【紙ふうせんブログ】

令和7年

従業員対談企画(3月号) (2025/04/22)

訪問介護で人間力が上がった?

訪問介護の実態は――(2)

佐々木 ところで堤さんの考える「人間力」ってなにかな?

 …そうズバリ聞かれると難しいですね。上がった感じがすると言うか…。

佐々木 手ごたえがあったわけでしょ?どんな感じだったの?

 そうですね。認知症の方と接して、最初は理解できなくて黙るしか出来なかったんですけど、自分なりに行ったのが、「とにかく話を聞いてみる」ということだったんですよね。
 その方は何度も同じ話を繰り返すし支離滅裂な事を言う時もあるんですが、話を聞く態度を維持して、「そうなんですね、大変でしたね。ですよね、わかります。頑張ったんですね。」と、最後はポジティブな言葉を選んで締めくくるようにしたんですよ。
 そうしたら、段々と打ち解けるようになった気がします。まぁ相変わらず名前は、覚えてもらえませんが、「水曜日に来るお姉さん」まで認識してもらえるようになりました。

佐々木 凄いじゃない。それが「相手の世界に入る」ということなんだよ。要介護ともなれば生活も大変だよ。あそこもここも痛いし、何をやるにも時間はかかるし、「あれ、何をしようとしてたんだっけ?」ともなる。頑張ってない人なんていないんだ。その辛さや頑張りに共感をまず示すこと。それが「相手の世界に入ること」なんだよね。
堤さんは、相手の意味不明な言葉の中にも、伝えたいこととして「自分は頑張っている」という気持ちがあることに気が付いたんだよね?


 そう言われれば、そうだと思います。「あんた、何しに来たの?」っていう態度を取られたとき、「ヘルパーさんを要らない」って言ってるのかな?って思って、相手の希望に反してまで自分が前に出ていくことにためらいがあって、私、黙ってしまったんです。でも、話を聞いていくうちにこの人は、本当は「私、独りで頑張ってるの!」って言いたいのかな?って感じたんですよね。

佐々木 いいねぇ!良かったよ。堤さんが、変に“ベテラン”だったら、「介護拒否の認知症」と表面的に決めつけて理解の努力が止まってしまい、その先は進展しなかったかもしれないよ。でも、堤さんが開かれた態度だったから「この人は、私を受け入れてくれた!」ってなったと思う。だからその人は、自分の世界の中に「水曜日のお姉さん」として入れてくれたんだよ。他にも何か苦労はあるかな?

 そうですね。ベットで寝たきりの方のおむつ交換は難しかったですね。指示が通らないし、少し腰をあげるだけでいいのに伝わらない。重くて持ち上げられない、といったことがありました。

佐々木 そう、その「指示を通そう」というところが自分中心のペースだよね。「持ち上げる」というのも一方的な動作で、俺だって上がらないよ。相手だって自分で動いた方が痛くないしね。だから、相手の動こうという気持ちを確認して、そのタイミングに合わせて「動作を支える」というのが正しいんだよ。

 はい。優しくお声かけて、向いて欲しい方向をわかるように示して、ゆっくりとしたその動作に合わせるようにしたことで、排泄介助も出来るようになりました。しかし、そうしていると、次に、間に合わない!ってなってしまうのが課題ですね。また、閉じる前に出ちゃう方もいるし…。

佐々木 いいんだよ。最初はゆっくりでいいし遅れたっていい。二人の呼吸があってきたら、必要があれば阿吽の呼吸で多少速くできるしね。閉じる前に出ちゃうのは小かな? 寝たきり歴にもよるけど膀胱の筋肉が緩んでいると、いつも出し切れずに溜まっていることはよくある。介助に入る前に端坐位とって腹圧かけて出してから介助するとか工夫がいるよね。本当は可能な限りPトイレを導入して移乗させて自立排泄を促すことが自立支援。

佐々木 俺はね、自分の訪問時に便が出ることが嬉しいんだ。寝たきりだと便秘になる方が多くて、なんとか自力排便して欲しいんだよね。だから出ると嬉しくなって「今日は宝くじ買いに行きます!」とか言ってると、当たりを本当によく引くようになる。この方もPトイレを入れて貰ったんだけどね。相手もこっちを見て「合わせてくる」ことを忘れちゃいけない。

 最近感じている事ですが、認知症や精神的な問題を持っている方などはコミュニケーションが大変ですが、同じ人間であるので、こちらが工夫や努力をしてそれが相手に伝われば、少しずつでも分かり合える瞬間があると言うこと、分かり合えた時の嬉しい瞬間があると言うことを感じていますね。

佐々木 うん。大切なのは相手も自分を解って貰うための何かをしているんだよね。それは自分のプライドを守るためのひねくれ言葉や嫌味になる時もあるけど、自分を解ってもらいたいのは誰でも同じなんだ。

 ですよね。同じ人間ですもんね~

佐々木 それ! それを本当に知ることが「人間力」なんだよ!




★★人物紹介★★ 

■佐々木伸孝:統括本部副部長 「いちしんウエルフェアだより」執筆

■堤真理:R4.3(時の生産物)入社。前職は事務で介護未経験。R6.7訪問介護ステーションNIWAに異動。

 
 


紙ふうせんだより 3月号 (2025/04/15)

ひさかたの光より眺む

 皆様、いつも有難うございます! 桜の花が綺麗ですね!

