えなどを創発させ、計画を実施しながら計画そのものを当初のものより、より良い形へと発展させていく事が大切だとされています。

ここにより良い介護を行うためのヒントがあります。計画通りの実施にこだわってしまえば創発は起こりません。計画というものを中央集権的なものと理解して現場のヘルパーさんはただそれに従えば良いというような考えだったなら、視野の狭い偏った支援となります。創発させるためにはどんな時でも新たな疑問や意見が生じなければならないし、随時それが活かされるように、創発する可能性を計画に織り込んでおきます。ヘルパーさんは個々が単独行動をするという意味で分散しています。これを強力なマネジメントで型にはめるのではなく、創発特性が発揮されるように自発・自律的な行動を奨励し、お互いの連携を密にしてそこらから生じてくる新たな“気付き”を関係者で共有して支援を発展させていくのです。

ある利用者さんが、体の衰えから弱気になっているとします。家族からも「一人で入浴してはいけません」と注意されてプライドもズタズタです。ヘルパーさんを使う事は恥ずかしいと思っていましたが仕方なく入浴介助が始まりました。しかしヘルパーさんとの交流で気持ちは楽になり、“ヘルパーさんの提案”により一緒に外出する事が計画に加わりました。外出は楽しく歩く事で体力も気力も回復、いつの間にか老いに対するネガティブな考えは消え、家族関係は穏やかなものとなっていた。今は家族共々老いの良さをしみじみと感じている…。

従来の価値観を逆転させるような、こんな創発的な介護ができたら楽しいですよね。
【創発(そうはつ)】

要素間の局所的な相互作用が全体に影響を与え、その全体が個々の要素に影響を与えることによって、新たな秩序が形成される現象。(小学館/デジタル大辞泉)

「創発」とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない特性が、全体として現れること。物理学や生物学などで使われる用語「emergence」(発現)が語源で、自律的な要素が集積し組織化することにより、個々のふるまいを凌駕する高度で複雑な秩序やシステムが生じる現象あるいは状態をいいます。所与の条件に基づく予測や計画、意図を超えたイノベーションが誘発されるところから「創発」と呼ばれ、組織論やナレッジマネジメントの分野では、個々人の能力や発想を組み合わせて創造的な成果に結びつける取り組みとして注目を集めています。(『日本の人事部』/人事労務用語辞典)

システム中で、上位のレベルには備わっていなかった機能が、下位のレベルが機能することで発現すること。個の行動によって、全体の秩序が規定されること。人工生命や人工知能の分野で重要となる概念。(三省堂/大辞林 第三版)

 
 

★平成30年度の研修計画を策定しました。

訪問介護は、その業態からヘルパーの皆様が一同に介しての研修やミーティングの開催がなかなか難しい状況にありますが、皆様のご理解を頂き参加をお願いいたします。今年度は年間日程を出して、木曜日か金曜日の18時半からのヘルパーミーティングと同時開催として月1回行ってきました。

さて、来年度の計画では、従来の月1回のミーティングとの同時の研修に併せて、夜間に来られない方も参加できるように日中帯にも開催をする事としました。日中帯は梅丘ではせわしないなので会場を祖師谷として、担当は佐々木となります。また、内容は梅丘の研修を基本研修と位置づけ、祖師谷を発展研修とします。より学びを深めたい方、基礎に飽き足らない方、夜間の参加が無理な方など、参加をお待ちしています。そして、どのヘルパーさんも皆様、年1回は必ず参加して下さい!!!

よろしくお願いします。参加に際してのシフト調整の希望はお申し出ください。
平成30年度 訪問介護研修計画 / 基礎 (会場:梅丘 18:00~)
日程 曜日 担当 関連項目
4月18日 佐々木 接遇に関する研修
5月23日 斉藤 緊急時の対応
6月21日 本郷 移動・移乗の介助
7月21日 荻野 熱中症・感染症・食中毒の予防
8月17日 (懇談会) (暑気払い・CMと意見交換)
9月18日 小泉 認知症及び認知症ケア研修
10月24日 佐々木 プライバシーの保護の取り組みに関する研修
11月22日 斉藤 高齢者虐待
12月14日 (懇談会) (忘年会・CMと意見交換)
1月22日 本郷 倫理及び法令遵守に関する研修
2月20日 小泉 事故発生又は再発防止に関する研修
3月29日 荻野 ベッド上の介助(更衣・排泄・移乗)
研修の内容は、関連項目に基づきますが、時事ネタや事業所内での出来事など旬なものを取り入れつつ、形式ばった単調なものにならないように留意し、創意工夫します。皆様の意見をお寄せ下さい。研修の日時は変更する場合がありますが、毎月の紙ふうせんだよりでもお知らせします。(なお、個別面談は今後も随時受付ています。)
平成30年度 訪問介護研修計画 / 発展 (会場: 祖師谷)
日程 時間 担当 内容→検討中
2~3ヶ月に1回 日中帯 佐々木 基礎より発展した内容。講義形式ではなく参加型。構成的グループ・エンカウンターの手法なども取り入れたいと考えています。
詳細は紙ふうせんだより3月号でお知らせします。
※梅丘の研修は、基本的にはヘルパーミーティングと同時開催です。日頃の困っている事やケアの疑問など話し合いしますので、是非おしゃべりしに来てください。

※研修は全て個別研修計画に基づくものとなっています。
年に一度は健康診断をお願いします。

平成29年度の健康診断結果の提出をお願いいたします。

結果表を提出の際は、領収書を持参して下さい。費用をお支払いたします。受診がお済で無い方は受診をお願いします。

※領収書の提出は、原則その月内でお願いします。

※オプションは個人負担になります。
【お願い】インフルエンザ予防接種をお願いします。

領収書を持参して頂ければ、1000円を助成します。
 

平成30年4月訪問介護改正概略 (2/2ケアマネジメントオンライン配信記事より)

<現行>   ➡  <改定後>

身体介護中心型    20分未満       165単位   ➡  165単位

20分以上30分未満        245単位   ➡        248単位

30分以上1時間未満       388単位   ➡  394単位

1時間以上1時間30分未満      564単位   ➡  575単位

以降30分を増すごとに算定      80単位  ➡  83単位

生活援助加算※          67単位   ➡  66単位

※引き続き生活援助を行った場合の加算(20分から起算して25分ごとに加算、70分以上を限度)

生活援助中心型      20分以上45分未満   183単位   ➡  181単位

45分以上    225単位   ➡  223単位

■自立支援が奨励され、生活援助には“圧力”

訪問介護の基本報酬は「身体介護」はやや増、「生活援助」は微減。国が定める基準回数を超えて生活援助をケアプランに位置付ける場合、ケアマネは市区町村に届出が必要となる。厚労省は「何が生活援助で何が身体介護か」を改めて通知する方針。

■サ責とケアマネの連携強化 利用者の服薬状況や実際のサービスの提供時間とプランとの違いが大きい場合などを、サ責はケアマネに連絡し情報共有する事、報告を受けた ケアマネは必要に応じてプランの見直しをする事が役割として明確化。(4月以降はヘルパー2級のサ責は不可)

~~ヘルパーミーティングのお知らせ~~

【日時】 2018年 3月15日 木曜日 18:30~

梅丘の事務所内にて

★担当利用者さんの状況等・支援計画の変更の必要性の有無 ★今月の議題・伝達事項

会議参加手当(ミーティング)は1回につき1370円です。


紙ふうせんだより 平成30年1月号 (2018/02/02)

“当たり前”な事に最善を尽くす
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。厳しい寒さですからご自愛下さい。風よけにいつでも事務所にお越し下さい。お弁当を食べても良いですよ。
「事務所の人が昼も忙しそうに仕事しているから、居心地が悪いので行きづらい!」
それは配慮が足らず申し訳ありませんでした。休む時はしっかり休んでメリハリをつける。これ仕事の基本でしたね。何でも、小学生に計算問題500問を連続して一気に解く事と、100問ごとに1分の休憩を取る事の両方でテストすると、休憩を取った方が休憩を含めて所要時間が短縮され、しかも正解率がアップしたそうです。「急がば回れ」です。皆さんも何か無くても寄って下さいね。顔を見れば気になる事も思い出しますし、気分転換にどうぞ。
介護の仕事は“誰でもできる仕事”ではない
昨年の年頭は、日本マイクロソフトの社長が「2017年はAI元年」と語っていました。AI(人工知能)の発展は目覚ましく、雑誌やWEBニュースで「AIで無くなる職業のランキング」の特集が組まれていますが、介護や保育は無くならない職業とされています。嬉しくもあり誇らしい反面、複雑な気持ちです。この職種は世間からは“誰でもできる仕事”と誤解され給与は安く抑えられたままであり、どちらも旧来の家父長制的な家族観の中では“嫁”のやるべき仕事とされてきました。近年の日本は、核家族化や女性の社会進出が進み介護・保育の担い手が減少したことから、それらを社会全体で担おうと保育園の整備や介護保険制度を創設してきました。しかし背景には未だに男女不平等や嫁(主婦)差別があるため、その延長線上にある介護・保育の社会的評価は残念ながら低く位置づけられたままなのです。
私が紙ふうせんだよりで介護について多方面から論じてきたのは、介護の仕事を意識的に行いその価値を高めると同時に、その目的は生活や人生の質を高めるという“当たり前”の事だと示したいとの想いからです。AIへの転換が進みそうな仕事は専門的知識が必要(高給なために高コスト)な定型的な業務のようですから、介護の仕事は非定型的なクリエイティブなものだと言えるのですが、当然です。対象とする利用者さんは十人十色であるため介護には初めから“正解”などなく、“最善”を利用者さんや仲間と共に目指し作り上げるものです。もっと言うと、人生や人間そのものが本来非定型的で創造性に富むものなのです。そのようなクリエイティビティを発揮するには、利用者さんやヘルパーさん(そして友人や家族)の関係に創発(そうはつ)的な触発が必要です。その為には一人ひとりが自他の多様性を自覚し、個性をより良く表出させていく努力が必要です。介護の仕事は、人間らしい“当たり前”の事を目指す為に誰にでも始められる仕事ではありますが、最善を尽くし高めていこうとする時は、人間性について思索し自分自身の内面にも目を向ける自覚的努力が必要な為に、“誰でもできる仕事”ではなくなってくるのです。また、過労自殺などの社会問題を見ても“当たり前”の事がもっと重要視され、一人ひとりが尊重される世の中になって欲しいと思います。
創発的な触発を高めていくために必要な事
さてITの巨人と称されるアメリカ企業のグーグルは、生産性の高いチームは何を持っているのか分析し、全体に活かそうという研究「プロジェクト・アリストテレス」を行いました。以下の設問でAとBそれぞれどちらが良い成果を生んでいるでしょうか。まずはチーム内の人間関係や規範(チームカルチャー)に着目です。
Q1. A=社外でも仲良く付き合う友達同士 B=まともに会話をするのは会議室の中だけで
それを出ればアカの他人
Q2. A=強いリーダーのもとに階層的な人間関係を築いている B=フラットな人間関係
Q3. A=仕事中に雑談したり他人の噂話をしたり週末のプランを話すなど、私的なコミュ
ニケーションが交わされている B=オフィス内では仕事に専念し私語は厳禁な雰囲気
社内の何百とあるチームを分析してみましたが、結果は三問ともAとBに差は見られせん。しかし「成功するチームは何をやっても成功し、失敗するチームは何をやっても失敗する」という事が明らかになりました。メンバーの多くが重複する二つのチームでも成功するチームと失敗するチームがあり、成否の違いはメンバーの能力差でもチームの仕組みの問題でも無かったのです。浮かび上がってきたのはチーム内で他者に対する気遣いや配慮や共感が自然と交わされているかどうかでした。成功するチームには「心理的安全性」があったのです。
「本来の自分」を発揮できる当たり前な人間関係を目指して
「心理的安全性」は認知症ケアなどにも活かせそうな“当たり前”なキーワードですね。これは例えば「こんなことを言ったら馬鹿にされないだろうか」とか「叱られないだろうか」というような、不安な気持ちが払拭される関わり合いです。例えば会議の場では(途中で遮られるかどうかは別にして)全員が言いたい事を言える雰囲気が自然に醸成されている事が重要であり、指示やルールという押し付けでできる事では無いというのです。しかしそのために何ができるかは悩ましく、グーグルのあるリーダーはインフォーマルなミーティングで進行の遅い転移性の癌が自身にあると明かしました。すると他のメンバーが続いて自分の気持ちを打ち明け、自然とお互いへの気遣いや配慮などの語り合いになったそうです。
ジャーナリストの小林雅一は「プロジェクト・アリストテレス」の結論に対し、現代ビジネスの記事で次のように締めくくっています。「もちろん公私混同はよくないが、ここで言っているのは、そういう意味ではなく、同じ一人の人間が会社では『本来の自分』を押し殺して、『仕事用の別の人格』を作り出すことの是非である。多くの人にとって、仕事は人生の時間の大半を占める。そこで仮面を被って生きねばならないとすれば、それはあまり幸せな人生とは言えないだろう。社員一人ひとりが会社で本来の自分を曝け出すことができること、そして、それを受け入れるための『心理的安全性』、つまり他者への心遣いや共感、理解力を醸成することが、間接的にではあるが、チームの生産性を高めることにつながる」
「本来の自分」を発揮できるようになる事は、自分自身に対する“自立支援”でもあり、利用者さんの自立を促す事にもなると私は考えます。皆さんが声の一つ一つが紙ふうせんの宝物です。皆さんの気持ちを聴いて紙ふうせんが心の拠所となり、皆さんの意見をもとに最善を尽くしていきたいと思います。梅丘にも祖師谷にも気軽に遊びに来て下さい。

