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紙ふうせんだより 5月号 (2022/06/17)

あなたも家族も助ける為に

本来はすがすがしい晴天の続く5月ですが、今年は梅雨の走りのようなじめじめとした日が多かったですね。「走り梅雨」とも呼ぶそうです。雨の日の自転車走行にはご注意下さい。

交通事故というものは自宅近くで起こることが多いと言われています。「安心感」が気の緩みとなって事故に繋がるのです。もちろん皆様は十分に注意されていることと思います。うるさいようですが、くれぐれもご注意下さいませ。

「決めつけ」が人を苦しめる

「うるさい」という言葉、漢字ではなぜか「五月蠅い」と書きます。何でも旧暦の5月、つまり梅雨ごろに蠅(はえ)が群れて発生し、その羽音がうるさいことから「五月蠅」との漢字をあてるようになったとのことです。「うるさく言われているうちが花」とはよく言いますね。これは注意する側の視点から「うるさい」ことを肯定的に捉えています。期待や関心が無かったらうるさく言わない、という意味です。うるさく言えるのは、そこに言えるだけの肯定的な結びつきがあることを前提としているがゆえに、相手に対して否定的なことが言えるのです。

でも、そのうるさい内容が「決めつけ」であったら言われる側はたまりません。注意をした側も、労多くして関係を壊してしまったら何の為に今まで言ってきたのか、ということになってしまいます。皆さんも自分の昔のことを振返ってみましょう。「親は私のことを何でも決めつける!」と思っていませんでしたか。しかし子供の側にも「親なのに何で私の事を解ってくれないの!」という期待の裏返しの否定的な決めつけがあります。親の立場からは、「自分自身の気持ちや考えがあるなら、はっきり言ってくれれば良いのに」という言い分があります。しかし子供は、思わずついた溜息に「ウチの子は全く…」(手がかかる、愚図なんだから)といった否定的なメッセージ(二重拘束(ダブルバインド))を読み取っているのです。

「決めつけ」の悪循環を変える為には

お互いに相手を“悪者”として決めつけをしていたら、「鶏が先か、卵が先か」と同じで相互作用によって噛み合わない関係をさらに強化してしまう悪循環となります。自分の見解が「決めつけ」と受け取られてしまうのは、自分にとっては当たり前すぎる思考の「枠組み」があって、当たり前すぎるから気が付かずにその「枠組み」の中に相手を押し込もうとしてしまっているからです。だから、自分の中にそのような固定的な思考の枠組みが無いかを点検し、物事の見方を変えてみる必要があります。これをリフレーミング(再枠付け)と言います。

「○○すべき」「○○しなければならない」という思考パターンが強い方は要注意です。何も親子関係に限った話ではなく、介護関係でも同様です。先の段落の「子」を「利用者」に、「親」を「ケアマネ」や「利用者家族」と読み替えても意味が通じますよね。訪問介護でよく耳にする利用者さんの不満の第一位は、上から目線を含めて「決めつけられて嫌だ」というものです(※1)。「決めつけ」が人を苦しめているのです。

 

※1 こんなことを書くと利用者の不満第一位は「ヘルパーさんがやってくれないこと」だとケアマネさんから叱られそうですが、それぞれの立場としてそれは当然であるし、生活に不具合を抱えて潜在的に不満のある利用者さんにとってはヘルパーさんへの期待値が高く、その反動としての「期待の裏返し」としても説明ができる。しかし、ヘルパーも自戒が必要である。
 

“治らなかった終わり”という観念を生じさせる「治療モデル」

決めつけた態度は、経験に対する自負があるベテランほどとってしまいがちですが、古い介護観の根底ある「治療モデル」が構造的な悪影響を及ぼしています。

治療モデルでは、要介護という現象を病気やケガや健康状態により生じた個人の身心の医学的な問題として捉えるため、治療やリハビリによって回復を目指すことが優先されます。そのため、利用者は医師などの専門家の指示に従わねばならず、ケアマネージャーなどはその専門性から利用者を“指導”することが務めであると考えます。利用者や利用者家族の生活上の困難さは、結局は利用者(の病気等)が原因であるとして、構造的に利用者を責めてしまいます。

“指示の入らない”利用者がいた場合、そこに見られる“反発”を加齢に伴う性格変化や理解力の低下、精神状態の不安定さなどとして捉え、それを病気か病気に近い状態と判断し、その状態や病勢は不可逆的に進行すると予測します。そして、根本的に解決するためには原因を排除するしか無く、健常者と病人・障害者の生活を分離して利用者には遅かれ早かれそれ相応の施設に入って頂くしかない、と考えます。これは、生きる意欲を奪う介護観です。そんな介護観に利用者さんが反発しても“認知が入ってるから…”として“専門家”は、そこに在る心の声をスルーしてしまい、利用者さんと家族を精神的に追い込んでいくのです。

一方の「生活モデル」では、「生活の困難(障害)」の原因は、障害や病気ではなく「生活環境や支援体制の不備」の問題であると捉えます。専門家の役割はそれらを整備することであり、生活の主役は利用者であることを共に確認します。利用者さんに反発があるならば、利用者さんに疎外感を与えてしまった関係性や専門家の説明不足などとして捉えます。支援は、相談や提案という形で利用者の気持ちに寄り添いながら利用者の身心の安定(=生活の安定)に努めます。生活モデルの人間観は、人間を健常者と病人・障害者として分別するのではなく、全ての人間は生老病死を抱えながら生きているのであるから、専門家も同じ痛みを持つ人間として共感し、生きる希望を利用者さんや家族と一緒に考えていくのです。

相手を責めない態度で、部分ではなく全体を視る

「治療モデル」は究極の原因からドミノ倒しのように問題が生じている(直線的因果律)と考えるため、必然的に“悪者”を作ってしまいます。一方、“悪者”を作らない考え方もあります。「家族療法(※2)」は、問題を“家族システムの不調”にあると考えるのです。

例えば、認知症利用者とその家族の不安は相互作用によって「利用者の不安→変な行動→家族の不安→利用者の不安→」と不安は連鎖(円環的因果律)していきますが、「変な行動」に意味やメッセージがあるのではないかと検討してみたりして、部分ではなく全体を、要素だけでなくその繋がりや関係性を重視し、関係性の調整に努めるのです。家族療法では家族の成員全体を支援する視点を持ち、家族を集めた面談が大切であると考えています。