 桜の花を見て皆様はどんな印象を持ちますか? 卒業や入学式からくる新たな出発のイメージや、春爛漫のあふれる生命力を感じたり、さまざまな受け止め方があると思います。日本人の好きな桜は、時代や世代によって感じ方が違うのです。

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ  紀友則(※1)

 この和歌は、こんなのどかな日に、桜の花がせわしなく(静(しづ)心なく)散っていくのを見て、すべてのものは変化していくという無常感を読んだものです。

 この和歌を、戦時中の軍国教育(※2)を受けた方はまた違う受け止め方をします。たとえばこんな感じに。
「私の心は、さまざまな思いから波風が立ってはいるが、私はこののどかな日に、潔く花と散っていこう」
花と散るとは勇ましく戦死をすることでした。


 もし、戦時中の戦争指導者が、日本古来の無常感(※3)、たとえば平家物語の「祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理をあらはす。おごれる人も久(ひさ)しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。」
の感性を持っていれば、泥沼の戦争への道にどこかで歯止めがかかったのではないかと考えてしまいます。


 桜一つをとっても、感じ方は異なるのですから、なおさら「人間」の「老後」のとらえ方ともなれば、千差万別でしょう。ここに、さまざまな人間らしい「個性」を持ったヘルパーが介護をしていく意味があると思います。

 さて、私としましては、音もなく静かに散っていく桜を見て、春の柔らかい光線に桜も自分も包まれている事に気が付いて、自転車に乗りながら、「ああ、桜はあんなに静かなのに、自分はこんなにもせわしないなあ」と思う日々です。




※1 きのとものり「古今和歌集」(905年)の中で最も有名な歌

※2 当時“大和魂”は「パッと咲いてパッと散る」など花に譬えられ御国のために死ぬことを奉公とし、強要された死が多くあった

※3 この世には「常なるもの」は存在しないという世界観。強者の驕りは自分だけを「常なるもの」にしようとする




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永遠の視点から現世を見る

 ここまでの文章は、実は12年の3月号のお便りです。当時から介護は3Kなどと呼ばれ既に斜陽化しつつありました。育児や介護をすることは、TVなどでは「負担」の文脈で語られ、関わった者が損をしているような空気がありました。

 しかし人間存在は「生老病死」そのものですから、人間の一面を安易に切り捨てるような風潮は、やがてもっと生きづらい非人間的な社会の空気になるのではないかと私は恐れていました。介護は「負担」だけではない。介護することにもされることにも喜びや楽しみがあり、介護という事象そのものの中に、人間の価値を再発見させるものがあるはずだ。仕事を通してそれらを学べる介護職の素晴らしさを伝えたい、そのような思いでお便りを書き始めました。

 先ほどの文章には、書きたくて書けなかった続きの内容があります。それは、紀友則の和歌のように、私たちの仕事は、「永遠の視点」から人と我が身を省みるものではないか、というものです。

刹那(せつな)の中に感じる永遠

 「久方(ひさかた)の」とは、久遠や永遠(※4)を意味するのでしょう。主に天空を観ずる状況に係る枕詞ですが、天を永久に確かなものとみなすような、その永遠性を称える意味があります。対して地べたで生きる人間の儚(はかな)い有限性に、空を見上げながら和歌は詠嘆するのです。

 あるご利用者さんが言われていました。「自分は死ぬのは怖くはないんだ。だけど、死んだら何もかも無くなってしまうのだとしたら、今まで生きてきたことや、今辛い中で生きていることに何の意味があるのかと考えてしまう…」

 散り急ぐ桜を 惜しむ時、人は一つひとつの桜の花に人間存在を重ねています。そして同時に視点は久方の空に置かれ、散華(さんげ)を俯瞰します。永遠の視点からは、桜の花はどのように映るのでしょう。この問いは、「人間の生涯は永遠の視点からはどのように映るのか」と同型です。このような問いを持つ時、人は一個人の狭い視点からの離脱を目指しています。

 現世の目前の利害得失に汲汲としてしまう一個人の視点からは、死は断末であり消滅であり無かもしれません。しかし、永遠の視点に立てた時、死は解放であり昇天であり再生かもしれないのです。散った花はそれで終わりです。同じ花は二度と咲きません。しかし散ることによって若葉に場所を譲ります。葉もやがては紅葉して風に舞います。冬、木は枯れたように見えながら春を待ち、時と共に芽吹き花を咲かせます。その花は以前と同一の花ではありませんが、樹木を通して同じ花とも言えます。その木がやがて枯死したとしても、大地には別の草木が芽吹きます。大地を通して生命は再生します。

 私たちの命もまた天を通して一つの大きな命に繋がっているとは言えまいか。散りゆく花の刹那に惜別を感じながら、久方の光は、静かな心をもってその光景を「時よ止まれ(※5)」と思わんばかりに眺めているのです。




※4(例:万葉集)ひさかたの都を置きて草枕旅行く君をいつとか待たむ

※5 ゲーテの戯曲「ファウスト」にある有名なセリフ




惜別の時に感じていたいこと

「今まで生きてきたことや、今辛い中で生きていることに何の意味があるのか」

 死後を知り得ぬ私たちは、その答えを持ちません。これは、個人では回答不能な形式の問いなのです。個物の存在の「意味」は、他の存在との関係によって初めて現れてきます。私たちは「他者」という項を導入して、問いの形式を別の式に変換する必要があります。

「今現在や将来に仮定される他者との関わり方によって、今を意味のある時間にする」

 答えはあらかじめ決まっているものではなくて、見出すものなのではないでしょうか(※6)。

 病状思わしくなく寝たきりとなり訪問開始となったご利用者さん。静かに目を閉じておられ透き通るような肌の空気感に、先の長くないことが観じられます。こちらも静かに挨拶をします。薄目を開かれてアイコンタクト。「お体を綺麗にしましょう。少し見させて下さい。」そうして「向こう側を向いて下さい」と声をかけると、必死になって身体を動かして下さいます。弱いながらも着実な動作に、待ちながらその方の相手を思う気持ちを受け取ります。共同作業をやり終えて退室の挨拶です。その方のこちらを見てのかすれた発声に、耳を近づけます。

「あ・り・が・と・う…」

「大丈夫です。しっかりと聴こえましたよ。こちらこそありがとうございます」

と笑顔でお返しします。ニッコリとした微笑み。かすかに濡れている眼差しが、射貫くように私に幸福感を届けます。

 旅立つにはもう少しだけ時間があります。世話し世話される関係は、命が繋がりの中にあることの幸せな実感となるのです。




※6 私たちが「生きる意味」があるかどうかと問うのは間違っている。「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」とホロコーストを生き延びたユダヤ人精神科医V・E・フランクルは、人生からの問いに自らの態度で答えることの重要性を説く。フランクルは実存分析(ロゴセラピー)という心理療法の創始者。





 