【お願い】インフルエンザ予防接種をお願いします。

領収書を持参して頂ければ、1000円を助成します。

【ごあいさつ】

皆さんお元気ですか?寒さに負けてはいませんか?自転車で腰がスース―するので、私はダイソーの100円腹巻を愛用しています。商売道具は大切にしないといけませんね。介護の仕事を続けるには身体も大切です。同時に、人と関わる訳ですから私は常に新しい気持ち(=心を大切に)でありたいと思っています。もちろん悩む事もあり、悩みから距離を置いて周囲をウロウロとして余計な事に手を出して気持ちは晴れず、結局元の所に戻ってきて悩みと向き合います。「足下を掘れ!そこに泉あり!」という事なんでしょう。自分の立っているところを見つめ直し悩みを掘り下げることによって、新しい“価値”を見出すことができます。介護の仕事を続ける価値、人生の価値等々、これらは与えられるものでもどこかに在るものでもありません。自分がその井戸から水を汲み続ける限り、泉は無限に湧き続けるでしょう。汲むのをやめてしまった時、泉は枯れてしまう。そうやって心の泉を汲むのです。

そんな事を考えながら、来年度の研修の在り方を考えています。構想としては、梅丘での開催を「基礎研修」と位置づけ、祖師谷でも定期的に「発展研修」を持ちたいと考えています。祖師谷はサ責や意欲の高い方などが対象です。具体的な事(年間研修計画等)が決まったら、2月か3月には紙ふうせん紙上にてご案内します。

心と身体に気を付けて下さい。本年もどうぞよろしくお願いします。       佐々木伸孝

 

年に一度は健康診断をお願いします。

平成29年度の健康診断結果の提出をお願いいたします。結果表を提出の際は、領収書を持参して下さい。費用をお支払いたします。

受診がお済で無い方は受診をお願いします。受診先等に迷った場合はご相談下さい。なお、世田谷区では500円で受けられます。

~~個別面談のお知らせ~~

 

年に1回程度呼びかけをしている個別面談を、今回もお声掛けいたします。

定例のヘルパーミーティングとは別途開催です。

特に定例のヘルパーミーティングや研修に参加できていない方、お待ちしています。

「個別面談研修」として有意義なものにしたいと考えておりますので、以下を面談に臨む時の留意点とさせて下さい。

★自分自身に対して自覚的な姿勢をもって、自分は何について話をしたい

(話を聞きたい)か、事前にできるだけテーマ(課題)を明確にする。

とはいえ、上記のように断るとハードルが高すぎる懸念もありますので、まずはお気軽にお申込み下さい。(※サービス提供責任者の面談も行います)

 

【内容】個別面談研修 一応事前予約制(申し込みは電話・FAX可)

【面談対応者】佐々木・斉藤・本郷・小泉(指名制)

【会場】梅丘もしくは祖師谷事務所 他

【日時】希望を受け相談

※同封の「面談申し込み書」でお申込み下さい。

「個別面談申し込み」は今回の期間以外でも随時申し込みできます。

【期間】平成30年3月上旬まで

※登録ヘルパーさんの研修手当は1370円です。

~~ヘルパーミーティングのお知らせ~~

【日時】 2018年 2月15日 木曜日

梅丘の事務所内にて

★担当利用者さんの状況等・支援計画の変更の必要性の有無 ★今月の議題・伝達事項

会議参加手当(ミーティング)は1回につき1370円です。

研修会】 健康管理② (担当・伊藤)

(ヘルパーミーテイングと同時開催。個別研修計画に基づく研修会です)

 


紙ふうせんだより 12月号 (2017/12/20)



皆様いつもありがとうございます。ついに12月です。今年一年間、本当にありがとうございました。どんな一年でしたか。いろいろありましたね。いろいろあると人は今の状況だけではなく、自分の歩んだ道を振り返ります。そこに必死に這いつくばるように歩みを進めてきた自分を見出し、その道のりが過去から現在へ繋がってきた事が解ると、これから先の未来にも道が繋がっていると思えて、いろいろあるけれどその辛さを乗り越えていく事ができます。しかし、歩んだ道が霧の中に消えて見つけられない時があります。アイデンティティ・クライシス(クライシス=危機)という状況です。
アイデンティティ・クライシスとは
アイデンティティという概念は発達心理学のエリクソンが提唱しました。自己同一性とも訳されます。自分とは何者か。何をしたいのか。何をするべきか。「自分探し」の過程にあるとき、それはアイデンティティ確立のための悩みとされます。しかし、アイデンティティの課題が生じるのは、一般に思われているような思春期から青年期の若者のみではありません。
功成り名遂げたような人が、突然変わった事などを始めるなどして周囲を驚かすというような時、その内面では「今のままで本当に良いのだろうか」という疑問がふつふつと湧いてきて、「こうあるべきだ」と思っていた人生を続けられなくなってしまっている事があります。このような中年の危機(ミッドライフ・クライシス)に直面した俳優のキアヌ・リーブスは、その時の心情を「自分がどこにいるのか、どこから来たのか、何をしているのかさえ、わからなくなるほどだった」と述べています。青年期以降にもこのような危機を迎える事が多くなった背景には、社会の変化の激しさがあります。例えば先祖から子孫へと続く営みの中に自分がしっかりと定位されるような昔ながらの農耕社会の場合は、大人になる事の手本は親であり親を継ぐ事がそのまま社会からの承認でもあり、そのような生き方に疑問を抱く余地はほとんど無く、自己を意識する機会も少なかったでしょう。しかし現代に生きる人は、親の生きた社会と子を取り巻く社会状況はまったく異なっていますから、“社会とは何か”“自分とは何か”という命題にほとんど一人で向き合わなければならないのです。「私は○〇になりたい」と明確に目標を持って突き進んでいる時は迷う事はありませんでした。しかし一段落してみると「一体これで良かったんだろうか」という疑問が鎌首をもたげ不安を呼び込みます。自分は“成功しているにも関わらず”どうして不安にさいなまれるのだろう…。このようにアイデンティティ・クライシスは、確立された自己を不変のものとして信じきってしまうような頑な自己認識によっても、引き起こされる事があります。アイデンティティは体細胞が代謝によって入れ替わっていくように、実は常に再構成されているものなのでしょう。周辺環境や心境や体内環境などが大きく変化した時、アイデンティティの再構成が追い付かないと“自分が自分である”という感覚の連続性や統一感も揺らいでしまうのです。
『私は誰になっていくの』アイデンティティ・クライシスの苦悩
46歳で若年性認知症となったクリスティーン・ボーデンが、当事者としての心の内を語り話題となった著作は、『私は誰になっていくの?』というものでした。認知症の方も記憶が失われていく事によって、過去から現在に繋がって自分を形づくるさまざまな関係性がわからなくなり、自分が消えてしまうようなアイデンティティ・クライシスに直面します。
 アイデンティティ・クライシスという概念で、若者から要介護高齢者に至るまでの悩みを説明して見せたのには理由があります。まず第一に、認知症による“苦悩”は 病気による特殊なものでは無いという事への理解です。病気としての認知症は脳の委縮によって引き起こされ、確かにそれは不可逆的に理解や判断や行動を組み立てる力を奪います。しかし、だからといってそこから生じる苦悩も不可逆的に強まっていくものではありません。第二に、認知症の方の苦悩と、若者が世界に向かって自らを問う苦悩の共通性を理解する事で、介護者は自分の体験をもとに想像力を膨らませて、より利用者さんの気持ちに寄り添う事ができるからです。中高年になれば誰しもクライシスを一度や二度体験し、乗り越えていった事でしょう。その経験から良いケアへの考え方を導き出す事が可能なのです。第三に、介護という対人支援の本質は“健康な者が不健康な者を支援する”“強いものが弱いものを支援する”というような一方通行では決して無いのです。支援する側も同じ人間であり、支援を通して利用者さんから学び励まされ、自身のクライシスを越えてく力を頂く事ができるのです。
クライシスを越えて『私は私になっていく』
 その後のクリスティーンさんは再婚しブライデンと改姓、『私は私になっていく』というタイトルの本を執筆し、“今”という時間にしか生きられなくなった事によって磨かれた自己認識を次のように記しています。「私の魂としての自己は、過去も未来もない『今』という時に存在している。仏教の『刹那』という言葉は、このように時間の枠から離れた存在感覚を捉えたものだ。万物が『今』という場所に存在することを理解すれば、時間の外に在られる神がなんであるかをより深く知ることができる」「私たちにわかったことは、『自分が何を言うか、何をするかが私なのではなく、私はただ私である』ということだ。自分が誰かは魂が決めることだ。認知と感情は人生で変化するが、私たちの本質である魂は神の手の内にある。」
「神」という言葉に馴染みがなければ、それを「永遠」と置き換えても良いでしょう。クリスティーンさんは有限で個人の所有物と思われていた“命”の本質に“永遠なるもの”“不滅なるもの”を見たのです。この時「自己」という限定された認識は、自他を隔てる壁を無限の側に越えていきます。この『私は私になっていく』という認識は前号の『外側の世界が不自由であるほど、心は自由になっていく』と同じ方向を見ています。自分を見失った時“自分”にこだわる小ささに気が付いたならば、より大きな自分を発見できるのです。
 介護の仕事は命と向き合う仕事です。私たちが介護という“場”を利用者さんと共有する時“あなたは私であり、私はあなたである”というような、深い共感を味わう事があります。これも限定された自己を越えていく実感の一例でしょう。来月から新年です。今までの自己を越えて、より積極的に新しい「私」になっていけるように念願しています。本年はどうもありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。
≪介護の疑問に答えます≫
【認知症ってどんな病気?】
疾病の基礎知識としての「認知症」について
質問を受けたらたらどのように答えますか?
認知症とは、脳の認知機能(思考や判断や記憶)に問題が生じている“症状”を指します。そのため原因に関わらず“認知症” と一括りにしてしまうので誤解を生んでいます。また、加齢も含め様々な病態が複合するので本当の確定診断は難しいのが現状です。
〇病気としての“認知症”ではない認知症状
入院や環境の変化(子供との同居や引っ越しや配偶者の死)は、心理的に大変な負担になります。このような時、ウツ状態(老人性うつ)になってしまい言動が認知症とそっくりになる事があります。周囲が焦らずに本人の気持ちに寄り添ったり、本人が生活の目標を見つける等すると改善しますが、医者が安易に認知症の薬(塩酸ドネペジル/商品名アリセプト)を出してかえって症状が悪化するケースもあります。
〇病気とされる“認知症”
<アルツハイマー型認知症>一番多く全体の70%、アリセプトの早期服薬で進行を遅らせる事ができると言われています。病気とされる認知症を疑う時は、大きな病院で脳血流検査やMRIなどの画像検査を受けた方が良いでしょう。
<レビー小体型認知症>床のシミが“虫”に見える等、幻視が特徴的。アルツハイマーやパ
ーキンソン病との誤診も多く、アリセプト服用で悪化する事もある。
どちらも加齢により脳に老廃物が蓄積した為(潜伏期間は長い)と考えられており、進行すると画像検査で特徴的な脳委縮が見られます。しかし委縮があっても発症しない人もあり不明な点も多い。病的な認知症は「夕食を食べた事自体を忘れる」というように記憶全体が抜け落ちます。他には少ない症例ですが前頭側頭型認知症もあります。
〇改善する可能性の高い認知症状
<正常圧水頭症>脳脊髄液の循環が悪くなり脳を圧迫するために『認知症状・歩行障害・尿失禁』が現れます。認知症が進んだとばかり考えて見過ごされる事も多いのですが、脳脊髄液を減らす処置をすると脳への圧迫が無くなり、症状が軽快します。
<加齢による認知症状(物忘れ)>加齢による物忘れは普通の事ですが、忘れてしまった事を必要以上に悔んだりすると、精神的な落ち込みから症状が悪化(老人性うつ)する事があります。しかし基本的には、適応力という生物本来の力がありますので、本人のペースで慣れていく事や、本人なりの工夫によって生活上の問題を解消させる事が可能です。「夕食は食べたけど、何だっけ」というように忘れるのはエピソードの一部です。  
〇他の病気などの合併症としての認知症
<脳血管性認知症>高血圧や高脂血症や糖尿病の影響は全身に長期間に及ぶため、脳の血管が傷ついたり詰まった所(微小脳梗塞)が増えた事による血流障害から起こります。
<その他>頭部打撲後の硬膜下血腫(取り除けば治る)や、多量長期間の飲酒やビタミンB1欠乏などによる脳の変性(アルコール性認知症・ウェルニッケ脳症)でも発症します。
【介護保険制度改正について】
来年は医療・介護保険の同時改正とあって、大幅な変更が予想されています。読売新聞の12/1の記事では「介護報酬、プラス改定で調整…上げ幅は微増」と、報酬増に微妙に期待の持てる見出しですが、記事を良く読み込むと実質的には取得の難しい「加算」を設ける事などで(紙ふうせんでは一度も使った事のない「生活機能向上連携加算」などが今もある)“微増”の印象付けをしているようです。毎日新聞では12/6に「介護報酬改定 自立支援、手厚く加算」との記事があり、介護度を改善するなどした“自立支援”は評価するものの、生活援助の報酬を減らしたり、「月に100回以上の利用は過度」として生活援助の過剰利用のプランには行政がメスを入れ利用抑制するような方向性が示されていました。
この“自立支援”の評価対象は、主に通所介護や特養のようです。なるほど、前回の改定で大幅マイナスされた分野ですね。訪問介護はというと、プラス改定はあまり期待できないようです。“自立支援”は重要視される方向性ですが、“共に行う”“自立支援的家事”は今までも身体介護で算定できましたが、その基準や内容を明確化する方向性のようです。辛くなるという事でしょう。また、生活援助のマイナス方向の理由は“緩和された基準(ヘルパー2級や初任者研修以下の資格創設)での介護職”を導入する事によって、基準が緩和されたのでマイナスで介護福祉士も同一報酬(同一労働同一賃金の理由から?)とするような案が検討されているようです。どうやら生活援助・身体介護合わせたトータルでは、実質的なマイナス改定となりそうな雰囲気です。
ケアマネジメントオンラインの12/12の記事によると、社会保障審議会での議論の要点がまとめられていました。訪問介護に直接的に関わるところを引用します。
■生活援助、一定以上の回数で市区町村に届け出
国が定める基準回数を超えて生活援助中心型の訪問介護をケアプランに位置付ける場合、ケアマネは、市区町村にその内容を届け出ることが義務付けられる。届け出を受けた市区町村は地域ケア会議を開き、ケアプランの内容を検証。その結果によっては、サービス内容の変更を促す。
基準回数は、「全国平均利用回数+2標準偏差(2SD)」の考え方で示される。具体的には、18年4月までに公表される。