「『(※3)あなたを助けるために、あなたの家族と会いたい』と告げること、それ自体が効果的な介入になっていることは、家族療法の奇跡とも言われている。開放的でかつ相手を責めない態度で、家族の一員の痛みや障害を調べ、修正するために、できるかぎり家族を集めることは、驚くほど有益である」とは、家族療法の実践者の指摘です。サービス担当者会議や訪問介護の現場を、利用者さんとその家族の心を癒していく絶好の機会としていきましょう。

※2 ダブルバインド、直線的・円環的因果律、相互作用、リフレーミングは家族療法の用語。家族療法では、家族システムの中に支援者が加わることによって関係性の調整を促進します。

※3システム心理研究所HP「心理療法とシステム論」

 

紙面研修

医療モデルと生活モデル

治療モデルは、あるがままの「その人」と向き合わないで、その人を利用者・患者・病人・障害者といった枠組みに押し込んでしまいます。治療モデルは「障害」の原因を「個人」の心身機能に求めますから「個人モデル」とも言われます。

対して、生活モデルは、「障害」の原因を社会機能に求めます(個人に原因を求めないところは家族療法も同様)から、「社会モデル」とも言われます。どんな人でも地域で普通に暮らせることが、本来の「普通」と呼ぶべき社会の在り方であるという「ノーマライゼーション」の考え方が根底にあります。

ノーマライゼーションは1950年代に提唱されるようになりましたが、それ以前の考え方は「障害者」を社会の中にある異物(障害)と捉えて社会から排除し施設に収容するものでした。しかしこれは人道的に誤った考えです。「障害」は社会の側にあるのです。社会にある障害を取り除いていくことをバリアフリーと言います。バリアとなっているものは交通障壁のみならず、偏見や差別、営利企業の態度や脆弱な社会保障制度なども含まれます。

 



 

 



 
【考えてみよう】

医療の視点に偏り過ぎて生活や人生の視点に欠けている支援や、特定の個人に原因を負わせ過ぎている支援や、“専門家”が上から目線となっているような支援はないだろうか。
 

 

 

 


紙ふうせんだより 4月号 (2022/05/19)

悲しみを繰り返さないために

雨の後の桜並木の下はまるで雪が白く積もったようでした。花弁を散らした桜の木は萼片(がくへん)や花柄(かへい)の赤色が際立ち、やがて新芽の緑色に入れ替わっていきます。桜の木は駆け足で表情を変え、空の色は夏の気配です。皆様いつもありがとうございます。これからの季節は水分補給をお願いします。東京でこれですから、沖縄などはもう夏になっているのでしょうか。

悲しみのリフレイン

東欧諸国がドミノ倒しのように民主化していったのは、昭和から平成に変わった1989年です。同年11月2日、ついに「ベルリンの壁」が民衆の手によって壊され、東西冷戦の事実上の終結を世界に印象付けました。翌月には「ヤルタからマルタへ」との見出しが新聞に躍りました。クリミア半島のヤルタで米英ソの首脳が行った会談(1945年2月)による戦後体制の取り決め、いわゆる「ヤルタ体制」が終わりを告げ、ソ連のゴルバチョフと米国のジョージ・ブッシュの両大統領が地中海のマルタ島で会談を行い東西冷戦の終結を宣言したのです。これで世界は平和になる――誰もがそう感じていました。しかし、幸せな空気は束の間でした。1990年8月、石油をめぐる対立から突如、戦車350両、兵員10万のイラク軍機甲師団が国境を越えて隣国のクウェートへの侵攻を開始したのです。

歌手の森山良子さんはこの湾岸戦争を受けて、20年間封印してきた「さとうきび畑」を再び歌う決心をしたと明かしています。広いさとうきび畑を風が通り抜ける「ざわわ」という擬音語が66回もリフレインするこの曲に込められている思いは、「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦への悲しみです。しかし、「戦争を知らない自分はその千分の一もうかがい知ることはできません」「とても私の手に負える歌ではない」と、森山さんは1969年のレコーディング以来この曲から遠ざかってしまっていました。1969年は、泥沼化したベトナム戦争の終結を模索するニクソン大統領が、日米会談で沖縄返還(※1)を約束した年でもあります。

 

※1明仁皇太子は返還後の沖縄を初訪問(1975)し『払われた多くの尊い犠牲は一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこの地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません』と述べ『人知らぬ魂 戦ねらぬ世 肝に願て』(人知れず亡くなった魂に戦争のない世を心から願って)と琉歌を捧げられた。以来沖縄訪問は11回を数える

民間人を巻き込んだ大規模地上戦

沖縄戦は、1945年3月26日の慶良間諸島への米軍上陸と本島への空襲や猛烈な艦砲射撃に始まり、米軍の4月1日の沖縄本島上陸により民間人を巻き込んだ大規模な地上戦が3ヶ月間続きました。死者数は双方合わせて20万人を超え、使用された砲弾は20万トン以上、今でも2千トン近くの不発弾が地中や海に眠っていると言われています。

「鉄の暴風と形容された沖縄戦は、敵の砲弾にあたって死んだ人、猛烈な機銃掃射のなか、日本軍によって壕から追い出されて亡くなった人、いわゆる集団自決を強要された人たち、毒薬を注射されて死んでいった子どもたち、日本軍によってスパイ視され殺された人、自らの手で家族を死に追いやった人、異郷の地で命を落とした人、そしてマラリアや飢えで死んだ人等、沖縄戦はまさに地獄絵さながらでありました。戦前の沖縄県の人口は約49万人で、戦没者が約12万人。4人に1人が亡くなったことになります。(沖縄市HP)」


戦争を知らない世代が学ぶべきこと


沖縄戦は、私たちが今介護をしているような世代の方々が実際の戦闘に参加しています。時間稼ぎのために沖縄を「本土防衛の捨て石」とする方針が取られ、軍部は中等学校以上の生徒の多数を戦場へと動員しました。13歳以上の320名の女子生徒によって結成されたひめゆり学徒隊は、傷病兵の看護にあたりながら軍と共に行動し攻撃や自決に巻き込まれて172名が戦死しています。学校ぐるみで編成が行われた14歳から16歳の男子生徒による鉄血勤皇隊は、陣地構築や伝令や特攻の任務を与えられました。特攻は爆薬を詰めた木箱を背負ってキャタピラの切断を狙って戦車に轢かれるもので、1780人中890人が戦死しています。