紙面研修

人生の意味を見出すために

【ロゴセラピーの基本的な考え方】

・人間は様々な状況・条件下であっても、自分の態度決定の自由(意思の自由)を持っている。

・人間は生きる意味を強く求めている(意味への意思)。「生きる意味が無い」ような嘆きは意味を見失っている状態と考えられる。

・それぞれの人生にはその人独自の意味があり(人生の意味)、それを見つける事が大切。




私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答をださなければならない存在なのです。    

『それでも人生にイエスと言う』 V・E・フランクル
(人生を「意味のあるものにしよう」と決めた時、人は困難を乗り越えていこうとします)




自らが生きることによって示す人生の「意味」

 死がそう遠くない先に待っていることを自覚した人は「残りの人生から何を得られるか」「残りの人生に何を期待できるか」と自問します。やり残した仕事を完成させたい。自分が生きた証として何かを残したい。旅行に行って美味しいものを食べたい。そう思ってあれこれ考えを巡らせるかもしれません。しかしそうしているうちに体は衰え歩くこともままならず思考も働きにくくなったとしたら、「残りの人生に何も期待できない」となってしまうのでしょうか。

 確かに何かを作りあげる「創造価値」や素晴らしい体験をする「体験価値」の機会は、失われていくものです。しかし体の自由が全くきかないような状況になったとしても、息を引き取る瞬間まで「態度価値」は示すことができるのです。「態度価値」とは、運命から挑戦を受けた自分自身が、運命に対してどんな態度をとることもできるという“意思の自由”によって示される自分自身の尊厳なのです。「より良く生きる」とは、人生に何かを求める態度ではなく、生きることによって自らの「人生の意味」を示す「態度」にあります。

 「態度価値」を提唱するフランクルは、人生の意味はその究極において「つくりだされるものではなく、発見されるもの」と述べています。自分の外側に答えを求めてばかりいては、自分の心の内側に生じる「意味」を見落としてしまいます。

 

人生を豊かにする 3つの「価値」


創造価値人が何かを創造することによって、世界に何かを与える価値

体験価値人が人との出会いや経験を通じて、世界から何かを受け取る価値

態度価値人が現実に対して「とる態度」によって実現される価値
 

 

 

『たとえぼくに明日はなくとも――車椅子の上の17才の青春』(立風書房)

筋ジストロフィーと診断されていた石川正一さんは10歳の夏、ついに歩けなくなります。

「お母さん / もう一度立ってみる / ちきしょう / ちきしょう / ぼくはもう駄目なんだ / ぼくなんかどうして生れてきたんだ! / 生れてこなければよかったんだ!」

 苦しみを抱えてまでして人はなぜ生きなければならないのか、死んでしまってもいいじゃないか。苦しい時、そう思うことがあります。

 しかし無くなって欲しいものは、本当は「苦しみ」の方です。その苦しみに「どうして」と問いかけても答えてはくれません。苦しみを抱えた自分が「どうやって」生きて行くのか。答えを求められているのは自分自身だったのです。問いを反転させるために、仮定として自分の「死」を空想します。それが「死にたい」と言う表現です。それは、「今までの自分の考え方は終わりにして、新しい考え方のできる自分に再生したい」という気持ちの表れなのです。

 石川さんは14歳の時に20歳までの命と宣告され変わっていきます。そして自分に問います。

「たとえ短い命でも / 生きる意味があるとすれば / それはなんだろう / 働けぬ体で /一生を過ごす人生にも / 生きる価値があるとすれば / それはなんだろう / もしも人間の生きる価値が / 社会に役立つことで決まるなら / ぼくたちには / 生きる価値も権利もない / しかし どんな人間にも差別なく / 生きる資格があるのなら / それは何によるのだろうか」

「たとえぼくに明日はなくとも / たとえ短かい道のりを歩もうとも / 生命は一つしかないのだ / だから何かをしないではいられない / 一生けんめい心を忙しく働かせて / 心のあかしをすること / それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている / 釜の火は陶器を焼きあげるために精一杯燃えている」

 生きる意味について考えている利用者さんは多くいます。そのような方と向き合う時、問われているのは私たち自身かもしれません。




考えてみよう

自分が利用者の前に立った時、示そうとしている「態度」は何だろう。

自分の中には、自ら課した原則や規範はあるだろうか。

自分の尊厳は、自分自身の態度の中にあるとすれば、それは何だろう。





従業員対談企画(2月号) (2025/03/25)

「訪問介護は大変なんでしょ?」とよく言われます。

本当に大変なのか? はたしてその実態は――   

 

佐々木 堤さんはどうして訪問介護はじめたの?

 社員旅行でお酒を飲んで盛り上がっている時に、突然渡部さんから「訪問介護」やらない?って言われたんですよね。私、デイに事務で入って介護の経験無いのに、勢いで了解しちゃって、あとで凄く不安になったんです。「私に出来るのかな?」って。でも自分を鼓舞して、「いくしかない!!」と。

佐々木 ふーん

 佐々木さん、今流したでしょ。ちゃんと聞いて下さいよ。

佐々木 ごめんごめん。理由なんて本当はどうでもいいんだよ。やったら凄かったでしょ、カルチャーショック的な。色々考えさせられたりしたことがあると思うよ。そこらへんを聞きたい。

 いやー、濃かったですね。そうですね、色々ありますけど…。最初は先輩に同行訪問をしてもらっていたのですが、その時にですね、先輩が買い物代行で外出して、私が自宅に残り掃除を行う事になりまして。私が一人の時に利用者さんが「お姉さん。台所行ってゴキブリほいほいにゴキブリ入っているか見てきて。」と言うんですよ。え、ゴキブリ? 私、世の中で一番苦手なものが虫なんですよ。「ゴキブリ……………。」と私固まってしまったんです。

「『自分で見て下さい』と言っていいのだろうか? なぜ自分で見ないのだろうか?『嫌です』と拒否していいんだろうか?……」と数秒の間にいろんな感情が沸き、「断れない」と思い、足でゴキブリほいほいをひっくり返し、ひっくり返した瞬間にゴキブリがいない事を確認し、「入っていませんでした!」とお伝えした事を覚えています。

佐々木 虫系か。あるあるだよね。あるお宅の初めての支援で片付けを手伝うことになって、山積みの洗ってない食器やゴミを片付けて洗いカゴを綺麗にしようとしたら、水受けにびっしりと白いご飯粒みたいなものがザワザワ蠢いていて、心の中で叫びながらそっと排水口に流したことがあったなぁ。