紙ふうせんだより 11月分 (2017/11/27)

皆様いつもありがとうございます。風邪などひかれぬようにご自愛ください。廻りゆく季節は暦の上では立冬を迎え、再び冬の足音がしています。良い冬を迎えるためにも、秋に何かを実らせていけたら素敵ですね。秋は実りの季節、人生の話です。

実りある秋にするために

「酒とつまみ貰って花見の場所取りした。後で金くれんだよ。」上野で“フーテン”をしていたというこの方、某高級住宅街に新しく出来た食事付きの高齢者住宅に入居して、借りてきた猫のようだったので児童文学の『王子と乞食』を思い出してしまいました。懐具合の良くなったこの方は買い食いを重ねるようになり、お金を使い切ってしまうと「金が無いから行かない!」とむくれて、ヘルパーさんとの外出(歩行練習)を拒んでは困らせる事も出てきました。私は、「公園に連れてって紅葉を見るなど、新しい外出の楽しみが得られるように試みたら?」とヘルパーさんに提案。この方は“公園で外出を楽しむ”なんていう習性はきっと無かったでしょうから、 上手くいくかどうかはわかりません。でも瓢箪から駒が出ないとも限りません。もし、“介護”が今までの人生の壊れかかった延長線上にあるものではなくて、新たな人や価値観との出会いを通して180°ならぬ360°くらいの人生の転換を成し遂げるような、人生の円満にむけての実りある試みだとしたら、今まで以上に人生は輝くし、“介護”は楽しく素敵なものとなるでしょう。介護の目的をもう一度確認したいと思います。

諦めた想いともう一度向き合うために

介護は、身体機能等が不自由になってゆく状況の中でも尊厳を維持し、成熟した人生の終盤を迎えられるようにする事が目的です。誤解を恐れずに断言すれば、介護はケアプランの目標を達成する事が目的ではありません。あくまで目的は(ケアプランを含めて)その人の「人生」にあるべきです。しかし「人生」などといった大きなものは、A4 3枚の紙に描き切れるわけはありません。ですから細かくニーズをキャッチする必要がありますが、それも実際には大変難しいのです。どうしてかというと、身体の不自由が顕著になってきた方は、介護認定を受けるずっと前から生活について少しずつ色々な事への諦めを重ね、自分の心を縛っているのではないでしょうか。そのような方に、正面から「こうなったら良いな、という生活はありますか?」と尋ねても、返答に窮するばかりです。

想像してみて下さい。経済的家庭的な事情から進学や自分の夢を諦めた人に夢を語らせようとする事が、いかに古傷に触るようなものであるか、という事を。突っ込んで聞いてみても「妹や弟に苦労させたくない」という様なものばかりでしょう。諦めた想いともう一度向き合うためには、夢を語る事が痛みではなく「もしかしたらできるかもしれない」という“希望”に変わらなければなりません。そのためには聞く側の態度が本気であると同時に、「もしかしたら」と思わせる小さな“実績”を積み重ねていく必要があります。

諦めを“できたらいいな”“できるかもしれない”に変えていく

買い物代行を頼んではみたものの、買ってきたものに納得がいかなかったり、「何を買ってきて貰ったらいいかわからない」とこぼされる方がいました

「やっぱり食べ物は自分で選んで買いたいですよね? 一緒に買い物に行くようにしませんか?」「でも私、こんな体だから歩けない…」「大丈夫ですよ、車椅子を私が押して行きますから、スーパーまで行きましょう。スーパーの中はカートを使って歩きましょう。運動になるし自分で選べるし、一度だけでいいからお試しで車椅子を借りてやってみませんか?」「転ばないかな…」「大丈夫です!支えますから!」こんな調子で久しぶりにスーパーに行くと、じっくりと選んで食べきれないくらい食品を購入したのでした。

一度“できる”と解ると欲が出てくるもので、翌週も大量に購入。しかしその矢先、室内で転倒してしまいました。「『転ぶ度に体は弱くなるよ』って医者に言われたのよ…。」もう絶望的な面持ちです。いつも嘆いてばかりいるこの方の、『縛り』が解ったような気がします。『どうせ一方的に悪くなるばかりだ』という諦めの中で、“どのような生活を送りたいか”という絵が描けずにいるのです。このような時、「もう危ないから家事はヘルパーさんに任せて…」という考えも一理ありますが、それが諦めを加速させてしまわないか、見極めが肝心です。このような時こそ、諦めようとしている気持ちを“できたらいいな”に変えていけるかが問われます。タイミングを逃してしまったら諦めが普通となり、古傷となってしまいます。「失ったものを数えるのではなく、持っているものを数えよう」とはよく言います。ストレングス(強味)に注目するというやつです。この場面でのストレングスは転んだ事です。

「“転んでもただでは起きない”って言葉があるでしょ。中年になっても若い頃と同じように運動もせず食事にも無頓着って人、普通でしょ。でもそれで身体を悪くして、“このままじゃいけない”って食事に気を付けて運動したら、以前より健康になるんです。これを機に、一緒に買い物に行って今まで以上に歩きましょう。そしたら必ず前より歩けるようになりますよ。“転んでもただでは起きない”って言葉が有るんだから本当ですよ!」するとこの方の口から意外な言葉が出てきました。「私、自分で味噌汁作りたいって思ったんだけど、自分で運べないでしょ?」諦めた想いがもう一度出てきたのです。室内で使用している歩行器に、トレーを付けるなどの工夫をこの方と約束しました。“できるかもしれない”という心の中の小さな“革命”の積み重ねが、老いてこそ輝く“心の自由”となるのではないでしょうか。

心の中の小さな変革から“命の意味”を実感したい

全てが理想的に運んだとしても、いずれは死を迎えます。だからといって、今月の目標や今年の目標が全て無意味とは言えないでしょう。残された時間を諦めながら数えていたとしても、人は“生きる目的”を探しているものです。ある聴覚障がい者のブログには「外側の世界が不自由であるほど、心は自由になっていく」とありました。「外側に制限がどんなにあったって、心は自由。それが本当の自由、なのかもしれないね。」と、締めくくっています。これは仮定の話ですが、いずれ誰もがもうどうしようも無くなって、命を繋ぐことが目的となる日が来るかもしれません。でもそのような時が「本当の自由」という“命の意味”を実感できるような機会となって、大団円となり得るのかもしれません。

http://morinomajo.blog.jp/archives/55654237.html  (一部省略して引用しました)

このブログ主は、耳が聞こえない事で周囲の会話に加われない自分に引け目を感じて、取り残された感じの辛さを抱いていたようです。しかし、そんな“縛り”から心が自由になる瞬間がやってきます。

このブログ主のような疎外感は、周囲と会話の噛み合わない辛さを持つ認知症のある方の持つ気持ちと同じでしょう。共感的理解の参考になると思い引用しました。“外側に制限がどんなにあったって、心は自由”だからこそ、「病気や障害は“不幸”ではない」と断言できるのではないでしょうか。
外側の世界が不自由であるほど、心は自由になっていく

http://morinomajo.blog.jp/archives/55654237.html

私は聞こえないから、「みんなと一緒にできること」がすごく大事で、 「そうなれるようにがんばらなくちゃ、でもできなくてつらい」って思っていたんだな・・・

がんばればなんとかなる、でもがんばってもがんばってもどうにもならない、

よくなっていかない、ってこともつらかったんだ。

こんなにがんばっているのに、よくならない、だから、こんな自分はだめだし、

周りにも「こんなにがんばってるのに、なんでわかってくれないの!」って思ってたんだなぁ・・・

でもやっと、みんなと同じようにできなくても、できないところがあっても、それでよくて、 みんなと一緒じゃなくていいって思えるようになってきたんだ。 そんなことが思えるようになってきたところに、ある食事会に参加して、 話はあまりわからなかったけれど、いつものようにつらくなることはなくて、 「ま、いいか」と思えた。