陸軍中野学校の工作員は沖縄戦を前に沖縄に教員として赴任し、生徒による後方攪乱の為の秘密部隊(護郷(ごきょう)隊)を組織しました。集合に遅れた為に見せしめに銃殺された生徒もいたといい、少年達は組織的戦闘の終了した6月22日以降もゲリラ戦を続け、約千名の隊員のうち160名以上が戦死したことが判っています。また、沖縄には1万人以上の朝鮮人が陣地構築などの土木作業の為に連れてこられており、多くの方が亡くなっています。

何のためにこんな重い歴史の話をするのか、と思う方もおられるでしょう。戦争は決して美談ではなく多くの悲惨が伴うことを知らなければなりません。今太閤(いまたいこう)やコンピューター付きブルドーザーと呼ばれた戦後最大級の政治家田中角栄(元上等兵)は「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。だが戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」と、日本について危惧していました。

 

終わらない戦争をいつか終わらせるために

2012年に戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)についての初めての大規模調査がありました。沖縄県内のデイサービス利用者から無作為に選んだ359人(平均年齢82歳)に面接し、そのうち約4割にあたる141人に沖縄戦によるPTSDが見られるという結果が示されたのです。症状の特徴の一つは「過覚醒型不眠」で夜中に断続的に目が覚めるものの抑うつ傾向は少なく、夜中に「わーっ」と叫んで飛び起きることなどもあり、ナチスによるホロコーストの生存者にも同様の症状が見られました。

調査した精神科の蟻塚(ありつか)医師によると『「沖縄戦(※2)の時、どこにいましたか?」と聞くと「米軍の爆撃によって目の前で肉親を殺された」「日本軍にガマから追い出された」「艦砲射撃の中で死体の山の中をひたすら逃げた」などという戦場体験が次々と語られ(略)同時に患者さんたちには、「運転していていまどこかわからなくなる」とか「戦場の場面がフラッシュバックしてくる」「日の丸を見ると体が戦慄する」「死体の匂いがする」など、トラウマ性の解離、パニック発作、身体化障害など一連のトラウマ反応(外傷性精神障害)が見られた』ということです。悲惨な戦争体験は、うつ病・統合失調症・てんかん・DV・アルコール依存・自殺・幼児虐待・離婚などのその後の発現にも根深く関わっており、個人の中では戦争は終わってはいないのです。

1972年5月15日、沖縄の施政権は米国から日本に戻されましたが、今でも在日米軍基地の74%が沖縄にあります。戦争による傷は簡単に癒えるものではありません。戦争の惨禍(さんか)を語り継ぎ、武力による威嚇を拒否し武力の行使を否定することで、戦争を二度と起こさせないように働きかけ続けることが、その痛みに報いることではないかと思うのです。

 

※2「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2015年8月号 蟻塚医師によると「本土防衛の捨て石」の遠因は日本による沖縄侵略(1879琉球処分)にあり、以降内地では琉球(沖縄)人は二等国民として「差別」されてきたことにあるという
 

 


紙ふうせんだより 3月号 (2022/04/22)

人生を語るも気づけば春の夢

「春眠暁を覚えず」とは、「春の夜はまことに眠り心地がいいので、朝が来たことにも気付かず、つい寝過ごしてしまう」という意味ですが、孟(もう)浩然(こうねん)の「春暁」(しゅんぎょう)の「春眠不覚暁   処処聞啼鳥」からきています。いいですね。うとうとと夢み心地のなかに、ウグイスなどの春の鳥の鳴き声が聴こえてきて「あぁ朝かな」と思いますが、気持ち良いからまだ寝てよう、という感じ。でも、今日も仕事です。皆様、いつもありがとうございます。

春の夜の夢

「春夢(しゅんむ)」という言葉もあります。「春の夜の夢」の心地よさを惜しんでいるのか、「人生のはかないさま」を譬(たと)える言葉です。「はかない」とは「人べん」に「夢」と書いて「儚(はかな)い」と書きます。睡眠中の「夢」は起きると忘れてしまうので頼りないように思われがちですが、実際には人生の羅針盤として頼りになることもあります。

ある利用者さんが「夢」の話をして下さいました。「人が集まって何かやってるなと思ったら、自分の葬式だった」と言われるのです。人垣の向こうに花の山がしつらえてあって、祭壇かな、とよくよく眺めたら遺影があって…「自分だ…」え、死んだのか? あぁ、やるべきことが色々あったのに遅きに失したか!と言うようなショックがあっただろうことは想像に難くありません。

夢は、一般的には春の暁の浅い眠りのような半覚醒状態で見ると言われています。いわば意識と無意識の中間領域なのですが、意識化されていない未整理状態の心理的課題は、無意識の領域に集積されていると考えられています。夢をありありと覚えていたのは、それが現在の意識の在り様に対して何らかの意味をもっていたからです。意識化されている世界観に何かが欠けていて、必要に迫られて無意識が夢という通路から意識へと働きかけてくるのです。

ユング(※1)が創始した分析心理学では、夢を分析するなどして無意識が意識へと働きかけてくる意味を理解することによって、新しい自己像を見出すことができると考えています。私は、利用者さんが「もうすぐ自分は死ぬんだ」という絶望感に囚われないようにと願い、ユング的な夢の解釈をお伝えしました。

「『死と再生』はセットになっています。神話や物語や芸術作品では、再生が表現されるその前段に必ず死が語られます。その構図と同じように、夢の中の死のイメージはある段階や状況の終了を意味し、再生としてその次のライフステージへと進まねばならないことを告げているのではないでしょうか。問題は次の段階にどのように入っていくかです。人生の最終ステージは今まで得てきた社会的地位などが役に立たなくなる段階でもあり、その段階に無自覚に踏み込んでしまったら、『人生で得てきたものは無意味だった』と大きな喪失感を生じさせてしまいます。しかし自覚的に入って行くならば深い人生回顧となり、今まで気が付かなかった人生の側面に気づかされ、新しい自分の発見になると思うのです。」

 

※1ジークムント・フロイトは「夢は抑圧された願望の偽装した充足である」としたが、カール・グスタフ・ユングはフロイトが性愛理論に偏りすぎていると主張し、夢は無意識や集合的無意識からの意識に向けてのメッセージであるとした。
「生かされ生きている」 命の本質に気が付く

多くの人が勘違いをしています。人生の成熟した期間が長く続いたばかりに、自分のことは自分で全てまかなえていると勘違いして、まかなえていることが「自立」であり、それが自分であると誤解してしまっているのです。しかし私たちは、誰一人として一人では命を継ぐことさえままならない存在です。