 やめて下さいよ。そんな話。

佐々木 じゃあ、もうちょと良い話。知的障害の方が高齢で軽費老人ホームに入ってね。入居の際、ホームから作業所の行き帰りを覚えるまで支援して、その後介護保険で入浴の支援になったんだよね。真夏でもいつも散歩されていて、頭は真っ白なんだけど真っ黒に日焼けしていて、背が低くて少女みたいなキラキラした瞳をしていてね。よく外で見かけては声かけたんだ。「なにしてたの?」て聞くと、「うん。虫見てた」「そっか。虫いた?」「うん。いた。」「いたんだ」「アリがいた。」「そっかー」みたいな感じで、一緒にしばらくの間、虫を眺めたよ。とっても豊かで幸せな時間だったから忘れられない。

佐々木 その方の周りだけ時間の流れが違うんだよね。その方の空間に入らせてもらうと、いつもの自分を外側から眺めるような感覚になるんだよね。サスペンス劇場で登場人物全員が切羽つまってるのに「こっちは平和だなぁ」みたいな感じでね。その方、ダンゴムシとかケースに入れて部屋で飼おうとしてたな。

 虫のことは理解できませんが、時間は解る気しますね。確かに、時間の流れが違いますよね…。

佐々木 そうそう。そういった気付き、結構あると思うよ。認知症の方とかさ。

 認知症の方…。そうですね。毎週同じ曜日、時間に伺っているのにも関わらず、「誰?何をする人?うちに来て何をするの?」と必ず毎回聞かれる方がいて、トレーニングセンターや、デイサービスでは接する機会がなかったから最初の頃は凄く戸惑いました。

佐々木 どうやって慣れていったの?最初は指示が入らないというか、「指示が入らない」という言い方自体が考え方を間違えているんだけど、慣れないとこちらの言っていることが全然伝わらないでしょ。

 そうなんですよね。時間ばかり過ぎちゃうのに何もやらせて貰えないと、焦ってきて余計早口になっちゃうというか…。

佐々木 そこに気が付くと変るよね。相対的に早口になってたと解ると、合わせようとするもんね。

 そうなんです。なんかもう、堂々巡りになっちゃうので、とりあえず自然な会話を心掛けて、相手に合わせていったら、「ああ、どうぞ」みたいな感じで受け入れてくれるようになって下さったんですよね。最近では全く気にする事なく毎回新鮮な気持ちで自己紹介していますよ。

佐々木 それだよ。指示が入らないって言う人は、自分が相手の世界に入っていないんだよ。ゴキブリの話にも繋がるんだけど、皆本当はひとりひとり違う感覚で違う世界を生きているんだよね。でも家族は自分の延長のようなものだし、友達はある意味似た者だし、職場はやることも方向も決まっているから、多くの人が自分の世界とは違う世界があるということに気付かないんだよね。

佐々木 現実世界に絶望する人は時々いるけど、本当は現実は多層性があって人の数だけ世界はある。北海道の人が東京で初めてゴキブリを見て「珍しい虫だ!」と喜んで、飼育しようとした笑い話があるけど、現実はいくらでもある。訪問介護は社会階層の違う様々な人との出会いがあるでしょ。どの階層や世界が良いなんて絶対に言えないんだけど、僕らの仕事は別の世界の入口を見つけて入っていくことなんだよね。そうやって外的経験の世界が豊かになると、自分の心の中の世界も多様性を増して豊かになってくるという……。

 はい。異動前の自分と比べると明らかに人間力が上がったと感じますね。 

 (つづく)


紙ふうせんだより 2月号 (2025/03/24)

何のために、誰のために

 皆様、いつもありがとうございます。2024年は介護事業者の倒産が過去最多(172件前年比40.9%増)となり、うち81件が訪問介護ということです。昨年のマイナス改定により訪問介護の無い自治体は、この半年で97の町村から107の町村へと増加、1事業所しか無い町村は272にのぼります。何のための制度改正でしょう。誰のための介護保険法でしょう。法を遵守して、いったい私たちは何を守ろうとしているのでしょうか。

何を基に判断するか

 コンプライアンスとは法令遵守とされています。遵守(じゅんしゅ)とは守ることです。法令とは、法と法に基づく命令(政令や省令等)です。法律の上位には「憲法」があります。憲法は、主に国が「してはならないこと」と「すべきことを」定めています。

 例えば、「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる(※1)」という条文は、国が国民の人権を侵害してはならないことを定めています。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する(※2)」という条文は、基本的人権に含まれる「生存権」を意味しますが、国が生活保障の制度化をしなければならないと述べています。

 では、憲法の上には何があるでしょう。憲法を制定する基礎となった理念があります。日本国憲法の三原則は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義ですが、「基本的人権」は憲法や法律が規定しなくとも、生まれながらに全ての人が有している権利(自然権)とされており、「普遍的人権」とも呼ばれます。

 当然ですが人権擁護の原則に日本国籍の有無は関係ありません。世界人権宣言(※3)では「わたしたちはみな、意見の違いや、生まれ、男、女、宗教、人種、ことば、皮膚の色の違いによって差別されるべきではありません。また、どんな国に生きていようと、その権利にかわりはありません。」とうたっています。これは、世界中のどんな権力者も犯してはならない普遍的な原理なのです。




※1 第11条

※2 第21条 国民には生存権があり国家には生活保障の義務があると「社会保障制度に関する勧告」(昭和25年社会保障制度審議会)で明らかにしている

※3「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として1948年12月10日国連総会で採択。引用は第2条で谷川俊太郎による翻訳。左上の画像は同翻訳で第1条、画像は国際連合広報センターHPより




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コンプライアンスは、法や憲法の目指すところを含む

 コンプライアンスは「法令さえ守れば良い」という意味ではありません。法律の目的やその上にある理念や原理や社会規範に照らし合わせて判断し、行動することを求めています。その時の判断基準となるものを「倫理」といいます。倫理とは、「どのような行為が正しいか」を示すものであり、社会規範や善悪正邪の普遍的な判断規準となるもので、人の「内的な自律」を基盤とします。