そのときに話されている話がほとんどわからなくても、別にどうってことないんだなって思った。 (もちろん、時々書いてもらったり、私にわかりやすく話してもらう配慮もしてもらえたけれど、  それでもほとんどわからないことが多かった) そして、話のわからない私だけれど、そこにいたみんなは、私のこと好きなんだな~、って 勝手に思ったら(そんな感じが伝わって)、楽しくなってきた。
きっと、みんなと同じように話を楽しめない私なんて、好きになってもらえない、って いうことも思っていたみたい。 だから、このとき、「なんだ、私が聞こえる聞こえないにかかわらず、みんなは私のこと好きなんだ」 って勝手に思ったら、楽しくなったんだ。 そして帰りの電車で、「なんか、楽しかったな」なんて思えて、 話があんまりわからなかったのに、「楽しかった」なんて思ったのは、初めてかも、 って自分でもびっくりだった。 そして今日、そのことを思い出したりしていたら、 ふいに、 私はこの体に生まれてきてよかった! って気持ちが湧き上がってきて、号泣した。 自分で自分のことを、受け入れられた瞬間だった。 それで思ったんだよ。 障がいとか、マイノリティとか、物理的に、社会的に、外側に制限があると、 どうしても、行動にも制限がかけられてしまう。 例えば、聞こえないと、ここに書いたように、みんなと話が楽しめない、とか 歩けない人だと、一人で遠くへ行けない、とか・・・ でも外側に制限があるからこそ、その制限を外そうともがく、苦しむ、なんとかしようとする・・・ それを外側のせいにしないで、社会のせいにしないで、自分の内側をとことん見つめる、 傷はどこから来ているのか、自分の闇を見る、そしてそれでもいいって、どんな自分でもいい、 ってOKを出してあげる、自分を愛してあげる・・・ それができたら、外側にどんな制限があっても、心は自由になっていき、 心が自由になったら、逆に、外側に制限はなくなる。 だから制限は、自分で作り出している、ってことなんだ。 「周りに理解してもらえない」っていうなら、「自分で自分を理解しな」ってことなんだよね。

外側に制限がどんなにあったって、心は自由。 それが本当の自由、なのかもしれないね。
築地鮮魚・磯焼 漁火 経堂店
 

 

平成29年12月14日 (木)19:00

会費3500円~4000円程度

★ヘルパーさんには別途ミーティング参加手当が付きます!
経堂駅北口 ロータリー前

ケンタッキーフライドチキン隣

経堂2-2-4 美登利ビル2F 03-3426-1881

 
お気軽にご参加下さい。予約の都合上、参加連絡は早めにお願いします。

 
~~ヘルパーミーティングのお知らせ~~

【日時】 平成29年 12月14日 木曜日

忘年会会場にて行います。ケアマネさんも参加します。

懇談・交流会となります。(個別研修計画に基づく研修会も兼ねています)

会議参加手当(ミーティング)は1回につき1370円です。
<年末年始のシフト調整>

★担当の利用者さんに、年末年始のサービス利用の有る無しの意向を聞いて下さい。

★自分自身のお休み希望と併せて、利用者さんと相談して事務所まで報告下さい。

★年末年始のお休み希望の申請は極力早めに提出して下さい。(申請時は以下の2点に留意)

①ヘルパーさんのお休み時のサービスは、キャンセルか振替か?の利用者さんの意向

②振替サービスの変更日時を利用者さんとの確認

★12/30~1/3の時給は、25%割り増しとなります(移動支援を除く)。

 

<年末年始のサービス実施記録集計業務>

★業務分散のために、12月の半ば頃に2~3度サービス実施記録の提出をお願いします。

★年末の最終業務日に、必ず自分の事務所まで「実施記録」をご持参下さい。

★もし、持参できない場合はその日中に郵送をお願いします。その際、可能であれば出勤簿はあらかじめ事務所にFAXして下さい。FAXの出勤簿で集計作業を行います。

★事務所休業期間は、12/30~1/3です。


紙ふうせんだより 10月分 (2017/11/01)

何でこの仕事を続けているのだろう

皆様のおかげで、利用者の皆さんも家族も、地域の方も紙ふうせんも助かっています。本当にありがとうございます。8月に報道された「労働力調査」(総務省)の2017年6月分によると、医療・福祉の就業者数は前年同月比で、9万人減(839万人)でした。全体の就業者数は“61万人増”にもかかわらずです。統計には数字の“マジック”があるものですが、何なんですかこの差。保育や介護の重要性が叫ばれる中、9万人減とは……。(61万人増は、団塊の世代の退職後のアルバイトや主婦パートの増加、24歳以下の就業者数の増加などの様です。)

 こんな状況の中で今でも介護の仕事を続けておられる皆さんは、立派です。数多の戦いの中でも挫けずに生き残った、いわば誇り高き英雄です。そんな皆さんと一緒に、今一度訪問介護の仕事のやりがいについて考えてみたいと思います。

 

あの方も、あの方も、皆旅立っていきました

そうやって思い巡らすと、いろいろな思い出がでてきます。少女のような瞳で的外れなヘルパー批評を話しながら、「全ておまかせします」なんて言っていた大正生まれの女性。孤独の中に思いがけず多くの人と出会い、頑固な性格からあたふたしてヘルパーを批判しながらも、人生の最晩年にその変化と刺激を楽しんでいるような方でした。多量の水が肺に溜まって血中酸素濃度が恐ろしく低くなってもケロッとしており、頼み込んで入院して頂きました。最後の病床では入院を主導した私に文句を言いたかったのでしょうか。駆け付けた私が手を握ると、息を大きく吸い込んでそのまま亡くなりました。

今でも私は、あの気持ちが通じ合ったような感じを覚えています。私にしみこんでくるあなたの気持ち。しみじみと、出会って良かったと思う感じ。もし今あなたに一言何かを伝える事ができるのであれば、それは“好きだよ”という気持ち。家族でもない、恋人でもない、年齢差もある、友達ですらない。でもそう思える瞬間があり、そんな“他人”がこの世に存在していたという驚きは、私が今生き延びる力になっているのです。あの時のあの感じがあるから、私はこの仕事を続けています。

 

利用者さんからの“贈り物”

末期ガンの方がいました。ついに歩けなくなって体中がむくみ、血色も悪くなりました。しばらく出ていなかった便が出てSОS、臨時訪問して綺麗にしました。ケアマネさんもやってきて、今後について手短に相談。寝たきりになってしまったその方は、「ご飯まだだろ。食べていきな」と言われ定食屋に電話して下さいました。誰も口に出して言わないけど本人も感じていることがあります。もう限界で食事も喉を通らないその方と、カツ丼大盛りを行ける私たち。食べられない人の分も食べてやろうと頬ばりながらこれが最後の別れになると思うと、それはただのカツ丼ではありませんでした。そして数日後、旅立っていかれました。

ほんの一瞬の関わりでしかない私たちとの出会いは、あの方の人生にとってどんな意味を持つのだろう。あの方の人生全体の歩みに対して大きな影響は無いであろう断片的な関わりであったけれど、あの方の心の中に、私と同じように、ほんのひと時だけど思い出深いという感じは残るのでしょうか。そしてその感じが今も私に有り続けるのはなんだろう。

肩書も名誉も捨て身体も衰えて、ガードするものが一切無くなったふるえる心は、雄弁に語れる言葉はもう無くただ私たちを待っている。そうしてにじみ出てくる気持ちは、何かを待っている。そんな時だからこそ、私たちがガードを下げさえすれば、その気持ちが私たちにしみこんでくるのだろう。

 

その時、私たちが受け取るもの

「患者や家族からの贈り物は決して断るな、有難く頂戴しろということだ。なに? 病院のあちこちに、贈り物は固くお断りしますと書いてあるだと? そうだ。別に私は、患者にものを要求しろとか、何かくれと言えとか唆しているのではない。くれないならくれないでいい。ただ、あの貼り紙を見て、それでも患者が何か差し出してくるのには、それなりの理由があるのだ。それを断って良いことなど一つもない。」これは、癌専門医の里美清一の主張。綺麗ごとや建前を超えたところに本当のコミュニケーションがあると言う。

要求は論外ですが、頂くにしろ断るにしろ“物”ばかり注目していては、そこにある心を見落としてしまう。本来「綺麗ごとや建前」はお互いの距離感を適切に保ち、お互いの心が剥き出しになって傷つかないようにするためのものです。しかし、ターニングポイントを自覚する方の心は、その自覚ゆえに、すでに剥き出しになっているのではなかろうか。そんな時周囲の人が建前論に終始していれば、たった一人で自分の旅立ちの心を支える事になる。そんな心細さを持つ方が私たちに差し出す“贈り物”は、“物”だけではないだろう。静かな眼差しを投げかけてくる事もあるし、波立つ感情をそのままぶつけてくる時もある。そうやって最後の時に向けて放たれたその気持ちを、私たちはどれほどまで受け取れているか。自分なりの素直さで、よくしみこむ真綿のような純粋さを持って、気持ちに気持ちを返す事ができているでしょうか。そのように“贈り物”のお返しができるようになりたいと思う。

「昔、障害者の介助に入っていて事情があってその介助からは離れたけど、最後の日に手を取り合って涙を流した…」と、あるヘルパーさんが語っていました。そのような思い出があるからこそ、私たちは今まで頑張れたのです。その瞬間の心の通じ合い、その時心湧き上がるもの。これこそが旅立つ不安を消し去り、これからを生きる私とあなたの勇気となるのです。そんな瞬間は決して多くはありません。その瞬間をたじろぐ事なく受け止め、その時の何かを、しっかりと受け取っていける自分でありたいと思います。

 

「医者と患者のコミュニケーション論」新潮新書  里美清一

私が若い頃、ずっと診てきた患者さんが骨転移により身動きできなくなって、近くの病院に入院されたのを見舞ったことがある。予告なしに訪れた私に対して、患者さんは驚きかつ喜んでくれた。そこで「何もないのですが……」と差し出された缶コーヒーを、私は飲まずに断ってしまった。私にとって、人生の痛恨事である。(略)

ちょっと前に流行った言葉を使えば、「おもてなし」である。おもてなしは、「する」側が「される」側を喜ばせるのが主眼なのではない。「される」側が、きちんと受けることによって、「する」側が喜ぶのである。

 あの患者さんは、自分が出来る精一杯の「おもてなし」をしようとしたのに、私は退けてしまった。断られたことで、患者さんは、これが「たかが缶コーヒー1本」なのだという現実に引き戻されたのだ。そのことで、思うように動けないご自分の惨めさを改めて思い知らされたに違いない。私はなんと残酷な仕打ちをしてしまったのか。

 

 

【紙面研修】介護保険の費用って?と相談されたら…

【介護保険の費用負担】

・ケアプランの作成は、現在は自己負担無料ですが、社会保障費の抑制の観点から有料化が検討されていますが、反対意見が多い。

・現在、利用者自己負担は1割~2割がとなっています。(2割負担は、単身世帯なら年金などの所得が280万円以上の方)しかし、来年8月から、単身世帯なら年金などの所得が年340万円以上の方が3割自己負担となります。

・利用者自己負担以外の費用は、半分が40歳以上の国民が納付した介護保険料から、半分が税金から支払われます。(50%が保険、25%が国・12.5%が都道府県・12.5%が区市町村負担。)なお、介護保険料の納付年齢も引き下げが検討されています。

 

 

【在宅介護は実際にどれくらいかかるの?】

介護保険は、サービス利用を点数として計算します。介護度に応じて利用できる上限の点数が設定されています。それを「区分支給限度単位」と言います。実際の利用料金は、単位×10円~11.4円です。訪問介護の場合は1級地(東京23区)が1単位あたり11.4円です

ですから、ざっくりと見積もると、区分支給限度単位の「単位」を「円」に置き換えたくらいが、かかる費用の月額の上限くらいとみて良いでしょう。というのも大抵のケアマネジャーは、特段の要望が無い限り、区分支給限度単位内で、サービスが賄われるようケアプランを作成するからです。介護度が低い方は、限度単位を使い切らないで余らせてる方が多く、介護度が高い方は限度ギリギリまで使っている方が多い傾向です。区分支給限度単位を超えてもサービスを利用する事はできますが、超過分は全額自己負担か私費サービス利用となります。なお、デイサービス等の食費やレク代は介護保険対象外です。