食べているお米は誰が栽培したものでしょう。誰が運んだものでしょう。土と水と太陽に育まれなければ稲は枯れてしまいます。着ている服は誰が作ったのでしょう。どこかの国の労働者がミシンをかけています。生地が化繊なら何億年も前の生物が石油となって、木綿なら綿花の、絹ならお蚕様の働きがあります。大地が無ければ人は立っていられません。自分がなぜ立っていられるのか、その支えについて知ることが本当の「自立」ではないでしょうか。

人間は、一人では生まれてくることも死んでいくこともままならない存在です。人生の最終ステージの課題は、「生かされ生きている」自分を身をもって体験することによって、「生かされ生きている」命の本質に気が付くことではないでしょうか。そう考えると、人の世話になることにも深い意味があるのです。周囲に迷惑をかけるから「死んだほうがまし」と言われる方は多くおられます。それは、これからを「新しい視点を持って生き直してみたい」という再生への渇望の表れでもあるのです。

自己統合の過程に必要なこと

死について語ると「縁起が悪い」と反応する人がいます。これは「縁起」という言葉の誤用です。「縁起」とは元来、漢訳された仏教用語で、すべてのものは「縁によって起こる」ものであるから、「ものごとの関係性(縁起)について知ることが、より深い人生理解になる」というような意味なのです。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものなのですから、自身の存在を「独立自存」のように見なしてしまうことは、自己への執着となり他からの支えを見えなくさせて、孤立感の原因ともなるのです。

生命とは、それそのものが自律的に機能し、代謝をしながら恒常性を維持し自己増殖をしていくものですが、その自立した存在は外部環境との縁という“他立”によって支えられているのです。生の根幹に関わる回答は、時に逆説的な構造(※2)で示されることがあります。「自立とは他立を自覚することによって成り立つ」とか「生まれ変わるためには(象徴的な)死を体験しなければならない」などです。

※2 沖永宜司は、禅問答の構造は「問いかけに答えるのではなく、この問いを問いたらしめているものの方へと気づいて行くこと」という面があることを指摘している(禅言語の逆説構造)。

私たちは介護の支援過程で利用者さんが事故を起こしたり急に症状が悪化するような場面に多く遭遇します。それを不安に感じる人は「もう在宅は無理ではないか」と性急な判断をしてしまいがちですが、本当にそうでしょうか。そのような課題は新しい自己像を得るために必要なこととして起きている「自己統合への過程である」と捉え直してみることも大切です。多様な視点を持っていれば、利用者さんの自己実現を介護によって阻害してしまい、かえって状態を悪化させてしまうような悲劇も避けられるはずです。

死の夢を見たその利用者さんは、後に新しい夢を見ることができました。「歯医者に行って歯の手術をされて、もうやめてくれというような状況だったけど、何とか無事に終わることができた」と言うのです。歯は生存に欠かせないもので生命力の象徴と言われています。また、歯が抜けて治ることは、乳歯が永久歯に生え変わるように「再生」を意味します。利用者さんが得ることができた新しい人生を、心豊かに過ごされるように願っています。

 

紙面研修

「ハラスメント」とは

「ハラスメント」という言葉は、一般的には「嫌がらせ」と言う意味で用いられています。「嫌がらせ」とは、他者(特定、不特定多数を問わず)に対して、不愉快な気持ちにさせることや、実質的な損害を与えるなど、不快感を与える行為の総称です。

「嫌がらせ」は英語にはHarassment(ハラスメント)と訳され、英語の意味は「苦しめること」「悩ませること」「迷惑」等となりますが、日本語と異なるニュアンスがあります。日本語の「嫌がらせ」という言葉には、行為者の「悪意」が感じられますが、「ハラスメント」の場合は行為者の悪意は問いません。悪意が無くても相手が嫌がる事は「ハラスメント」です。

「ハラスメント」は人権侵害

【人事用語労務辞典】

ハラスメントは、広義には「人権侵害」を意味し、性別や年齢、職業、宗教、社会的出自、人種、民族、国籍、身体的特徴、セクシュアリティなどの属性、あるいは広く人格に関する言動などによって、相手に不快感や不利益を与え、その尊厳を傷つけることを言います。

近年、職場における「ハラスメント」が急増し、人事管理上、深刻な問題となっています。

「ハラスメント」の無自覚性

近年、「モラルハラスメント(モラハラ)」や「マタニティハラスメント(マタハラ)」「スモークハラスメント」などハラスメントに関する言葉が増えてきました。「モラハラ夫」などという言葉も登場し、夫の無自覚な妻への依存や攻撃なども離婚の原因となっているようです。「ハラスメント」の行為者は、その言動に無自覚なことが多いために、各自が自己点検をしていく必要があります。

 
私たち皆が、ハラスメントの「加害者」にも「被害者」にも成り得る

【パワーハラスメント】

力関係の差(立場など)のあるところで必要以上の叱責や無理な要求など

    考えられる例)上司→部下(経営者→従業員、管理者→従業員)

           ケアマネージャー→訪問介護のスタッフ

           ケアマネージャー→サービス事業所

           サービス提供責任者→訪問介護員

【介護ハラスメント】

利用者や利用者家族からの必要以上の叱責や無理な要求など

考えられる例)利用者等→ケアマネージャー

利用者等→訪問介護のスタッフ

【介護虐待】

利用者さんにパワハラを行ったら心理的虐待、セクハラを行ったら性的虐待となります。

考えられる例)ケアマネージャー→利用者等

訪問介護のスタッフ→利用者

【セクシャルハラスメント】

性的な言動等で人を不快にさせたり環境を悪くするなど

    例)性的な部分を強調したポスターの掲示

    ※男性から女性へと行われることが多いが、稀に女性から男性もある

【その他のハラスメント】

  例えば、お笑い芸人がよくやる「いじり」という行為も、相手が返答に窮するようなやり方や不快に感じている場合は、ハラスメントとなります。

考えられる例)同僚→同僚(部下→上司 もあり得る)

 
現在、紙ふうせんではハラスメントや虐待対応を盛り込んだ「就業規則」への改定作業を行っています


紙ふうせんだより 2月号 (2022/03/18)

新しい季節に、新しい自分を

皆様、いつもありがとうございます。雪の日の訪問はお疲れ様でした。陽射しの熱量は日ごとに増していくようです。再び始まる季節の一めぐりは、年輪のように私を包み、私をも新しくするでしょうか。新しい季節に再び初々しい気持ちで歩み始めたいと思います。