 一方、法は「どのような行為が正しくないか」という外的規制となります。法律がNGリストと呼ばれる所以(ゆえん)ですが、法の抜け穴を突く者を想定してNGリストを量産したら社会は窒息するでしょう。善行を強制する法は作るべきではないということもあり、倫理はひとりひとりに委ねられています。

 コンプライアンスという課題は、私たちが「何をするべきか」という問いかけです。「してはならないこと」と「すべきこと」の両方が意識されなければ、組織も社会も機能不全に陥って弊害がでてくるのです。

利用者さんの日常を知らない者の無責任

 あるご利用者さんが退院することになりました。病院にお迎えに行くと、ヒゲぼうぼうの顔には精彩がありません。寝たきりに近い状態にいたようで体にも力がありません。タクシーから降りて自宅の上がり框(がまち)に苦労して、数歩で力尽きてしまいました。ようやく食卓の定位置にたどりつくも体をまっすぐにできません。応答は覚(おぼ)つかず、必死に片方の眼を開けては「目があけられない…」と言われます。そのうちに嘔吐。明らかに異常です。

 今まで必要としたこともない睡眠薬や向精神薬らしきものがいくつも処方されています。朝食時の薬だけで29錠あります。ケアマネに来て貰い病院に電話を入れます。状況を説明し、「〇〇さんは以前強い薬が影響して意識障害を起こして救急搬送されたこともあり、薬ではないかと疑っています。先生に薬について伺いたい。」しばらくの保留の後、「今先生がいないので答えられない。救急車を呼んだ方が良いと思うが、当院では受け入れられない」とのこと。ご本人に病院に行きたいか伺うと「絶対に嫌だ」とのことで、ベットに誘導し一晩様子を見ます。

 翌午前、在宅医の臨時往診ですが、代診のため薬については判断できない旨を言われます。昼に訪問すると朝の薬を飲んでいないためか元気な様子です。薬を飲むように言うと、「薬を飲むと動けなくなるんだよなぁ」と、その害と飲みたくないことを明確に言われます。しかし、心筋梗塞だったので抗血栓薬や心臓の薬は飲まなければなりません。他の薬はどうするか…。

 酷い様子を見た上で何も考えずに飲ませるわけにはいきません。別包の向精神薬だけは抜いて、服薬して頂きます。すると30分ほど経過してまた脱力が見られるようになりました。一包化された物の中にも脳神経に作用する薬が入っていたのです。

内的な自律なくして人は守れない

 医師でない者が服薬について判断することは、ルール的には正しくありません。しかし、飲みたくない薬を飲ませることもまた倫理的に問題があります。

 判断に対立が生じた時はより根本的な原則に基づくべきです。過剰投薬なら医療倫理の「無危害原則」に反します。介護保険法の総則の「尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう」にという法の目的にも反します。自立した介護職として自律した判断をせずに漫然と内服させることもまた「危害」に加担することになります。

 医師よりも看護師よりも「日頃の利用者を知る者の責任」として職業倫理に基づいて“騒ぎ”、内服薬から向精神薬を抜くことをケアマネに連絡し数日の様子見を約束しました。すると翌日には元気が戻り、翌々日には介助で広いスーパーの店内を一周し、寿司を買って食べることができました。

 「処方通りに飲ませてさえいれば良い」という表層的なルール主義を狭義のコンプライアンスとすれば、より「倫理性の高いコンプライアンス(※4)」は、医療の目的や生活の質や人権擁護や自己決定の原則までも視野に入れなければなりません。薬も過ぎれば毒となるというような状況で陳腐化したルールを克服していくためには、誰かからの指示を待つのではなく、自らが判断していかなければなりません。

 訪問介護の現場は利用者と一対一の関係です。自分が問題提起をしなければ、誰も問題を知らず放置が続くということも起こり得る環境です。責任重大と言えますが、自らの働きかけで利用者さんのQOLが大きく変わる関係でもあります。そうして良くなった時の利用者さんの笑顔は、何ものにも替え難いものです。




※4 フルセット・コンプライアンスという。同論では、真のコンプライアンスとは「社会的要請への適応」とし、「コンプライアス=法令遵守は誤り」と主張する。法令のみを意識した受けとめによって思考停止に陥り組織が硬直化したことが日本の衰退の一因になったと主張する。介護職の離職や介護という仕事の精神的貧困化も同根と考えられ、想像性や創造性の衰退が原因。





紙面研修

「倫理的判断」はどのように行われるか

倫理と法

【倫理】人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。

【法】社会秩序維持のための規範で、一般に国家権力による強制を伴うもの。

【道徳】人のふみ行うべき道。ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。




倫理
「どのような行為が正しいか」を示す 「どのような行為が正しくないか」を示す
内的な自律から生じる 外的強制力によって作られる
 

・それぞれ異なるレベルの規範である 

・規範はそれが「欠如している状態」にあって意識される




内的規範や自律性から生じる「倫理的判断」

 多様な人々の集合であるこの社会において、さらに柔軟さや臨機応変が必須の対人支援職ともなれば、全ての事例に対応できるルールの細則を全て網羅することは不可能です。そこで状況に応じて「判断」が必要になってきます。

 私たちはどのように「判断」をしているでしょうか。以下の判断方法の類型を見ていくと、判断する場面での葛藤を回避しようとする姿勢と、葛藤に立ち向かっていく積極的な姿勢があるように思います。そしてその姿勢の違いによって、内的規範や自律性の発展も左右されます。哲学者のカントは「自由な行動とは自律的に行動することで、自律的とは自然の命令や社会的な因習ではなく、自ら課した法則に従って行動することである」と述べています。

《判断方法の類型》

※5項目までが「非合理的」、それより下が「合理的」アプローチとされる

服従:権威者のルールや指示に賛成してはいなくても、ただそれに従う。

模倣:判断を自分以外の他人の判断に依存する。従うのは自らモデルと定めた対象で、優れた対象であれば学びにもなるが、やがては自立・自律していかなければならない。

感情や願望:自らの感情や願望を満たすために判断をしている。時に、願望と判断を取り違える。

直観:洞察によるひらめきを通じて直ちに決定に導く。時に優れた判断になることもあるが、体系的でも意識的でもないため再現性に問題があり、その人の資質や状況によっても大きく変動する。