 

 

 

【自己負担の減免制度】高額介護サービス費

「高額介護サービス費」といって、自己負担分が一定の金額を超えると、区市町村に申請すれば超過分が還付される制度があり、所得によって負担上限額(月額)が決められています。

しかし介護保険の「区分支給限度単位」がありますので、介護度が低い方は負担上限額まで届きませんね。 次のような方が利用を検討すると良いでしょう。

★単身の低所得者で要介護1以上でサービスをフルに使っているような方。

★要介護3以上でサービスをたくさん使っているような方。

★利用者が、世帯の中に2名以上いる場合(ご夫婦利用者)

※世帯で自己負担の費用が合算できるところがポイントです。

 

 

 

 

その他にも様々な制度があります。(「高額介護合算療養費」年間の医療保険と介護保険の自己負担を合算して年間の基準額を超えた額を払い戻し。等)

それらはまた今度取り上げたいと思います。

 

■消費生活センターのご案内

ある利用者さん宅に覚えのない健康食品が送りつけられ、ヘルパーさんが電話して今後の発送を断るケースがありました。一度目を付けられると手を替え品を変え繰り返しカモになる事もあるようです。怪しい話を見聞きした等ございましたら、ご相談下さい。

世田谷区消費生活センター

相談ダイアル03-3410-6522 (世田谷区太子堂2-16-7 三軒茶屋分庁舎3階)

月曜日~金曜日 午前9時~午後4時30分(電話・来所)

土曜日午前9時~午後3時30分(電話のみ)

祝日・12月29日~1月3日を除く

★高齢者(65歳以上)の消費者被害相談専用電話電話番号 03-5486-6501

対象 消費者被害などの当事者が世田谷区内在住の65歳以上の方



 

 

 

 

【相談事例】


悪質な投資勧誘

ある日、電話がかかってきて、「近く上場するので必ず値

上がりする」と勧誘された…

通信販売

インターネットで購入した商品が偽物だった…

点検商法

「水回りの無料点検です」と業者が突然訪ねてきた…

訪問購入(押し買い)

「不用品を買い取りたい」と訪問されて…

電話勧誘販売

「3カ月前に注文を受けた健康食品が出来上がったので代引きで送る」と覚えの無い業者から電話があった…

マルチ商法

うまい話があると友人に誘われて…

 

*****

あてはまる項目が多いほど、

消費者トラブルにあう危険度が高い傾向にあります。(政府広報オンライン)

①②③にあてはまる人は、トラブルに対して危機意識がうすい傾向。④⑤⑥にあてはまる人は、だまされているのが気が付かない傾向。⑦⑧⑨にあてはまる人は、だまされたとき一人で抱え込んでしまう傾向があります。

いくつあてはまりますか?

①  自分のまわりにあまり悪い人はいないと思う

②  相手に悪いので人の話を一生懸命聞く方だ

③  たまたま運の悪い人がトラブルにあうのだと思う

④  知人から「効いた」「良かった」と聞くとやってみようと思う

⑤  有名人や肩書きのある人の言うことはつい信用してしまう

⑥  人からすすめられると断れない方だ

⑦  迷惑をかけたくないので家族にも黙っていることがある

⑧  実際、身近に相談できる人があまりいない

⑨  しっかり者だと思われたい

 

 


紙ふうせんだより 9月号 (2017/09/27)

皆様、いつもありがとうございます。台風一過に秋風が吹きはじめました。落ち葉が軽やかに舞うのももうすぐです。どんな秋が待っているでしょうか。心が穏やかになるこの季節に、やりたい事をいっぱいやれたら素敵ですね。だんだんと年末が近づいてきて、今年一年を振り返るといろいろありました。今年の流行語大賞は何でしょうか。“このハゲー”でしょうか。“もり・かけ”なんて蕎麦みたいでお腹が空いてきますね。

 

“関係法令に基づき適切に実施”って何? 「コンプライアンス」2つの解釈

“関係法令に基づき適切に実施”という言葉。今年はとてもたくさん耳にしましたね。行政の手続き等の不透明さや疑惑を指摘されて、おじいちゃんのみたいな官房長官が何度も「関係法令に基づき適切に実施しているため、問題は無いと認識している」と口にしていました。言葉こそ丁寧ですが、まるで説明する気がありません。「△△君、〇〇が変なのよ。何か知らないかしら?」と。先生に問われ、「ちゃんとやってるんじゃないすか?(ぼく無関係です)」みたいな他人事感。行政が何かを行使するという事は、つまり税金や国民の負託なわけですから、国民(メディアを前にしての記者会見)にちゃんと答える義務が有るはずです。官房長官は内閣のスポークスマンのような位置づけなのに、小学生以下の幼児か赤ん坊です。国民はクライアントであり、株主のようなものです。株主総会(国会)で“議事録は無い”“資料は破棄した”にも関わらず「ちゃんとやってるんじゃないすか?」って、有りですか。“関係法令に基づき適切に実施”って、つまり赤ん坊長官は何を言いたいかっていうと「コンプライアンス」に適合してるから“大丈夫”って事なんですね。コンプライアンスって医療や福祉の分野でもよく聞きます。compliance(コンプライアンス)とは、(要求・命令などへの)「承諾」「追従」という言葉です。ここから「法令(ほうれい)遵守(じゅんしゅ)」という意味が出てきます。一般的には「企業活動等において社会規範に反することなく、公正・公平に業務遂行すること」とされています。実はこのコンプライアンスの解釈に、正反対な二つのものがあるんです。

 

「コンプライアンス=法令遵守」

「コンプライアンスはあくまで『法令遵守』であるため、モラルに反していても法令を遵守すればコンプライアンスは成立する。“法律の不備による抜け穴を突く”行為もコンプライアンス違反にならない。逆に、モラルや人道に則った行為も、法令を破ればコンプライアンス違反となる。」言わば、モラル不要の法令至上主義。手続き等が法律に則ってさえいれば、何をやっても良いという事です。税金だって身内やお友達のために使いたい放題。これ、皆さん「承諾」できますか。官房長官や総理は「承諾してね♥」って言ってるんです。やっぱり赤ん坊です。そして可愛くない。もっとも言葉の定義や解釈はいろいろありますから、福祉職らしい“寛容”の心で許しちゃいますか。

 

 

「フルセット・コンプライアンス論」

ではもう一方の解釈です。「『コンプライアンス=法令遵守』ではなく、法令の遵守を含めた『社会的要請への適応』である。例えば企業の存在には利潤の追求だけでなく、食品メーカーであれば“安全な食品を供給してほしい”、放送局であれば“歪曲されていない良質な番組を流してほしい”など、社会からの潜在的な要請があり、各種法令にも、制定に至るまでには社会からの要請がある。法令は常に最新の社会の実情を反映できているわけでなく、司法もまた万能ではない。ゆえに、単に法令のみの遵守に終始することなく、社会からの要請に応えることこそがコンプライアンスの本旨である。」これは、郷原信郎さん達が提唱する「フルセット・コンプライアンス論」なんです。実は郷原さんのキャリアは凄いんです。(元検事で、名城大学コンプライアンス研究センターセンター長だったり日本郵政ガバナンス検証委員会委員長、年金業務監視委員長、総務省コンプライアンス室長、検察の在り方検討会議委員、関西大学社会安全学部大学院特任教授だったりします)いや、キャリアに騙されちゃいけません。ちゃんと国民の利益で考えないといけません。冷静に考えると…大人な“フルセット”に“いいね!”です。

 

介護で考える「コンプライアンス」

法律さえ破らなければ良い。利用者さんを不安・不快にする態度(約束を破る、利用者さんを見下した態度等)でも、法律違反ではないから“オッケー”。ケアプランや訪問介護計画書で決められた内容をやっておけば、利用者さんが困ってても無視して“オッケー牧場”。本当にそう思いますか? コンプライアンスを「法令遵守」の意味だけで良しとしたら、これは有りになっちゃうんですよ。そして「法律さえ破らなければ何をしても良い」というような考えは、法律をうまく扱える者が得をし法律を知らないものが損をする「弱肉強食」という、言わば競争至上主義を理想としているんです。まさに“ブラック社会”。そんな日本で大丈夫でしょうか。もっと日本の将来について真剣に考えたいものです。私たちの介護は、「フルセット・コンプライアンス論」で行きましょうよ。それにしても“関係法令に基づき適切に実施” という言葉、なんて空虚なのでしょう。ちゃんとしろと言いたい。

あな軽し飽き風が吹く言の葉や

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加計学園問題のあらゆる論点を徹底検証する ~安倍政権側の自滅と野党側の無策が招いた「二極化」

法令上、国家戦略特区法は、諮問会議の決定等の手続を経て従来の行政の判断を変更することを可能にしているのであり、その手続に則って行われている以上、法令上問題がないことは当然である。

しかし、だからと言って、「法令遵守」を超えたコンプライアンス問題がある事を否定できるわけではない。(略)

それは、総理大臣と、加計学園理事長とが「腹心の友」とい言う「利益相反」の関係にあるという問題と、公正・公平な判断ではないという疑いが生じかねない決定や手続きの「枠組み」の問題である。  (郷原信郎)

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参考・引用 /東京海上日動/MINI VELO /警視庁

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(クイズ)自転車と自動車の事故による死傷者数(2011年度警察庁データ)のうち、

自転車側が法令違反を犯していたもので、最も多い違反は次のうちどれ

でしょうか

(1)自転車が安全を確認しなかった(安全不確認)

(2)車が近づいているが危険はないと思った(動静不注視)

(3)自転車が交差点でのルールを無視して通行した(交差点安全通行)

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【自転車安全運転 24】

1.左右確認を怠らない 

住宅街の路地などの交差点で左右確認をしていますか?人通りの少ない路地では、他の自動車も自転車も「誰も出てこない」と思って走っています。また、横断歩道が青信号でも、進行する前には必ず左右確認。

2.交通状況を観察する

車や歩行者の動き、その先の道路や信号機の様子。常に交通状況をよく見て想像力を働かせる。

3.スピードを出し過ぎない

発見・回避できる危険も、オーバースピードでは気付いた時にはもう遅い。

4.自分の後方にも意識を向ける

自転車より速い車やバイクは、常に自転車を追い越すチャンスをうかがっています。後続車をイラつかせないように走り、自分も冷静でいること。斜め横断や追い越しで膨らむ時など、走行ラインを変える前には必ず後方確認をする。

5.路面の状態をよく見る

段差・凹凸や落下物や水たまりや砂、雨天時のマンホール。道路上には危険な要因が点在しています。

6.夜や暗所は速度を落として走る

夜道や暗いところでは、危険を察知するのが昼間よりもずっと難しくなります。

7.知らない道は速度を落として走る

ときどき“事故を引き起こすトラップ”のような場所があるもの。

8.先が見えない所では、誰かいる・何か来ると思っておく

「曲がり角」や「視界を遮るもの」の向こう側には何があるかわかりません。出合い頭の衝突に注意する。

9.判断に迷うときは、とりあえず減速するか止まる そして待つ

「こちらに気付いてなさそうな歩行者」「横から出てきそうな車」「変わりそうな信号」

10.危ない・怖いと思う時は、自転車を降りる

「滑りやすい路面」「ハンドルを取られるガタガタ道」「狭い道での歩行者や車両とのすれ違い」「重い荷物をカゴに入れてて、ふらついた」危険を感じるなら自転車を降りる。

11.人の動きに注意する

歩行者優先の「歩道」や「横断歩道」では自転車は注意深く謙虚に。商店街などの人ごみの多い道は避ける。小さい子供、高齢者、ふらふらしている遅い自転車、並んで歩く学生、スマホ見ながら歩きの人等、周囲に注意を払えていないような人の動きに注意する。無理な追い越しはしない。

12.駐車車両に気を付ける

駐車車両を避ける時は、その車が動き出さないか注意する。駐車車両のドアが急に開いたり、突然人が降りてくることもあります。交通量の多い狭い道で駐車車両を避ける時は、後続の自動車の動きを確認する。