今を生きることの大切さ

自分の心を生き生きとさせるにはどうしたら良いでしょう。目や耳に入る物事が人生の初体験(※1)であるような新鮮さをもって感じられるなら、毎日は感動の連続です。

ある利用者さんは末期の癌と診断され、家族は穏やかな看取りを求めて在宅生活を選択されました。80歳を過ぎても自分で車を運転し経営する小さな町工場まで通っておられたとの事でしたが、癌はおそらくは全身に転移、認知症状もその影響と思われました。身体的に負担にならないように入浴は行わず清拭の支援。やがて歩行が困難になり排泄の支援が毎朝夕となり、奥様の負担軽減のために食事介助も始まりました。食事のお供のポカリスエットを飲みながら、毎日こう言われるのです。「あぁ美味しい。これは何て言うんだい。そうかい、初めて飲んだよ、美味しいね。」そして飲み終えてお替わりをするのです。

穏やかな日々が続きました。「もうすぐ桜が咲きますね」と問いかけると、「農大脇の河津桜は咲いていましたよ」と奥様。奥様は思い出されたように、「そういえば介護が始まったのは去年の今頃でしたね…余命3ヶ月と宣告されたのにもう一年になるのね…」と言われました。この方は、毎日のケアが終わるたびに、初めてケアを迎え入れたときのような笑顔でお礼を言って下さっていました。後光に包まれている様なその佇まいは、本当に体全体が微かな光を発しているように見えました。そうして染井吉野の開花を待ちわびる頃、霙の降りしきる日に旅立っていかれました。認知症の方は「今を生きている」と言われることがありますが、日々感動して生きているようなあのご様子は忘れられません。

「今」の拡がりが、心の自由度を決める?

1959年の米国北部が舞台の映画『今を生きる(※2)』には、青春という人間形成の季節に、常識や規則や将来の不安に縛られて「自分を小さくしてはいけない」というメッセージがあります。厳格な全寮制男子進学校に赴任してきたキーティング先生は、「バラの蕾は早く摘め、時は過行く。今日咲き誇る花も明日は枯れる(※3)」「今を生きろ(カーペ・ディエム )(※4)」と生徒に訴えます。先生に触発された生徒が結成した秘密クラブ「死せる詩人の会」は、「死ぬ時に悔いの無いよう生きるため」というソロー(※5)の一節が開会宣言として読まれます。生きることの核心は過去でも未来でもなく「今」にあります。過去の悔いも未来への不安も感じるのも「今」であり、未来への扉を開くのもまた「今」なのです。またある時、先生は突然机の上に立ち「なぜここに立った?」と問いかけます。「物事を常に異なる側面から見つめるためだよ」と、生徒全員に机の上に登らせます。そして「君ら自身の声を見つけなくては」と促すのです。




※1ドラえもんの秘密道具にはなんでも初めてのような感動をうける「ハジメテン」という薬がある

※2ロビン・ウイリアムズ主演1989年米国

※3 17世紀英国王党派詩人ロバート・へリック

※4ラテン語で「その日を摘め」紀元前1世紀のローマの詩人ホラティウスより

※5ヘンリー・D・ソロー(1817‐1862)「ウォールデン 森の生活」第2章より




過去を尋ねることによって、新しい自分を知る

地面の蟻、道端の草、雲の形…。子供の頃を思い出すと、「今」という時を精一杯感じていたことが思い出されます。「今」何かを感じ、新鮮な光彩を放つ世界を感じ、それに合わせてプリズムのように多彩に変化する自分の心を感じ、その心を持つ主体としての自分自身を感じ、今生きていることや今生かされていることを身体で感じて、それらを確かなものとして「今」を生きていました。しかし大人になると、計画や行動や検証や改善に追われて「今」を感じる余裕がありません。後悔や不安に囚われて「今」が極端に窮屈になり、何も見えなくなってしまうことさえあります。どうしたら変えられるでしょう。

過去の積み重ねの上に現在という時間意識があります。不安の強い人は現在の上に更に重しのように未来への不安が乗っています。過去への理解がより肯定的なものに変わったならば、「今」を基礎づける足場は今までよりも安定したものになります。一つの方法としては、(マインドフルネス瞑想(※6)などで)「今」に意識を集中し穏やかな心理状態になって、そこから過去から現在までの自分を俯瞰するように見つめ直してみることです。見方が変れば、今まで気が付かなかった新しい発見があります。孔子は、「過去から新しい気づきを得ることの大切さ」を説いています。「故(ふる)きを温(たず)ねて新(あたら)しきを知(し)る」(温故知新)です。

「温故知新(おんこちしん)」の含意は一般的には、「昔のことを学び、そこから新しい知識や道理を見つけ出すことの大切さ」や「先人の知恵からよく学ぶ者こそがリーダとなれる」などとされています。「歴史に学ぶことで現代への認識が深まる」とも言えます。「新しき知る」とは「最新情報を知る」という皮相的な意味ではありません。「新しさ」を決定づける要因は過去にあります。「新しさ」とは、物事の背景に膨大な過去がある事を覚知して、対比させて浮かび上がる「現在の何か」です。新たな何かが見出される時、「変わった」となるのです。

過去も未来も「今」という手の中

業界人だったある利用者さんは、現役時代、活発に多方面に食い込んで人間関係を仕事に活かし、見事な成果を築いてきました。喫茶店で始まる一日4回の食事のうち、夜の2回は打ち合わせや交渉です。妻にも来客の歓待を命じ、気が利かない時に手を挙げたこともありました。世間知らずの妻に自分の足を引っ張られたように感じたからです。奥様は「夫婦だったけど別々の人生を生きてきたようだった」とその頃を述懐されています。

いつか華やかな時代は遠くなり、体にはガタが出てきました。もどかしさから社会的孤立感を感じるようになっていました。しかし変わらない妻の献身的な支えがありました。過去の自分の活躍も妻の裏付けがあってこそ成り立っていたと気が付いた時、かつては深く考慮をしてこなかったあの頃の妻の気持ちも思い起こされて、それがお詫びと感謝の言葉として伝えられた時、お互いに、決して別々の人生では無かったと感じられてくるのです。今、支えあう生活は、苦労を分かち合い必死に生きてきたお互いを確かめ合う意味のあるものとなっています。

「過去は変えられない」と言う人がいますが、過去への認識は変えることができます。過去を丁寧に振り返り、そこに肯定的な新しい意味を見つけ出せれば、鉛色の「今」も色彩豊かな「今」へと変わっていきます。積み上げられた過去への認識の上に「今」の自己認識があるのですから、「今」それを変えられたなら、自分も未来予測も変わっていくのです。




