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平成25年4月 紙ふうせんだより (2013/12/26)

 皆様、いつも有難うございます! 日々少しずつ緑が濃くなっていきます。路傍の草花は、春に芽吹いたものは伸びきって、夏草は少しずつ顔を出してきています。注意を払わなければ見過ごしてしまうような些細なこと。興味がなかったら、カレンダーが四月から五月に変るだけの事。春と夏の間の季節です。

 

自分の興味や関心や価値観によって、見えてくる世界が異なるってくるという事実は、介護の現場ではよく目にします。年老いた親を見て、「あぁ、こんなにボケてしまった。歩くのもフラフラしているし転倒したらどうしよう。自分で何でもしようとするから、かえって困るわ。」というような嘆きは、よく耳にします。しかし介護者としての私たちは、「自分で何でもしようとする事こそが生きる強さですよ。まだ歩けるではないですか、歩ける事は本当に素晴らしい事です。」と言いたくなります。子供は、過去の“ちゃんとした”親を知っていますから、減点法で評価し嘆くのですが、私たちは寝たきりの方などを介護した経験から、加点法でその人を評価します。「いっそ寝たきりになってくれたほうが楽」との時々聞かされる言葉には胸が痛みますが、そんな時こそ、要介護高齢者と寄り添って見えてきた事実を、さまざまな方に伝えていきたいと思うのです。それにしても自分の見えている現実が、他人のそれとは異なるという事実は、深く考えると恐ろしいものがあります。

 

とある家庭の家族一人一人の内面を描写してみましょう。妻は、夫が仕事に熱中し家庭を顧みない事が不満です。最近学力が落ちてきた子供が心配で、夫には子供と遊んだり叱るなどして、もっと子供と関わって欲しいと思っています。夫は、妻が毎日些細な愚痴をこぼすので少し煩わしく感じ、もう少し視野を広く持って、社会や経済へ関心を持つべきだと考えます。為替相場の激変で会社の業績が悪化して自分もいつリストラされるかわからないんだぞ、と妻に言いたいところですが、そんな愚痴は言っていられないと仕事に精を出します。せめて子供には努力をする背中を見せたいと思って。子供は、自分の事を引き合いに出して夫に文句を言う母親を、筋違いで嘘つきだと感じていますし、父親は本当の人生とは何かを考えないで仕事に逃避しているように見えます。何よりも両親が、生きる事や死ぬ事を本気で考えていないように感じて、馬鹿に思えてきます。祖母は、それぞれが自分の価値観を押し付けあって壁をつくっているのを見て、年の功から湧き出る知見を家族に言いたいと思いますが、誰も本気で聞いてくれないと少しひがみっぽくなっています。そのひがみが、他の家族から疎ましく思われている事に気が付かずに。

 

これらが他人の家庭であれば、ホームドラマを見るかのような気軽さで、お互いの相克を笑って済ませることも可能でしょう。しかし自分自身の身に置き換えてみると、とたんに解析不能な感情の高ぶりに圧倒されてしまいかねません。

 

言うまでもなく、一人一人の見えている“現実”は異なります。この、異なる現実を前提として、まずは自分自身の自己主張したい気持ちを抑えて、その人の現実に付き合ってみる。すると、その人からどんどん言葉が聞かれてきます。そして時には意見をはさみつつも、相手を尊重し、可能であれば自己実現の手助けをしていく。これが、介護職のもっとも肝となる“尊厳を守る”という事ではないでしょうか。

 

安易に“自己実現”という言葉を使ってしまいました。自分自身の納得のいく世界観や価値観を確立し、それに基づいて生きる事ができながら、他人の持つ世界観や価値観と衝突せず争う必要もなく、他人との間の垣根も往来自由になり、生きたいように生きても社会規範との整合性もとれ、自身の幸福追求の過程で他人を傷つけるような事もなく、全てが調和のとれているような状態。そんなイメージをもとに自己実現という言葉を使ってみました。

 

       七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰えず(こえず)

 

孔子の有名なこの言葉は、人生の究極の課題を提示しているように思います。

 