13.自動車や他の自転車、歩行者の真後ろに接近しすぎない

自転車も車の運転と同じように安全な車間距離を意識する。

14.雨の日はいつもと同じ運転をしない 最大限の注意と予防策を講じる

「濡れた路面は滑りやすい」「雨の日はブレーキの利きが悪い」「濡れた縁石に斜めに入れば滑る」「スリップしたら転倒する」それは誰でも知っています。慣れた道でもいつもと同じように運転する事は事故の原因です。視認性が悪いので最大限の注意を払う。傘さし片手運転はしない。急な雨に備えて雨合羽を持参。時間に余裕を持って急ぐ必要無いように。

15.周囲から認識されていない可能性を意識する

常に自分が認識されていない可能性を頭において、他人の行動を想像して走る。雨天時は、相手からの視認性も悪くなっています。交差点での対向自動車(特に右折車両)には、アイコンタクトを送るような意識で。

16.自分の存在をアピールする

必要に応じて右左折の合図をする。昼間でも明るいライトを点灯する。目立つ服を着る。

17.安全アイテムの利用を考える

サングラスやアイウェアの着用→「虫」や「砂」が入ったり、車が弾いた「飛び石」が顔に飛んでくることも。赤色灯を後部に付ける。電池で点灯できるライトを付ける。サイドミラーを付ける(但し注視しすぎないこと)。

18.耳も安全運転の大切なツール

自動車の走行音などに注意を払う。イヤホンをして運転しない。最近のハイブリット自動車やEVなどは走行音がほとんどしないものもあるので要注意。

19.悪意のある人間もいることを忘れない

車のドライバーの中には、乱暴な運転を意図的にするような者もいます。

20.法律を守る 「自転車安全利用五則(警視庁)」

①自転車は、車道が原則、歩道は例外

②車道は左側を通行

③歩道は歩行者優先で、車道寄りを徐行

④安全ルールを守る

・飲酒運転、二人乗り、並進の禁止

・夜間はライトを点灯

・交差点での信号遵守と一時停止、安全確認

・携帯電話等の運転中の操作は不可

⑤子どもはヘルメットを着用

※「自転車は原則車道を走ること→だけど自転車も歩道を利用できる」「自転車は軽車両→でも降りれば歩行者扱い」など、道交法上には曖昧な部分があります。車道を走ることに危険を感じる時は歩道を通行してもよいので、危険の回避や安全を最優先にする。

21.自転車の安全点検をする

自転車の部品は常に劣化・消耗していきます。ブレーキパットの摩耗やワイヤーが切れたり。タイヤの空気も減ったら入れましょう。すり減ったタイヤは危険です。

22.体力的に無理をしない

強い疲労や肉体的な限界を感じる時、「集中力」や「注意力」「判断力」は大幅に低下します。また、眠くなるような薬を服用している時は運転しない。

23.漫然と運転しない

緊張感を持っている時よりも、ぼんやりと考え事をしているような時がヒヤリとする事は多いはず。交差点での確認不足の飛び出しは大事故のもと(クイズの答えは1)。運転中は、運転に集中すること。

24.自分の身を守るのは自分

常に安全を最優先に判断・行動する。事故や危険につながる可能性を感じるなら、どんなささいなことも楽観視せず慎重であること。常に余裕を持った行動を心がける事。

 

 


紙ふうせんだより 5月号 (2017/09/20)

皆様、いつもありがとうございます。暑かったり肌寒かったり暑かったりで、体がついていきませんね。5/6の最高気温は28℃、5/10は19℃、そして5/21は31℃と真夏日です!!これは実際しんどいですよ。体調管理には気をつけましょうね。

 

気持ちの伝わる声掛け

利用者宅に訪問した時には「天気がぐずついて肌寒いけど、体調どうですか?」と挨拶したり、退出時は「来週また来ますね。それまで転ばないようにね。暑いから水分取って、体調気を付けて下さい」などの声掛けを皆さんしているかと思います。そこに“タイムリー”で“リアリティ”のある話題が少しでも入っていると、利用者さんに対してヘルパーさんのいたわりの気持ちが伝わりやすくなります。それは、ヘルパーさんの言葉が職業上の社交辞令ではなく、「本当に心配してくれている」という風に伝わるからです。そして実際に気候等などの“今、現在”にアンテナを張って利用者さんの心配をしていくと、利用者さんの些細な状況に対してもアンテナを張れるように自分自身が変わってきます。いたわりなどの気持ちは伝わってこそ意味を持ちますし、その気持ちが芽生えれば、育てていく事が大切です。

 

“今、現在”にアンテナを張る

認知症の療法に「バリデーション」というものがあります。意味は「確認」という意味です。昔は、認知症の方は“何を考えているか解らない”“本人も意味を解っていない”と考えられていました。だから“認知症の方の行動や言葉には意味が無い”とされ、認知症の方が(昔で言うところの)“問題行動”をしても、薬でおとなしくさせるか、ほおっておくか、拘束するか、という人間性を無視した対応が取られていたのです。それに対してバリデーションは、「認知症の方の感情を確認しよう」と訴えたのです。認知症の方の行動の意味を理解し、「共感を示す事」ができれば“問題”も改善します。その為には認知症の方の気持ちにアンテナを張らなければなりません。その理解の手引きとして、ナオミ・フェイルは認知症の方は心に「大きな喪失感」を抱えており、それが11項目の欲求として現れると分析しています。その欲求をコミュニケーションで満たしていく事がバリテーションのゴールとされています。そのためのコミュケーション技法として一番に来るのが「センタリング」です。センタリングは、利用者さんと対面する前に準備として自分の心を落ち着ける作業です。

  1. リラックスして目を閉じ、下腹部(おへそより下、いわゆる丹田)に意識を向ける。

  2. ゆっくりと鼻から息を吸い、呼吸が体の芯を通って丹田にまで至り戻ってくるイメージを持ち、ゆっくりと倍の時間をかけて口から息を吐く。これを数回繰り返す。

これ、実は“今、現在”に集中するという作業なんです。どうしてこんな事が自分の心を落ち着ける事になるのでしょうか、その原理を考えてみましょう。気が付いた方もいると思いますが、センタリングは実は“瞑想”の技法なんです。瞑想は古代インドに発し、仏教等で発展していったものです。

 

 未来ではなく、今、現在に集中する

仏教では世の中の全ては移ろいゆくもので、固定的なものは何一つ無いとしました。しかし人間は、自分の健康や所有物等に過度こだわってしまい、それらを失ってしまう事に対して恐れを生じているというのです。つまり「不安」とは常に、未来へのネガティブな予測(何かを喪失する恐怖)なのです。まだやって来ない不確かな未来への、ある意味頭でっかちな不安を達観するために、瞑想では、意識を「考え」(未来・観念)ではなく「身体」(現在・存在)に向けます。それが、身体感覚や呼吸への意識の集中なのです。そして、呼吸を整える事によって気持ちを整え、その呼吸が体をめぐる事を意識する事によって、今現在ここにある確かな命を感じ、命のありのままの姿を受け入れていこうというものです。少し前に話題になったラグビー日本代表の「五郎丸ポーズ」がありますよね。これも似たようなものですが、自分なりのルーティーンを用いて目の前のボールや自分の存在に集中し、“失敗したらどうしよう”という予期不安を拭い、ポテンシャル(可能性として持つ力)を高めるのです。

 

新・瞑想法マインドフルネス

NHKの科学番組「サイエンスZERO」で『新・瞑想法 マインドフルネスで脳を改善!』という放送がありました。Googleなど世界的な企業で「集中力が高まる」「業務効率が上がる」などの理由で、瞑想法が取り入れられているというのです。そのやり方を紹介します。

  1. 静かに目を閉じ呼吸に注意を向ける。

呼吸に集中するため、呼吸に伴う身体の変化を意識します。吸う時には「膨らみ膨らみ」吐く時には「縮み縮み」と心の中で唱えても良いでしょう。大切なのは呼吸や身体をコントロールしようとしない事。雑念も生じてきますが振り払おうとしない事。作為的になるとそれがこだわりとなって逆効果です。リラックスした自然体が大切です。

  1. 雑念に気づいたら、再び呼吸に注意を戻す事を繰り返す。

雑念があまり出て来なくなり心が静まったら、マインドフルネス(今この瞬間を全身全霊で感じる)を始めます。足の裏の感覚、座っている感じ、体がすっと伸びている感じ、また、風のそよぎや周囲の物音や香りなど、なるべく偏らずに同時にいろんなものを感じ取ります。終わる時はまぶたの裏に注意を向けてゆっくりと目を開けます。

番組では、マインドフルネスを継続して行った人の脳の海馬(海馬は記憶や感情のコントロールに関わり、ストレスを受けると損傷しうつ病や認知症に繋がる)の灰白質が増加し、不安やストレスの信号を発する偏桃体が5%減少したという研究結果が紹介されていました。

 

「ただの言葉」から「伝わる言葉」へ

本当に自分の気持ちを伝えたようという時は、当然ながらしっかりと相手を見て、相手の事を考える気持ちで自分の中が満たされている状態で行う事が望ましいものです。毎度毎度できる事ではありませんが、ここ一番の勝負所というものはあります。勝負所で自分が雑念に引きずられていたら、相手に伝えるべき「自分の気持ち」さえも、粗末に扱っているという事です。これは「一期一会」という「今この時は、二度と繰り返される事は無いとを心得て誠意を尽くす」という日本文化の伝統とも共鳴します。「ただの言葉」から「伝わる言葉」へと変わっていくという事は、自分自身の心を育むという事でもあるのです。

 

 

【紙面研修】

 

バリテーション療法について

バリテーション療法では、癒しが必要な認知症高齢者を「元気な自分自身」「住み慣れた生活空間」「家族」の3つを喪失している「大きな喪失感を抱える人」としています。バリデーションの中心課題は、その「大きな喪失感」に共感を示し、いかに癒していくかという事になります。

ナオミ・フェイル(1932~アメリカ)が、1963〜1990年代前半にかけて多くの事例から分析した以下の「11項目の欲求」に対して少しでも満たしていくことが、コミュニケーションの目標となります。そのためには、ごまかしのケア(パッシング・ケア)をやめ、認知症高齢者の気持ちを検証・確認(バリテーション)する事から始まります。

 

~“あなたの求めているもの”を確認する~

(1)安らかな死を迎えるために、まだやり終えていないことを解決したい。

(2)心安やかに生きたい。

(3)五感や身体能力、身体的な自由度、記憶力等が低下しても、平静な気持を回復したい。

(4)現実を(納得できない内容でも)理解したい。なじみのある人間関係や居心地がよい所を見つけたい。

(5)理解できる自分でいたい。アイデンティティー、地位や名誉等自分の大切なもの、自尊心を保ちたい。

(6)役に立ちたい。有益でありたい。

(7)話を聞いて欲しい。尊敬されたい。

(8)愛されたい。一緒にいたい。(人間関係欲求)

(9)動けなくされたり拘束されたりすることなく、安全に守られ安心していたい。

(10)触角、視覚、聴覚、嗅覚、味覚などさまざまな事を感じたい。(感覚刺激欲求)性的欲求。

(11)苦痛や不快を軽減したい。



 

 

 

 

 

 

 

 

【情報提供】

来年度は、医療と介護の同時報酬改定が予定されています。ほぼ決まりなのは、現役世代並みの収入のある方は3割自己負担となります。その他には、 例えば、要介護認定率などは自治体によってばらつきがありますが、認定率の高い自治体には低い自治体をモデルとして介護保険の制度運用の“適正化を指導する”という事も考えられています。

世田谷区の出現率は、国平均よりも2.5ポイントも高くなっており、“甘い”という指摘を受けそうです。

“適正化”がどのよう求められるかはまだわかりませんが、それに対応できるよう、これまで以上に根拠を持ったサービス提供を心がけることが必要となっていきます。



 

 

 

 

****今回のお便りはいかがでしたか?****

バリテーション療法をよく読んでみると「何だ、あたりまえの事じゃないか」と思いませんでしたか? それでいいのです。昔の認知症ケアは人権や自尊心など当たり前の事が、何の理解も検証もなくないがしろにされてきたという事なんですね。