※6 仏教的瞑想に由来する。呼吸を整えて「今この瞬間の体験に意図的に意識を向け、捕らわれのない状態で、ただ観ること」を実践し平らで穏やかで偏りのない状態へと心を整える。「判断を加えないこと」や「現在の瞬間を中心に置く」ことによって、心理療法の「脱中心化」が行われ自分の体験から距離が取れるようになる。紙ふうせん便り平成29年5月号参照。




 

紙面研修

生き生きと生きるために必要なこと

「最も大切なものは何か」と自問し、囚われに気が付くこと

疲れている時などは嫌なことを余計に嫌だと感じるように、人は感情に引きずられた判断をします。感情には自分に降りかかる嫌な要素を増幅させる働きがあるのですが、それは、危険を察知して積極的に逃避するために必要な動物的な本能とも言えます。しかし一方で、人類は分業制を発達させて文明を築いてきたのですから、「楽しくない仕事を引き受ける人」を必要としてきました。現代では多くの人が、自らの生活や人生と直接的に関わりの無いような、“一体何の意味があるの”と思う事もやらざるを得なくなっています。実際問題、嫌なことが多々ある現代社会の中で「嫌だ嫌だ」と言っていたら、感情はすり減ってしまいます。どうしたら良いでしょう。「人間の暮らしや人生や命にとって本当に大切なものは何か」と問いを立て、ウォールデン湖畔の森に自ら丸太小屋を建てて自給自足生活を営んだソローは、『森の生活』(「死せる詩人の会」引用部分)で以下のように述べています。




「私が森に行って暮らそうと心に決めたのは、暮らしを作るもとの事実と真正面から向き合いたいと心から望んだからでした。生きるのに大切な事実だけに目を向け、死ぬ時に、実は本当には生きていなかったと知ることのないように、暮らしが私にもたらすものからしっかり学び取りたかったのです。私は、暮らしとはいえない暮らしを生きたいとは思いません。私は、今を生きたいのです。私はあきらめたくはありません。私は深く生き、暮らしの真髄を吸いつくしたいと熱望しました。(今泉吉晴訳・小学館)」




介護の仕事は生きる事と向き合い、命の営みがもたらすものから何かを学び取る仕事です。しかし現代の日本では3Kとして嫌われがちな介護職ですから、人生や命を軽視するような価値観の転倒が社会構造に組み込まれてしまっているとも言えます。その転倒に気が付かなければ個人の考えもまた影響を受け、何かに縛られているように感じながら生きることになります。ソローは、人は「自分についての自分の考えの奴隷になり、囚われ人になっています。」と指摘しています。




「つまり私が生き方を提案したいのは、主に、要は不満がある人、運の悪さや時代のひどさをなんとかしたいと思いながら、不平を言っているだけの人です。また、やるべきことはやっていると思っているために、何ごとにも批判的で、投げやりな人がいます。あるいはまた、お金をため込んでいても、どう使ったらよいか、どんなふうに散財したらいいかわからず、とうとう自分のために金銀の足かせを鋳造する人がいます。私はこのような人にも、生き方を提案したのです。(前掲書)」




感情の囚われから自己を解放すること

皆が森の中で生活できるわけではありませんから、「嫌だ」と感じる自分の感情とは、折り合いをつけなければなりません。「どのような自分が“嫌だ”と感じるのか」と、自分を俯瞰してみることも必要です。そして、余計に嫌だと感じる感情の囚われから自己を解放することが大切です。

ソローはエマソンから古代インド聖典を借りて読んでおり、瞑想にも親しんでいたといいます。瞑想の技法は認知症ケアのバリデーションでも取り入れられています。利用者さんと対面する前に瞑想を行い介護者が穏やかで偏りのない精神状態になることによって、苦手意識や嫌だなといった感情(利用者さんは生存本能からネガティブな感情を敏感に察知します)から離れ、利用者さんとの関係を良好なものとし、さらには利用者さんへの肯定的な気付きを促すのです。

マインドフルネス瞑想は、まず、思考や判断を停止し「今」に意識を集中させます。「今」の身体感覚で心を満たします。そして、感情の囚われが自然と離れていくことをゆっくりと待ちます。瞑想から生じる気分転換や集中力の高まりなどの効果を実生活に活かしていきましょう。

 
【やってみよう】マインドフルネスの簡単なやり方 (1回10分程度を継続すると良い)

・身体の力を抜きリラックスした状態(座位・散歩・仰向け等)を維持します。

・自然な腹式呼吸を行いながら、身体の感覚に“耳を澄ませ”ます。
 


紙ふうせんだより 1月号 (2022/02/17)

人間はつらいよ

明けましておめでとうございます。ヘルパーの皆様、いつもありがとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

寅年なので寅さんの話をします。映画「男はつらいよ」の第1作目の公開は1969年、興行成績も微妙な状況で当初は2作品で終了予定だったそうですが、シリーズ映画を欲していた松竹の方針で続編が決定、徐々に人気が出て第8作以降は大ヒットを記録、ついには世界最長の映画シリーズ(作品数)としてギネスにも認定されました。

生きづらさを抱えている寅さん

直情傾向で思い込みが強く粗暴でデリカシーが無いなど人のダメなところを煮詰めたような寅さんは、一方で人懐っこく人情に厚く面倒見が良く純粋一途な愛すべき面を持っています。そんな性格だからこそマドンナなどに要らぬおせっかいを焼いては騒ぎとなります。寅さんに親しみが湧くのは、そのようなダメさを多くの人が内に秘めているからでしょう。カッコつけようとしてはいますが、寅さんはダメな自分を隠すことができません。

中学2年の時には「やっぱりお前は芸者の息子か、どうせ家じゃろくな教育をしてないんだろ」と言い放った校長を殴って退学になっています。誰もが折り目正しく生きられるわけではなく、寅さん自身も差別的な言葉を多用し人を小馬鹿にするようなところがありますが、ここに物語の基本構造が見えてきます。「バカだねー、ホントにバカだ」とか「死んでいた方がマシ」などと罵られる寅さんは、人の世の差別(※1)を一身に背負うような身であるけれど、めげずに生きているのです。

気が付いている人もいると思いますが、寅さんは発達障害を持っていると思われます。「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2016年10月号には、「学習障害(LD)、注意欠陥多動性障害(ADHD)、自閉症スペクトラムなど発達障害的傾向を有する人物は、映画の主人公としても光を放っています。その頂点に立つ人物といえば、渥美清演じる「男はつらいよ」シリーズの「寅さん」こと車寅次郎です」との記事がありました。