習慣:良い習慣と悪い習慣がある。体系的な意思決定の過程を繰り返す必要がないので判断は効率的となるが、既存の状況と異なる時は大幅な変更が必要で、漫然とした習慣は弊害となる。

義務論:道徳的決定の基礎となりうる根拠の確かな基準を探求しルール化を求める。但し、そのルールについては合意が得られない状況は往々に生じる。(例:森鴎外の『高瀬舟』など)

結果主義:異なる選択肢から起こり得る結果を予測して、都度、功利主義的に判断をする。正しい行動が最善の結果を生むと考える。
 しかし、予測の立ちにくい問題については、逆説的に「結果によって手段を正当化する」「結果を出しさえすれば良い」態度になってしまいがちで、過程(合意形成や過程での失敗)を軽視してしまう傾向となり、独断となる。何をよい結果とみなすかについての合意がなければ、ズレた結果を「良かった」とするような一人よがりになる。

美徳:意思決定の以前の段階にある、日々の行動に表れる意思決定者の道徳性を重視し、日頃から徳を涵養する。重要な道徳性のひとつは共感、他には、正直・思慮分別・献身など。但し、有徳な人でも、状況によっては確信をもてないことも多々あり、誤った判断は完全には回避できない。(徳があればよい決断を下しよい行動をするとされる儒教の徳治主義に近い)

原則主義:ルールと結果の両方を考慮しつつ、正しい行為を決定するために、判断基準(倫理原則)を設けてそれを判断の基礎とする。それでも複数の原則が衝突することがあるため、その都度それぞれぞれ原則の意味や優先度を状況に応じて吟味する。

(※いずれにしても、より良い判断をするためにケア会議等を開催することはとても大切です。)

 

医療倫理の四原則

医療倫理の四原則はトム・L・ビーチャムとジェイムズ・F・チルドレスが『生命医学倫理の諸原則』(1979)で提唱したもの。生命倫理における「自律尊重」の原則は、特に重要なもので、患者に情報を開示し患者がその内容を十分に理解し、納得した上で「自律的な決定」ができるよう支援するインフォームド・コンセント(説明と同意)が重要となります。

【自律性尊重原則】患者が自律的に自己決定し行動することを尊重し、それを妨げないこと

【善行原則】患者にとっての最善を尊重し、医療的な最善を提供すること

【無危害原則】患者に危害を加えないこと、また危険を予防すること

【公正原則】すべての患者を差別せず、医療資源を公正に適切に活用すること




考えてみよう

自分はどのような判断方法を取る傾向があるだろうか。

自分の中には、自ら課した原則や規範はあるだろうか。





紙ふうせんだより 1月号 (2025/02/26)

ひとりひとりへの気持ちを乗せて

 皆様、明けましておめでとうございます。正月にお仕事をしてくださった方、本当にありがとうございました。「株式会社いちしんウエルフェア」として出発して、本年がいよいよ本番の年となります。皆様のお力をお借りしたくお願いを申し上げます。本年もひとりひとりの利用者さんと向き合い、笑顔を交わしていきましょう。

「ひとりひとり」を忘れない

「ひとりひとり」という絵本があります。谷川俊太郎さん(※1)の四行連詩の一連ごとにいわさきちひろさん(※2)の美しい水彩画が彩ります。冒頭から第三連まで引用します。

ひとりひとり / 違う目と鼻と口をもち / ひとりひとり / 同じ青空を見上げる

ひとりひとり / 違う顔と名前をもち / ひとりひとり / 良く似たため息をつく

ひとりひとり / 違う小さな物語を生きて / ひとりひとり / 大きな物語に呑みこまれる

 いわさきちひろさんは大正7年、谷川俊太郎さんは昭和6年生まれです。この時代の「大きな物語」は国家でした。国家は大東亜共栄圏や八紘一宇をスローガンに戦争に邁進していきます(※3)。当時ほどの重圧はありませんが、現代にも大きな物語はあります。会社をイメージする人もいるでしょう。仕事をしていなくても人は文化や社会から様々な規制を受けていきます。

 私たち個人は、それらの枠組みに呑み込まれていきます。要介護高齢者は制度や事業所の在り方に生活が左右されます。その枠組みの在り方や雰囲気を決める力を持つ人は、ひとりひとりの物語を改変する力を持ち得ます 。そのような私たちだからこそ、そこにいるひとりひとりの存在とその揺れ動く心を大切にしていかなければなりません。




※1(1931-2024)1952年の「二十億光年の孤独」が第一詩集。以来詩作を中心に評論や脚本や翻訳なども行う。レオ・レオ二の絵本「スイミー」や漫画「ピーナッツ」は谷川の翻訳

※2(1918-1974)子どもの幸せと平和を生涯のテーマとした画家、絵本作家

※3 国民学校(小学校)では教育勅語が朗読され「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ」は国に命を捧げることとされていた。




人に成るということ

 社会は、時にひとりひとりの物語に区切りをつける強制力を持ちます。民法改正により昨年から成人年齢が18歳となりました。成人式を迎えたら大人の自覚に立つことが個人の事情に関係なく求められます。谷川さんの詩に「成人の日に」というものがあります。

 成人とは人に成ること もしそうなら / 私たちはみな日々成人の日を生きている / 完全な人間はどこにもいない / 人間は何かを知りつくしているものもいない / だからみな問いかけるのだ / 人間とはいったい何かを / そしてみな答えているのだ その問いに / 毎日のささやかな行動で

 異なるひとりひとりが共に暮す世の中だからこそ、私たちは日々のささやかな行動の中に、人は人とどう関わるべきか、社会の枠組みとひとりひとりの関係はどうあるべきか、という答えを示していかなければなりません。

 子供は共同体に依って生存が支えられ育まれていきます。大人はその共同体がひとりひとりに対して優しいものとなるように共同体を支え、社会がその機能を発揮して多くの人の生存を支えられるように組み直していかなければなりません。それが、人が人に成っていくための基盤であり日々の務めなのです。