マインドフルネスも根源的な人間らしい生活としては、実は当たり前の事なんです。例えば「マインドフルネスに食事をする」とは「ご飯の香りを楽しんで、よく見て色艶を愛でて、よく噛んで味わって、暖かさや甘みや舌触りを十分に感じて…」となります(反省)。マインドフルネスをすると、心が満たされるようになるそうです。日常生活でやってみるのも良いでしょう。また、利用者さんと向き合う時に、利用者さんの呼吸、肌の張り、瞳の光、声の響き、浮かびあがってくる歴史的背景、座っている感じ、等々を全身全霊で感じていこうとする事も有りでしょう。


紙ふうせんだより 4月号 (2017/09/20)

皆様、いつもありがとうございます。桜が散ったら急に暑くなってきましたね。まずはヘルパーさん自身の脱水に気を付けて下さい。体が暑さや日差しに慣れていませんので、自分自身の体調に注意を払って下さい。

また、利用者さんの脱水も要注意です。まだ分厚い冬用の布団のままで寝ている方はいませんか。寝ている間も汗をかきます。起床時の一杯の水分補給を声掛けてください。また、寝具の入れ替えを促す事も必要です。寝具の入れ替えや衣替えを頼まれた時は、通常のサービス内でうまく時間等をやりくりして実施できない場合(ケアプランに合わない等)は、事務所までご相談下さい。

 

訪問介護とは何か、施設介護との違いから考える。

 さて、新年度になりました。あらためて「訪問介護とは何か」施設介護との比較を通して考えてみたいと思います。私たちの仕事を、他との比較で外から眺める事は、私たちの仕事の社会的な意義の確認にもなりますし、自身がその仕事を行う意味を深め、より良いサービスへの意識付けにもなると思います。まずは、訪問介護と施設介護の違いを全体的なフレーム(枠組み)から考えてみましょう。

 

 

 定型的な関係と1対1の関係

施設介護では、生活が施設に限定されるため、支援内容も定型的になってしまいがちです。もし、人間関係も“職員対利用者”というように定型化されてしまったら、介護職個人のフレームを超えようとする発想や努力は、煙たがられる要因ともなりかねません。結果として横並び的な支援となり、介護職員があたかも自分を“歯車”のように感じてしまうかもしれません。そうなってしまったら、利用者さんもそこで生活する事が窮屈になってくる事でしょう。“チームケア”の名のもとに個別的な心の交流が遠慮されるようになってしまいます。

訪問介護にもケアプラン(居宅サービス計画)というフレームがありますが、介護現場は地域の中のその人の自宅です。ケアプランにはその人の個性や住環境等を基にしたニーズや目標が主題として書かれ、必要なサービス内容と事業者がそれに対応し、週間プランが組まれています。ヘルパーさんは買い物や掃除、散歩や入浴などの支援のために決められた曜日の決あめられた時間に利用者宅に訪問します。支援内容は日常生活に密着し、困り事であるがゆえに利用者さんはヘルパーさんの訪問を心待ちにする方が多くいらっしゃいます。一方で、困り事であるがゆえに、その苛立ちをヘルパーさんにぶつける方もいます。いずれにしても、ヘルパーさんは利用者さんの心に密着する立場となるのです。

このような訪問介護の環境では、必然的に利用者さんとヘルパーさんの1対1の関係が問われてきます。個別的な心の交流が、どのように行われているのか・いないのか、といったところが、利用者さんの「心待ち」もしくは「苛立ち」に関わってきます。

 

 

訪問介護における人間関係の特徴

人間関係には、定型的な関係を保っておいた方が良い場面があります。例えば、儀礼的な近所の付き合いの場合は、お互いに腹の探り合いになるのは嫌なので、表面的に無難なキャラクターを演じ、距離を置いて適当に相手に合わせる事によって、人間関係に波風を立てないようにし、お互いに疲れないようにします。もっとも、人間関係作りの習性や好みも人それぞれで、誰に対しても自分をさらけ出して個別的な関係を作りたがる人もいます。

利用者さんの置かれた状況に当てはめて考えて見ますと、利用者さんは自分が好むと好まざると、半ば強制的に自身の生活を開示させられています。いわば、ヘルパーさんは自分の内界に侵入してくる異物です。その異物への拒否感や疲労感を和らげようと、利用者さんはヘルパーさんを馴染みものにしようとして、ヘルパーさんとの個別的な交流を求めてくる方が多くなります。その求め方も人それぞれで、例えばプレゼントをあげてみたり、ネガティブな話で自分への歓心を引こうとしたり、ケアプランに無いサービスを要求しフレームを超えたな関係を築こうとします。一般的には個人的な人間関係は良くないとされていますが、このような構造から訪問介護では、必然的に個別的な心の交流が必要となってくるのです。

 

 

訪問介護における理想的な“チームケア”

ケアプランには表現できないさまざまな想いや願いを、利用者さんは持っています。自宅だからこそ自分らしく生きられるし、自分らしく生きたいのです。そのような気持ちを受け止める最前線にいるのがヘルパーさんです。利用者さんの内面に気づき、介護のフレームを拡げていけるような、現場のヘルパーさんの発想や提案がとても大切になってきます。そのため、訪問介護の現場でより良い介護を目指すには、絶対にボトムアップの組織でなければならないのです。そして、現場のヘルパーさんの声がケアプランに活かされるかどうか、その連携をサービス提供責任者が担うのですが、この連携がチームケアの生命線となります。また、現場介護職の悩みを解決しなければ、利用者さんへの良い支援できません。そのような意味で、サービス提供責任者はヘルパーさんを支援する責任を持っています。

主役は、生活者としての尊厳を持った利用者さん自身です。ケアマネージャーはケアの全体の枠組みを構築し、法的なもの含めその根拠をケアプランに示します。サービス提供責任者はケアプランの理念と現実のケアの間に立ち調整をします。ヘルパーさんはケアプレイヤーの主体者として、一般的な礼儀は守りつつも自然体でさりげなく利用者さんの生活に入っていく事が理想です。異物感の無い自然体の関係では、利用者さんも肩の力を抜いて、生活のみならず心をも開いて下さいます。そして、利用者さんがその個性をさらけ出した時、それに本当に向き合おうとしたら、返答するのは手順書ではなく関わる人の個性です。(ただし、利用者さんの心の準備の整わないのに個性をぶつけていくと圧力となる恐れもあります。)

個別的な心の交流が始まると、介護という困難を伴う人生の一場面を共有する、人生のパートナーのような共感が利用者さんとヘルパーさんの間に生じてきます。困難を共有した関係は、とても深い絆で結ばれるものです。1対1の心の交流こそが人の根源的な関係だからでしょうか、それはどこか懐かしい感じがするものです。利用者さんは皆いつか旅立っていきます。しかしいつになっても、その時の顔の表情や感じを思いだす事ができます。

 

 

【紙面研修】

お互いにとって好ましい心の交流について

訪問介護での必然的な1対1の関係は、訪問介護のやりがいでもあるし、大変さにもなってきます。ここでは、その個別的な心の交流の良し悪しを、“交流するエネルギー”(量・方向・質)として考えてみましょう。ことによっては、これが利用者さんの「心待ち」や「苛立ち」を左右するのです

例えば、「利用者さんはヘルパーさんとたくさん話をした方が良い」という前提があったとします。この前提は決して間違いではないのですが、中には「話すのがめんどくさい」とか「静かにそっとしておいて欲しい」という時もあるでしょう。このような場面でヘルパーさんの注目点が「前提」にのみ向けられていたら、利用者さんを“活性化させなきゃ”とヘルパーさんばかりが話をする事になってしまいがちです。

この時のエネルギーの流れは、ヘルパーから利用者さんに向かう量が“圧倒的”に多くなります。このようなアンバランスは、利用者さんを疲れさせてしまいます。似たような例を挙げてみましょう。

 ・娘の母(利用者)に対する要求(〇〇しなさい)が多く、娘が来ると黙ってしまう母

  ・私が興味ないのに、一方的にずっと政治の話をしてくるうっとうしい夫

これらが一概に全て悪いという訳ではありません。凸凹コンビで安定している関係もあります。ただ、他人同士の関係を外側から見ると難なく理解できる事が、自分を含めた関係となると、自分の欲求が勝ってしまい“一方通行”になってしまう事があります。それに気が付かない時は、何かストレスが自分の中にあるのかもしれません。先ほどの「うっとうしい夫」は、実は会社で冷遇されており、妻にも相談できず孤独の内に耐えている…という風に。

 エネルギーの方向や量が逆(利用者 > ヘルパー)の場合もあります。利用者さんが「ヘルパーさんといろいろ話をしたいのに、ヘルパーさんが黙っている」「本音を知りたくて働きかけをしているのに、本音が見えない」というような場合も、利用者さんは満たされません。好ましい関係の為にはお互いにとって、バランスの良いエネルギー量の交流が大切です。なおエネルギーが相手に全く流れない“交流ゼロ”は“無視・無関心”ですから、関係としては終わっています。例えば「小さい子供が親に完全無視されるよりは怒られるほうがまだマシ」という事からもその最悪さは理解できると思います。では、量の次にエネルギーの質(内容)に注目してみましょう。

 ・会社の愚痴ばかり言う夫

 愚痴ってる方はすっきりして、良い心の交流ができたと満足しているかもしれません。妻が「あんた、愚痴ばっかり言ってつまんないよ」と言い返してエネルギーの逆流ができればまだ救いがありますが、逆流ができない場合は、そのまま関係が終わってしまいかねません。エネルギー量の高い側がその関係に対して主導的になりがちですから、高い側から相手に流れていくものの質を検討する必要があります。介護という支援関係があるので、たいていヘルパーさん側が利用者さんよりも高エネルギーです。ですから文脈にもよりますが、ヘルパーさんの愚痴などを利用者さんに聞かせるのはあまり好ましいものではありません。(ヘルパーさんからの流入に対して拒否感があり、一方的に話したり高圧的になる利用者さんもいますが…それは支援の枠組みが合わなかったり、心の置きどころが不安定な方などの場合もあるでしょう)

 

*****【自己点検のポイント】*****

・利用者さんから自分にエネルギーが流れてくるのを感じている?(感じられなければ自分からの量が過大で重いか、過少で利用者さんが冷めている?)

・自分から利用者さんに流れていくエネルギーは好ましい質か?

*********************


紙ふうせんだより 8月号 (2017/09/19)

1945年8月6日 広島

この日の体験として、ある利用者さんが次のようにおっしゃっていました。

「広島一中の生徒だったが、この日、勤労動員で市内の建物疎開に駆り出される事になっていた。しかし、物理の先生が『疎開跡は無防備で空襲があったら危ない』と勤労動員に反対して作業に行かなくて済んだ。そのおかげで我々の学校の2学年だけ原爆から助かった。他の学年や他の学校は、皆市内に動員されていたので殆ど死んでしまった。第一県女は、爆心地近くで作業していたため全滅してしまった。今は石碑が立っている」

この話を伺って、何か記録等があるのではと探したところ、一中生の手記を見つけました。

 

今田耕二さん(広島一中) (朝日新聞 広島・長崎の記憶 被爆者からのメッセージ)

当時広島市内にある公私立中学校・女学校・商業学校・工業学校・造船工業学校など各中等学校の事情は、高学年生徒はすべて工場に動員され、学校に残留しているのは二年生以下の低学年で、授業と勤労奉仕の二本立ての生活を送っていた。(略)

 昭和十九年十一月十八日、政府は広島市の建物疎開を指示した。建物疎開の目的は、鉄道線路の空襲からの保護や消防道路を確保することにあった。

 当時、空襲は日増しに激しさを加え、七月までに広島県下では呉・福山を中心に四十回にも及ぶ空襲があった。にも拘わらず広島市だけは小規模な攻撃に止まり、いずれ大々的な空襲があるものと予想され、早く云えば、その際の市中の被害を最小限度に食い止める為、市民を強制的に疎開させ居住家屋を取り壊していたのである。(略)