「映画で感じる発達障害・愛着障害の豊かな可能性」ノーマライゼーション 障害者の福祉(2016年10月号)

(略)寅さんは、自身のバカの根源は出自にあると思っています。父親がへべれけに酔ったときに芸者に孕(はら)ませた子どもであり、優秀な妹さくらとは異母兄妹です。しかも生母とは別れたままであり、愛着上の問題も抱えています。実父からはたびたび折檻(せっかん)されています。折檻の原因は盗みや不良仲間との喫煙です。実父が寅さんを叱る時、「お前はへべれけの時つくった子どもだから、生まれついての馬鹿だ」と言っています。寅さんは身体的にも心理的にも虐待を受けています。

(略)寅さんには、すぐ手が出てしまう衝動性があり、取っ組み合いのケンカが定番になっています。衝動性のほか、初期作品群では多動、不注意も顕著です。加えて、睡眠、覚醒にも問題があります。開巻一番の夢のシーンは昼寝によるものですし、だれよりも早い就寝、だれよりも遅い陽が高くなってからの起床となります。多眠傾向が顕著です。

毎度お馴染みの寅さんの葉書も、当初は倍賞千恵子が左手で書いていたとのこと。さすがにその後は美術スタッフが書いたようですが、学習障害の一つである書字障害が疑われます。ただし、井上ひさしは、寅さんを「言葉の達人」と評しています。中学校も卒業せずにヤクザ稼業となりますが、その正体は、ADHDと学習障害をベースとする「学習困難=学校不適応」だったといえます。寅さんは発達障害の傍証に事欠かない人物ですが、前述したように愛着上の問題も抱えています。




※1元来は仏教用語で「しゃべつ」と読む。仏教では万物の真の姿は一如(一つの如し)であるが、個別的には条件に応じて差異を現ずると考えるので、差異は当たり前だが本質は平等と考える。一方で現在の差別問題は、差異を理由に不平等の扱いや侮蔑をしており、現象と本質の理解が転倒している。問題は差異にあるのではなくそれに拘る心の狭さ(執着)にある。
 

僕たち人間は、ちょっとしたことで人を差別する

差別とは「合理的な理由なく分け隔てした扱いを受けることを意味します。表現としては、ある個人や集団に対して、偏見、誹傍、侮辱など、著しく傷つける表現や現に存在する差別を、温存・助長することに結びつく表現などがあります」と、人権啓発用語辞典にあります。

社会制度としての差別は、社会の仕組みが特定の属性や集団に不利益(または利益)となるように構造化されていることですが、そのような差別制度が無かったとしても、人の心の中には残念ながら差別意識があり、それは忌み嫌う言葉(ヘイトスピーチ)として表出されます。ヘイトスピーチ(憎悪表現、差別表現)は、「自分から主体的に変えることが困難な事柄(※2)に基づいて、属する個人または集団に対して攻撃、脅迫、侮辱する発言や言動のことである」とされています。

先の校長の寅さんへの放言は、自分ではどうすることもできない事柄で寅さんを非難しているので明確な差別です。今の時代にはこんな先生はまずいないでしょう。差別は悪いということが明確に社会的合意事項となり、どのような思考や表現が差別になるかということが広く論じられるようになってきたからです。現代の観点から見れば、男らしさの呪いに縛られているような寅さんというキャラクターや、ジェンダーバイアス(※3)そのままのタイトルは、社会が内包する性差別を描いているとも言えます。

そう、生まれながらのバカとして描かれている寅さんは、差別される立ち位置にありながら、自分のバカさ加減と社会構造ゆえに自身も誰かを差別してしまっているのです。つまり人間はバカなのです。そのような業を持っている人間の辛さや醜さを解っていて山田洋二監督は、バカを愛おしく描いています。監督は「人間に差別意識があることの不条理さとでも言いますか、そこにいつも関心を持ち続けなくてはいけないと思っています。僕たち人間は、ちょっとしたことで人を差別することがたくさんあるんですね(※4)」と述べています。逆説的には、寅さんを見下して全く相手にしないような人こそが自らのバカさに気付かない大バカだと考えれば、劇中の主要人物は口は悪くてもまるごと寅さんを受け入れているのですから、寅さんの世界には、差異はあっても差異を理由に分け隔てする「差別」は無い、とも言えるのです。

※2一般的には、出自(人種・出身地・民族・伝統宗教・一族)・性別・容姿・健康・性的指向などが考えられる。

※3社会的・文化的な刷り込みに基づく性的偏見。

※4「ノーマライゼーション 障害者の福祉」2010年5月号

 

その言葉で傷つく誰かを想像すること

どんな言葉が人の心を傷つけるのでしょう。例えば「親の顔が見たい」という非難は、個人の過失を親や血縁に当て付けたもので、自分ではどうしよもない生まれを非難しており強烈な否定となります。舅や姑が女の子を生んだ嫁に対して「男の子じゃなくてガッカリした」というのも、嫁や孫の全否定となってしまっています。異性に嫌悪感を持ちながら「男(女)にはなりたくない!」というのも性別による全否定です。

では、「障害者にはなりたくはない」という言葉はどうでしょう。誰しも障害者になりたいと思ってなったわけではないのですから、その言葉を聞いて心がえぐられる人は必ずいます。「認知症にはなりたくない」「生活保護にはなりたくない」という言葉には、差別意識は潜んでいるでしょうか。そのように考えたり、思わず言葉が口をついて出てしまったことはありませんか。

「俺はな、学問つうもんがないから上手い事はいえねえけれども、博(ひろし)がいつか俺にこう言ってくれたぞ。自分が醜いと知った人間は決してもう、醜くねえって…(※5)」 これは寅さんのセリフです。自らの醜さを知るからこそ、人に優しくなれるということもあるのです。

 
※5 第42作(1989)「男はつらいよ ぼくの伯父さん」より。なお渥美清亡き後に制作された第50作(2019)は、この後日譚となっている。
 

 

情報共有

新型コロナ対策情報

「濃厚接触者」の定義

濃厚接触者とは、コロナ感染症発症者の発症日の2日前から療養終了日までの間に、近距離で接触あるいは長時間接触し感染を受けている可能性が高い方。無症状陽性者との接触の場合は検体採取日の2日前)