介護という場面によって、親子が異なる現実世界を生きてきた事実が、表面化していきます。この時、介護者が双方の間に立ち緩衝剤となりつつ、お互いの橋渡しをし、それぞれの内的世界の拡大に少しでも役に立つ事ができたならば、ヘルパーとしての“自己実現”になるのかもしれません。

 

さて、それぞれの人々が異なった現実を見ているという事がわかってきたときに、はたして自分自身は、物事や人々の本当の姿に近いところを見ることができているのか、と考えてしまいます。そしてもう一つ、桜が咲いて瞬く間に散ってしまうような束の間の“現実世界”が、この世でせわしなく生活する自分自身が、あの世に旅立った人々にはどのように写っているのか、私は見てみたいと思ったりします。


平成25年3月 紙ふうせんだより (2013/12/26)

皆様、いつも有難うございます!桜の花が綺麗ですね!

 

桜の花を見て皆様はどんな印象を持ちますか?卒業や入学式からくる新たな出発のイメージや、春爛漫のあふれる生命力を感じたり、さまざまな受け止め方があると思います。日本人の好きな桜は、時代や世代によって感じ方が違うのです。

    

    ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ  紀友則

 

この和歌は、こんなのどかな日に、桜の花がせわしなく(しづ心なく)散っていくのを見て、すべてのものは変化していくという無常感を読んだものです。

 

この和歌を、戦時中の軍国教育を受けた方はまた違う受け止め方をします。たとえばこんな感じに。「私の心は、さまざまな思いから波風が立ってはいるが、私はこののどかな日に、潔く花と散っていこう」花と散るとは勇ましく戦死をすることでした。

 

もし、戦時中の戦争指導者が、日本古来の無常感、たとえば平家物語の「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらは(わ)す。 おごれる人も久しからず、 唯春の夜の夢のごとし。 たけき者も遂にはほろびぬ、 偏に風の前の塵に同じ。」の感性を持っていれば、泥沼の戦争への道にどこかで歯止めがかかったのではないかと考えてしまいます。

 

桜一つをとっても、感じ方は異なるのですから、なおさら「人間」の「老後」のとらえ方ともなれば、千差万別でしょう。ここに、さまざまな人間らしい「個性」を持ったヘルパーが介護をしていく意味があると思います。

 

さて、私としましては、音もなく静かに散っていく桜を見て、春の柔らかい光線に桜も自分も包まれている事に気が付いて、自転車に乗りながら、「ああ、桜はあんなに静かなのに、自分はこんなにもせわしないなあ」と思う日々です。


平成25年2月 紙ふうせんだより (2013/11/25)

皆様、いつも有難うございます! 梅の花が見ごろです。桜の開花が待ち遠しい、そんな季節にりました。しかし風はいっそう強く吹いています。まるで冬を吹き飛ばそうとしているかのように。こんな時心はどこかしらウキウキしますね。また季節の変わり目は体調を崩しやすいので気を付けて下さい。自然と人間は目に見えない関係でつながっているんですね。

 

ある方が退院され自宅に帰ってこられました。病院では十分な療養体制が組まれていたようでしたが、ご本人には在宅生活の希望がありました。伺うと「医療は体の事しか見ない」とおっしゃられ、心と体を切り離して考える傾向にある科学万能主義に疑問を呈していました。その方は、退院生活の不都合は十分承知の上で、自らの尊厳を守るのは自分しかいないという覚悟で退院を決めたように見えました。

 

宮澤賢治の「月天子」という詩に、以下のような言葉があります。

 

もしそれ人とは人のからだのことであると

さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は


からだと心であるといふならば

これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば


また誤りであるやうに

 

宮澤賢治は、正確な科学的知識をもって月を“理解”していますが、月そのものに対しては“月天子”とあたかも仏様のように受けとめ、その存在を敬っています。確かに人間の本質は、「身体である」とか「心である」とか「心と体である」とか、部分部分では言い表せないものがあります。近代科学は、物事を分解分析し別個に理解することで発達しましたが、それをそのまま人間に適応する考え方(ここに現在の人間をめぐるさまざまな問題の根源があるかと思います)に、宮澤賢治は強い抵抗を示しています。

 