疎開家屋の解体作業は、軍からもっと急げとの要請で、各種職場からも労力を提供せねばならなくなった。(略)ここは二年生が行けという事だったと聞いている。場所は土橋(どばし)(爆心地より八百メートル)、日取りは八月六日だということ。これは命令であるにも拘わらず我々の引率教官の戸田五郎先生は、八月五日の日曜日(日曜でも私たちは工場で働いていたのだ)に、「明日六日は自宅修練とする」と告げられた。早く言えば、休みである。一方、三年生の引率教官前田先生は命令に従った。この二人の先生の対応の違いが二年生と三年生の運命の明暗を定めるところとなった。(略)以下、先生の手記を借りる。(略)

「彼の私に対する説得が始められた。—–対話は朝方の討論の蒸し返しとなった。—–

『君は非国民だっ!』と顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。—–もはや討議は終わった。私はもう何も言うことはなかった。然し何か云わねばならないような気持に駆り立てられた。

 そして、『明日にでも辞表を出します』と心にもないことを云って仕舞った」

  「私は門を出ると気を引き締めるために深呼吸をした。—–二人は一言も言葉を交わさなかった。

   そして橋の袂で彼は西へ、私は北へ別れて行った」

戸田先生は、このように後味の悪い思いをしながら、前田先生と別れた。

 戸田先生が、命令を敢然と拒否する姿勢を貫いたことには背景がある。いずれ広島に大空襲必至を予想した先生は、対空無防備の建物疎開跡で、もし白昼空襲があったら、百六十人の生徒を自分一人で守りきれないという責任感と管理の限界を懸念しておられたのだ。

 

 

生き残ったものの苦しみ

被災直後から生き残りの人々は、凄惨極まる状況の中で、救護活動や遺体処理を開始します。がむしゃらに体を動かす心の中で自問自答が始まります。「なぜ自分は生き残ったのだろう」「私も死ねたら良かったのに」「死んでいった者に申し訳ない…」等。東日本大震災でも言われていますが、多数の死者の中で生き残ったものは自責の念にかられ、後を追いたい気持ちと戦いながら自分の生き残った意味を求め、苦しみを抱え込むのです。

 

今田耕二さん

兄弟とおぼしき幼児が手をつないだままの黒焦げ死体二体。(紙屋町東角にて) 防火用水にわれがちに頭から突っ込んでいる状態の死体の群。(どこもかしこも随所に、以下同じ) 黒焦げで顔や衣服のわからぬ死体はザラ。死体の大きさ、残ったモンペの切れ端、残った髪の長さから、かろうじて女学生とわかる。死臭は地に満ち、炭化した焼死体、腹が破れて内臓が飛び出した無惨な遺骸、黒焦げ肉片のついた骨などが累々。(略)軍の救護隊に徴用されることになった。(略)炎天下を毎日の軍用トラックに乗って兵隊と市中を廻り、負傷者の収容搬送をするのが仕事である。(略)真夏の太陽に照りつけられた死体にたかるハエと、湧きだしてくるウジと、死臭の凄まじさは何とも表現のすべを知らない。作業中に、よく多くの大人の男女から私の帽子(もちろん戦闘帽である)の校章と「広島一中学徒隊」の認識票をのぞき込まれ、取りすがるように、「うちの息子は一中の何年誰それです、うちの息子を知りませんか」と尋ねられた。なかには、いらだちの余り、「あんたは、なんで助かったんですか、あん時(原爆投下時)どうしとったんですか」と険しい顔でなじるように問われたこともしばしばあった。これには答えるのがつらかった。(略)

 救護の次は広島航空で空き地に穴を掘り、焼け残りの木を集めて火をつけて、露天で死体を焼いた。(略)終わり頃に兵隊から、「何体焼いたか」と聞かれ、約六十体と返事したことを未だに覚えている。

 

葉佐井博巳さん(広島一中) (広島平和文化センター 被爆体験記 死に損なった学年)

被爆当時、私は広島市内にある中学校の2年生でした。多くの犠牲者を出した市内中学校の中で唯一被爆から逃れて、ほぼ全員が生き残る運命となった学年です。(略)生き残った我々は、犠牲となった生徒達に対し申し訳ないとの気持ちからか、原爆のことをお互いあまり語らないできました。(略)

午後になると、トラックに乗せられた負傷者が次々と運ばれてきました。火傷のため皮膚が溶けて痛々しい姿をみて、思わず支えるのを躊躇したのを覚えています。手を離すと彼の皮膚が私の手に着いてきました。

火傷をした人に水を飲ますと死ぬると教えられ、水を欲しがる彼らに、飲ますことも出来なかったことが悔やまれます。彼らは翌朝には殆どの人が息を引き取っていました。(略)

家にいた母と4才の妹は、たまたま家の中にいて熱線から免れ、無事で再会出来ましたが、周囲の状況から、素直には喜べませんでした。直前まで妹と一緒に遊んでいた近所の5才の子は、屋外にいたため即死しました。この女の子には中学生の兄が2人いましたが、下の兄は建物疎開に行き行方不明のままです。上の兄は帰ってはきましたが、全身火傷で、苦しみました。その彼が2日目には軍歌「海ゆかば、水漬く屍、山ゆかば…」と歌い死んでいきました。天皇陛下の為ならこの身はどうなっても悔いません、と言う歌です。その最後を見た私は「これぞ男子の手本である、私もこのようにして死にたい」、と覚悟を新たにしました。これが戦争です。

終戦を迎えて国民に対し、「1人になるまで戦え」といった日本軍は、10日後に降伏しました。何故もっと早く戦争を止めなかったのでしょうか。

その後の日本は戦争を放棄し、争いのない平和な世界を目指すことを始めました。ひたすら戦争に勝つことを信じて死んだ彼らに、今の日本の姿をひと目見せてあげたかったです。

 

原邦彦さん(広島一中) (「ゆうかりの友」はしがき)

生き残った生徒達は、亡くなられた生徒のご遺族にお会いするのがつらくて、常に避ける様にしていたのですが、その生徒達の中からも数年後には死者が出たのです。

被爆して5年後には、生き残りの中から、楠木哲君が出血の止まらない病気のため亡くなり9年6ヶ月後には、広島大学卒業目前にして三谷浩正君が肉腫で亡くなったのです。そして昭和42年2月には、中島清秀君が、妻君と二人の愛児を残して、白血病のため、同級生の医師、寄田亨君にみとられて亡くなりました。

 

 

サバイバーズ・ギルト(生存者の罪悪感)

これらの事実の重さには“奇跡の生還”などと軽薄には言えません。サバイバーズ・ギルトとは、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら助かった人が、周りの人々が亡くなったのに、「自分は生き残ってしまった」としばしば感じる罪悪感のことです。そしてそれは、災害等に限らず近親者の死に直面した時にも起こり得るといいます。

戦争体験者が過酷な記憶を胸に秘めながら生活しているその隣で、私たちも日常を平穏無事に過ごしています。しかし、少し前の歴史に起こった事、世の中のどこかで起こっている事、地球の裏側で起こっている事などを、私たちが何かのきっかけで本当に知ってしまったら、私たちも実は、生きているものは皆「サバイバーズ」なんだと自覚されるでしょう。この自覚は、時に苦しみを伴うがゆえに、私たちはそれらを引き起こす事象を正視しないよう無意識に努め、日常を過ごしています。それはそれで一応良しとしましょう。

 

 

宮澤賢治に見られる、生き残った者の苦しみ

宮澤賢治は、詩『永訣の朝』に見られるように妹トシの看取りに際して、サバイバーズ・ギルトを体験したと思われます。その「生き残った者の苦しみ」の果てに書かれた遺稿の童話『銀河鉄道の夜』には、「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」という、主人公ジョバンニの決意が描かれています。“一緒に進んで行こう”と呼びかけた相手は、今まさに死んでいこうとする親友のカムパネルラでした。

『銀河鉄道の夜』 宮澤賢治

ジョバンニはああと深く息しました。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸いのためならば僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない。」

「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。

「けれどもほんとうの幸いは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。

「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧わくようにふうと息をしながら云いました。

「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが少しそっちを避けるようにしながら天の川のひととこを指さしました。ジョバンニはそっちを見てまるでぎくっとしてしまいました。天の川の一とこに大きなまっくらな孔がどほんとあいているのです。その底がどれほど深いかその奥に何があるかいくら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしんと痛むのでした。ジョバンニが云いました。

「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう。」

「ああきっと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだろう。みんな集ってるねえ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっあすこにいるのぼくのお母さんだよ。」カムパネルラは俄にわかに窓の遠くに見えるきれいな野原を指して叫さけびました。

 

この「生き残った者の苦しみ」は、「生きる苦しみ」と同質のものでしょう。賢治の答えは、“苦しみ”を恐れ消滅させようとする事ではなくて、苦しみを携えながら苦しみと共に“一緒に進んで行こう”というものでした。それは、生きているものは全て、実は“死を携えながら生きている” という、命の本当の姿を正視するという事でもあったでしょう。

ジョバンニの言う「ほんとうのさいわい」が“命の本当の姿を正視する”という事であるならば、私たちの介護仕事での経験は「ほんとうのさいわいをさがしに行く」ものではないかと思えてなりません。

 

 

命を正視する仕事

平成29年3月末の被爆者手帳の所持者は全国で16万4621人。毎年9000人を超す方々が亡くなっています(最大は37万2264人/昭和55年)。「ヒバクシャ」という言葉は、2017年7月7日に国連で加盟193カ国中122カ国の賛成で採択された「核兵器禁止条約」に、「ヒバクシャにもたらされた苦痛に留意」として前文に盛り込まれました(日本は反対し採決をボイコット)。この条約は「核兵器の開発・実験・製造・備蓄・移譲・使用及び威嚇」を禁止し、核兵器の存在そのものを違法とするもので、被爆当事者からは「大きな喜びだ」「感無量だ」との声が上がっています。当事者がその時どんな体験をし、どんな気持ちであったかを理解していこうとする事が、歴史を正視するという事にほかなりません。

私たちの介護の仕事は、命を正視する仕事です。8月という日本の節目の月は、戦争を生き残った方や亡くなった方の気持ちに、想いを馳せてみたいと思います。

 

 

広島市ホームページより(抜粋)

月曜日の朝は快晴で、真夏の太陽がのぼると、気温はぐんぐん上昇しました。

深夜零時25分に出された空襲警報が午前2時10分に解除され、ようやくまどろみかけていた人々は、午前7時9分、警戒警報のサイレンでたたき起こされました。この時はアメリカ軍機1機が高々度を通過していっただけだったため、警報は午前7時31分に解除されました。一息ついた人々は、防空壕や避難場所から帰宅して遅い朝食をとったり、仕事に出かけたりと、それぞれの1日を始めようとしていました。昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。 原子爆弾は、投下から43秒後、地上約600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には最大直径280メートルの大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。原爆によって死亡した人の数については、現在も正確にはつかめていません。しかし、放射線による急性障害が一応おさまった、昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が死亡したと推計されています。

爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡しました。それよりも爆心地に近い地域では80~100%が死亡したと推定されています。

 

長崎市平和学習資料「平和ナガサキ」より(抜粋)    (※投下は8月9日午前11時02分)

当時の長崎市の人口はおよそ24万人でしたが、原子爆弾による被害は、次のように推定されています。

死者 7万3884人 負傷者 7万4909人(昭和20年12月末までの推定)

爆心地の近くては、熱線のすさまじいエネルキーによって燃えるものすべてが火をふきました。溶けたガラス、沸騰して泡立った瓦、焦げて黒くなった石などが、その激しさを物語っています。

また、熱線のわずか数秒間の高熱が、人々の皮膚にも浴びせられました。熱線のすさまじさは通常の火傷では考えられない被害をもたらしました。重傷になると、表皮は焼けただれてズルズルとはがれ落ち、皮下の組織や骨までが露出しました。爆心地から1 .2km以内では、熱線だけても致命的で、爆心地付近ではあまリの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発したと考えられています。

 

 

◆サバイバーズ・ギルトへの対応 (YOMIURI ONLINE

(世界保健機関「心理的応急処置」より抜粋)

 ▽ 体験したことを話すように無理強いせず、沈黙を受け入れる。

 ▽ 話を聞いていることが伝わるようにうなずいたり、相づちを打つ。

 ▽ できない約束やうわべだけの気休めを言わない。

 ▽ 気持ちを落ち着かせる手助けをし、一人にしない。

 





 

 

 


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