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私に自覚されて「私」は人に成っていく

 「人間とは常に人間になりつつある存在だ(※4)」という言葉は確かに本当です。人を粗末にすれば「人でなし」に転落します。自分も他人も等しく大切にすることが人を創り育てます。子供たちはいつかの自分です。大人はいつか老人となり、支えられる側に回ります。年寄たちはいつかの自分です。大切なことは、他者の気持ちを自分事のよう感受する共感性です。

 あるご利用者さんが言われていました。「ある時お母さんが『80にならないと、80の気持ちはわからない』と私に言ったの。私はその時お母さんに何かを言ったと思うの、お母さんの言葉を覚えているから。今になってお母さんの言葉が理解できる。」

 ここに、育つことや老いることを含めた「生きること」の価値があります。身体性の伴う実感がなければ理解しえないことは、人生にたくさんあります。老いてもなお「わかった」があるということは、学んだ内容に意義があり、学びの前奏としての今までの人生に意味があり、年を重ねた価値があり、今この時にも私は「人」に成っていっているということなのです。この方は「自分は自分でつくらないといけない。人のせいにしても始まらない」と言われました。

 人生とは、言い換えれば「私が私になっていく(※5)」過程であるとも言えます。私の可能性を持つ者が「私」として生まれ、私のささやかな行動の積み重ねとして「私」になっていく。そして、私を「私」たらしめるものは、「他者」に他なりません。「自分を大切にする」とは、「他者のように見なした私」を私が尊重することです。大切にされた(大切にされなかった)他者が私に対する表情で(声掛けや目線で)「私」が何者なのかを物語ってきます。

 「過去の私」は今の私に宿題を置いて去る者として他者であり、今の私が責務を負う対象として「未来の私」は他者なのです。今を生きる私の責任の中に「私」があるのです。




※4俊太郎の父、哲学者の谷川徹三(1895-1989)の言葉。「インテリで権威主義なところが嫌いで反面教師にして捉えてきた」と俊太郎

※5副題が「認知症とダンス」という同名の書籍があり、著者の若年性認知症当事者であるクリスティーン・ブライデンは認知能力が衰えても日々瞬間の私を生きるということが際立ち「私になっていく」ことが実感されるという趣旨を述べている。




一対一の関係を原点に

 谷川俊太郎さんは、昨年の11月13日に亡くなられました。谷川さんは朝日新聞に毎月一回詩を掲載されていました。11月17日発表の最後の詩は「感謝」という表題です。「目が覚める / 庭の紅葉が見える / 昨日を思い出す / まだ生きてるんだ」と始まり、「どこも痛くない / 痒(かゆ)くもないのに感謝 / いったい誰に?/ 神に?/ 世界に? 宇宙に? / 分からないが / 感謝の念だけは残る」と締めくくられています。

 人生の最後を迎える時、私たちは、自分の人生の一切を「過去」に手渡して、他者や過去の私に感謝を述べて「私自身」から去っていきます。そうやって私の人生が終わり、いつかまた未来に、今までとは違う別の私に「私」を手渡していくのです。

 人は物語を生きています。物語の核心はひとりひとりを大切にすることです。人を大切にすれば、それは自分に返ってきます。ひとりひとりの中には、過去や未来の「私」も含みます。そして、人間関係の原点は一対一の関係です。たとえ施設介護のように多対多のように見える状況であっても瞬間瞬間は一対一です。大勢に呼びかけている時でさえ、目線はひとりひとりと交わり、気持ちを乗せた声はひとりひとりの胸の内に重なっていきます。

 「認知症だから何を言ってもわからない」ということは絶対にありません。顔を忘れ言葉が出なくなり、たとえ意識が薄れても感謝の念だけは残り続けます。だから私たちは心をこめて気持ちを送り届けるのです。過去がどうあれ、それが最後の瞬間の「幸せ」を決するからです。


紙面研修
紙面研修
ひとりを大切にするケアの実践
 

「生きることの全体像」を見る

 私たちの「介護」という他者に対するアプローチは、医療に従属する立場で始まったこともあり、医療の考え方が採用されてきました。医療の第一は患者を治療すること(善行原則…医療的善行を施すこと)であるため、介護の方法論も身体(病気や障害)を見て「生きることの全体像」を見ていない、ということに陥りがちでした。

 例えば、身体的安全のために本人の意向に反して「施設入所をすすめる」というのもその一つです。在宅介護の限界ラインは個別的状況で変わっていきますが、意向に反する推進は身体的安全は確保しても心理的安全性は無視されてしまい、既存の生活からの切り離しとなり本人を追い込み生きる気力を奪ってしまいます。

 そういった反省から、支援の考え方は、「医学モデル(専門家モデル)」から「社会モデル(生活モデル)」へと変わってきました。生活モデルの考え方は、障害等が生じても既存の生活への再参加や社会参加を推進する考え方となります。

 一方で心身機能の回復の有用性も失われたわけではありません。そこで、「機能回復」と「参加」の両方の視点を取り交ぜた考え方が提示されています。それが、「統合モデル」とも呼ぶべき「生活機能分類モデル」です。

「障害分類モデル」の問題点

 「医学モデル」は“原因は一つ”の線形モデルで、疾患変調を全ての原因とする「障害分類モデル」です。原因を取り除かない限り解決しない考えで、医療的限界が全ての限界を決めてしまいます。「足を切断⇒切断は回復しない⇒歩けない・社会的不利は致し方ない」となるのです。

(図は厚労省PDFより)



 一方で「生活モデル」は生活上の機能に着目します。「歩く」ということは「移動できる機能」ですが、機能を車椅子やバリアフリー(社会的不利の除去)や支援で補えば、移動は可能となり社会参加や生活を取り戻せます。生活機能は多面的要素から成るため、改善の方法論も多面的に可能になります。

 



国際生活機能分類モデル

 生活機能分類モデルは、個人をとりまく状況(環境・文化・社会・歴史的要因)と個人的要因の上に「生きることの全体」が成り立っていることを示しています。そして、その中での生活のあり方を、「活動」を中心にすえ、身心機能や参加との相互作用によって生活が成り立っていることを示しています。

 心身機能は要介護ともなれば衰えていることが前提であり、その結果として本人の望まぬ活動制限が生じ社会参加が阻害され活動量が低下し、意欲が低下し更なるADLの低下がみられ健康が悪化する、という関係性が上記図表から読み取れます。