私たち介護職は、医療と関係が深い職業のため身体的な側面に目が行きがちです。重度の方の介護では、なおさらバイタルなど身体的側面の知識的“理解”に追われてしまいす。しかし、その方の心や体を含めた「人間存在の全部」を受けとめていくには、知識的理解や介護技術を越えて、ヘルパー自身が人間としての感性を発揮していく必要があります。そこが、介護職の困難さであると同時に、面白さでもあります。

 

近年、日本スピリチュアルケア学会(2007年設立、理事長・日野原重明)などが活動を開始しています。スピリチュアル(霊的な)という言葉は少し唐突な感もありますが、体や心を切り分ける事をやめて、「人間存在の全部」(※佐々木の言い方)へのアプローチの必要性が認識されてきている事には論をまちません。それは「自然と人間はつながっている」と受けとめるような、全体性への感性と共通のものです。

 

さて、「月天子」と月を“仏様”のように敬う視点を持っていた宮澤賢治は、「人間」に対してどのような認識をもっていたのでしょうか。そんな事を考えてみるのもまた面白いかもしれません。


平成25年1月 紙ふうせんだより (2013/11/25)

皆様、いつも有難うございます! おかげさまで、利用者様も紙ふうせんも新年を迎える事ができました。皆様は良い新年を迎える事ができましたか? 特に、1月14日の稀にみる大雪には、移動など皆様に大変なご苦労をおかけしました。重ねてお礼を申しあげます。「雨にも風にも負けず」のヘルパー魂を、皆様と共に発揮していきたいと思いますので、本年もどうぞ宜しくお願いいたします。

 

今年は巳年です。蛇は体の成長にあわせて何度も脱皮をするそうです。そのことから「再生」の象徴と考えられたりするようになったそうです。精力剤として利用されるのも、そんなヘビに対する印象からきています。昔から洋の東西を問わずいたるところで、ウロボロス(下図)という象徴が用いられてきました。それは自らの尾を噛む蛇であり、その姿形から、「死と再生」や「万物の流転」や「永遠性」などの象徴とされ、そのような“自然”の持つ本来の力を自分の力として取り入れたいという人間の願いが託されてきました。

 

“老い”は自然の営みです。ヘルパーの派遣を受け入れるという事は自身の“老い”と直面することでもあります。「老いの受容」は、それが真に行われる時、「マイナス面の受容」のみならず「プラス面の発見」も伴っているはずです。介護者が、介護の大変さのみに心奪われている時は、介護者自身が自然の流れを受け止めきれず、“老い”の意味や価値を見失っている時でもあります。介護者と利用者様が、共に笑い、共に学び、共に涙するなかで、お互いの“自分らしさ”の輝きが生れてきます。

 

対人援助の世界でよく使われる“自分らしい”という言葉には、人間の持つ本来の力は、どんなに素敵で深いものであるかを、求め抜いて行こうという姿勢を示しています。

 

先日、ある老婦人のデイ迎えの時のこと、「デイサービスでは何をされましたか?どうでしたか?」と尋ねると、「童謡を歌うんですよ。それにしても不思議ね、皆様もわたくしも、仕事をしていた頃よりも、歌を思い出すの。すらすらと歌詞がでてきて、子供の頃の情景を鮮明に思い出すの。辛い事もあったはずなんですけど、幸せな事しか思い出さないの」とおっしゃられ、私の胸も熱くなりました。

 

さて、1月より私は、紙ふうせん訪問介護事業所の管理者になりました。ヘルパーの皆様が、より「楽しく」働けるように紙ふうせん訪問介護事業所の脱皮に努めてまいります。更には、利用者様と皆様の素敵な出会いが生まれるように心を注いでいきたいと願っております。まだまだ分からない事が多いので、皆様に直接お会いし、いろいろ教えて頂きたいと存じます。末筆ながら宜しくお願い申しあげます。             訪問介護事業所 管理者 佐々木 伸孝ウロボロス


(2013/10/31)

「表札」 石垣りん

 


ホームページ開設のお知らせ (2013/10/25)

01紙ふうせんのホームページを開設いたしました。

 

今後こちらでは介護に役立つ情報などを更新してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。


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