 では、回復の為にはどうしたら良いでしょう。「医学モデル」の中心課題の心身機能の回復を主題とするのではなく、「参加」を中心課題とするのです。介護職等の支援を受けて参加を促し、参加できたことによって活動量と自信や喜びを高め、それを心身の回復に結びつけるとともに、好循環によって全体を底上げしていくのです。

 目標はQOL(人生の質)そのものです。心身機能が低下しているから活動させない(ふらつきがあるから「歩かないで下さい」、危ないから「やらないで下さい」)というような働きかけは、かえって悪循環となります。「心身機能が低下しているからこそ」いかに支援によって「参加」を促し再び「活動」ができるようにするか、ということが大切なのです。

企業活動や事業所にたとえてみる

 「活動」の活性化は業績向上となります。組織の心身機能面は資金や運営体制やビジョンですが、従業員が嫌々の参加では活性化しません。企業活動は従業員の「参加」で成り立っています。「何にどのように参加してもらうか」を主題として、ひとりひとりと十分に関わり参加の価値(能力が認められる、自分の考えが採用される等)が明確であれば、受け身を脱して「活動」は活性化するのではないでしょうか。

ひとりひとりを大切に

 ひとりひとりを大切にしないということはどのようなことかと言えば、「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」に人を扱うということです。ひとりひとりには、それぞれの要因、それぞれの心身、それぞれの活動への願い、それぞれの参加意欲があります。それらのひとつひとつをつぶさに見てそれらの相互作用的全体像を理解していくことが、ひとりの人間の「生きることの全体像」を見ることになり、ひとりの人を大切にすることになります。「ひとりの人が大切にされること」はそのまま「その人のQOLの向上」ともなるのです。

谷川俊太郎の背景要因と詩

学校 

「ぼくがはじめて暴力ふるわれたのは、やっぱり小学校の先生だもんね。ビンタ張られた。」

「ぼくの世代はちょっと特別で、自我が育っていく段階が、ちょうど戦争の時期だったんですよ。だから学校教育は荒廃してたわけ。教育のかたちがぼくは嫌ではあったけど、小学生の頃はまだ、ちゃんとしていたわけです。そのうち教科書がだんだん黒塗りになって、先生はみんな生活難。食うや食わずです。」

「強制疎開で、われわれ生徒も一緒になって、家の取り壊しなんかもしてました。そのとき、先生が壊した家のガラスを大切に持って帰ったりしてるわけですよ。そういうのを見ていたから、教育の権威みたいなものは、もう、なくなっちゃったわけです。教育と戦争が併行した時代だった、ということが学校嫌いの一因であると思います。」

(ほぼ日刊イトイ新聞2022.7.5 糸井重里と対談)

 

戦争

「中学生だった戦時中、東京の空襲で近所まで焼けて、翌朝、友だちと自転車で焼け跡を見に行きました。焼死体がゴロゴロ転がっていて、人間の体のようではなくて、焦げて鰹節みたいになっていたんですよね。子どもだから怖いっていうより、不思議な感じがしていました。それが強く印象に残っていて、自分に何らかの形で影響を与えていると強く思いますね。」

(GLOBE+2023.3.2 インタビュー記事)

 

父の教え

「私は人間とは常に人間になりつつある存在だと考えているものであります。という意味は、自己の人間成長を常に心がけているものにとって、これで満足だという状態はないので、まだ自分はほんとうに人間らしい人間になっていないという思いを常に抱かざるを得ないからでありますが、しかし同時に、少しでも成長のあるところ、そのほんとうに人間らしい人間に常になりつつあるものとして自分を考えることができるので、その二重の意味をこれはもっているのであります。」

(谷川徹三「調和の感覚」)




「ひとりひとり」

ひとりひとり

違う目と鼻と口をもち

ひとりひとり

同じ青空を見上げる

 

ひとりひとり

違う顔と名前をもち

ひとりひとり

よく似たため息をつく

 

ひとりひとり

違う小さな物語を生きて

ひとりひとり

大きな物語に呑みこまれる

 

ひとりひとり

ひとりぼっちで考えている

ひとりひとり

ひとりでいたくないと

 

ひとりひとり

簡単にふたりにならない

ひとりひとり

だから手がつなげる

 

ひとりひとり

たがいに出会うとき

ひとりひとり

それぞれの自分を見つける

 

ひとりひとり

ひとり始まる明日は

ひとりひとり

違う昨日から生まれる

 

ひとりひとり

違う夢の話をして

ひとりひとり

いっしょに笑う

 

ひとりひとり

どんなに違っていても

ひとりひとり

ふるさとは同じこの地球




「成人の日に」

人間とは常に人間になりつつある存在だ

かつて教えられたその言葉が

しこりのように胸の奥に残っている

成人とは人に成ること もしそうなら

私たちはみな日々成人の日を生きている

完全な人間はどこにもいない

人間は何かを知りつくしているものもいない

だからみな問いかけるのだ

人間とはいったい何かを

そしてみな答えているのだ その問いに

毎日のささやかな行動で

 

人は人を傷つける 人は人を慰める

人は人を怖れ 人は人を求める

子どもとおとなの区別がどこにあるのか

子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな

おとなは一生大きな子ども

 

どんな美しい記念の晴着も

どんな華やかなお祝いの花束も

それだけではきみをおとなにはしてくれない

他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ

自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ

でき上がったどんな権威にもしばられず

流れ動く多数の意見にまどわされず

とらわれぬ子どもの魂で

いまあるものを組み直しつくりかえる

それこそがおとなの始まり

永遠に終わらないおとなへの出発点

人間が人間になりつづけるための

苦しみと喜びの方法論だ




感謝

目が覚める

庭の紅葉が見える

昨日を思い出す

まだ生きているんだ

 

今日は昨日のつづき

だけでいいと思う

何かをする気はない

 

どこも痛くない

痒くもないのに感謝

いったい誰に?

神に?

世界に? 宇宙に?

分からないが

感謝の念だけは残る




考えてみよう

ひとりひとり背景に触れながら「生きることの全体像」を感じてみよう。そして、ひとりひとりの関わりについて想像してみよう。


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