接触している者。

○陽性確定者と同居あるいは長時間の接触(車内、航空機内等を含む)があったもの

○適切な感染防護なしに陽性確定者を診察、看護もしくは介護していたもの

○陽性確定者の気道分泌液もしくは体液等の汚染物質に直接触れた可能性が高いもの

○手で触れることのできる距離(目安として1m)で、必要な感染予防策なしで、陽性確定者と15分以上の接触があったもの(周辺の環境や接触の状況等個々の状況から総合的に判断)

参照:知人や同僚が新型コロナウイルス感染症の患者となった場合は | 世田谷区ホームページ (setagaya.lg.jp)

(濃厚接触者の考え方について、整理をしました)

【個々の状況から総合的に判断】

この観点から考えれば、家庭内別居状態にあるような生活が分離されている状況ならば、同居だからといって一律に濃厚接触者に該当するとは思われない。

(寮で陽性者が発生したからといって寮生全員が濃厚接触に該当するとは限らないのと同じ。ただしデルタより強い感染力に留意するべし)

【適切な感染防護】

診察・看護・介護の度合いによりますが、体液に触れないような短時間の会話程度の接触であれば、「必要な感染予防策」と同じ考えで良いと思われます。

【必要な感染予防策】

⇒マスクの着用(できるだけ双方着用が望ましい)、適度な距離感(換気)、(当然ですが手指消毒)

※感染疑いの方と接触する場合はマスク2重など更なる工夫が必要です。(事務所に備蓄防護服あり)




※実際、昨年デルタ株のピーク時の保健所の判断では、既にマスクを着用しての訪問介護の接触程度では、濃厚接触にはならないとの判断になっていました。また、既に昨年より「積極的疫学調査は行わない」という方針が都より示されており、保健所からの積極的な濃厚接触者の追跡と検査は行わない事となっているようです。

そのような状況から、現在の市中感染は感染ルートがほぼ不明であるため、「濃厚接触者」は陽性者と接触者した者の自己申告となりつつあるようです。「濃厚接触者」の自覚がある方は、下のチエックシートで自己判断を行い自宅待機(要保健所連絡)をすることとなります。

(該当の疑いがある方は事業所へ相談してください。「自分は大丈夫」という正常性バイアスを留意して、事業所の意見を求めるなど冷静な判断が必要です。)




★濃厚接触者の自宅待機の健康観察期間は原則は最終接触日より10日(接触日を1日目にカウント)

★エッセンシャルシャルワーカー(介護職含む)については、6日目と7日目に抗原検査キットで陰性と出た場合に7日目より就業できるという判断に変更となっています。なお、10日目までは公共交通機関や不要不急の外出は避けて下さい。(逼迫時は“毎日の抗原検査で就業可”の厚労省案もあります)

 
【無料でPCR検査が受けられます】 都事業  

東京都で実施しているPCR等検査の無料化事業について | 世田谷区ホームページ (setagaya.lg.jp)                               

発熱などの症状のない都民の方で、感染している可能性に不安を抱える方等

※濃厚接触者は保健所対応なので不可

(区内近辺の会場)

ウエルシア薬局世田谷千歳台店・世田谷千歳台二丁目店・世田谷砧店⇒各店舗

代田区民センター・宮坂区民センター⇒(コールセンター)0120-758-167

東京都PCR等検査無料化事業に関するお問い合わせ先03-4405-4958


紙ふうせんだより 12月号 (2022/01/17)

小さな声が「小さな声」である理由

ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。今年もあとわずかです。皆様には大変お世話になりました。本当にありがとうございます。来年もどうぞよろしくお願いします。

悪貨は良貨を駆逐する

昭和33年12月1日は、一万円札が初めて発行された日です。当時の公務員上級の大学卒初任給は9,200円(※1)でしたが、高度経済成長によるインフレから高額紙幣の必要性が高まり、聖徳太子が紙幣となって登場しました。今年の11月1日には500円玉がバイカラー・クラッド硬貨に変わりましたが、紙幣のほうも2024年度には刷新されます。新紙幣も新硬貨もそれぞれ偽造防止のために新しい技術が使われています。

通貨の歴史をひもといていくと偽造との戦いと言えます。日本最初の通貨発行は和同開珎(708年)(※2)と言われており、それ以降「皇朝十二銭」と称されるように何度も新しい貨幣が発行されてきました。しかし、密鋳銭の横行や銅不足から貨幣の品質は低下し、貨幣サイズも小さくなっていったことから、貨幣の通用価値はどんどんと下落していきました。

和同開珎の発行当初は、銭1文は米2kgの価値でしたが、9世紀中ごろには交換できる米の量は10g~20gに減少していたといいます。質の悪い貨幣が流通すると通貨相場は混乱し、貨幣全体の価値も低下してしまうのです。これを「悪貨は良貨を駆逐(くちく)する(※3)」と言います。

 

※1同等職の初任給は30年後の1988年は141,000円(15.3倍)、2018年は211,500円(30年前比で1.5倍)。

※2わどうかいほう(「わどうかいちん」の説も。)最初の貨幣は「富本銭」とも言われているが、通貨としての流通は疑問視されている。

※3 16世紀イギリスの国王財政顧問トーマス・グレシャムの進言が由来。後に「グレシャムの法則」と言われる。

 
悪いものが蔓延すると、良いものは姿を消す

良い貨幣と悪い貨幣が等価値として流通すると、人々は良い貨幣を出し惜しみ、市場には悪い貨幣ばかりが流通します。そして、貨幣そのものの信用まで低下してしまいます。

このようなことは会社や組織の中でも起こり得ます。例えば、丁寧で質の高い仕事をする人と、雑で乱暴な仕事の人が同給与だった場合、質の高い仕事をしている人が馬鹿らしくなって、全体の仕事の水準が低下するということはある話です。また、とても良く気が利くような人が、「あの人がいろいろやると、他の人もやらなくてはいけなくなるから困る。やらないで欲しい」と、やっかみを受けるような雰囲気の職場もあるでしょう。

介護保険制度では、計画に基づいてサービスを実施しなければならないので、サービス精神が旺盛であることが単純に“良い”ということにはなりませんが、「やらないで」という方向づけがひとたび行われると、気が利く人の意欲はやせ細り介護職そのものが嫌になってしまいかねませんし、「言われたことだけやってればよい」という空気が蔓延します。「計画に載ってないから」などと言って必要なことも行われず、ケアプランは些末な文言に囚われた内容となることもしばしばで、描かれるべき生活上の夢や方向性も共有されなくなってしまい、後手に回った介護現場は、利用者の状態変化に即応できるような機動性や柔軟性が失われて、硬直化した味気ないものとなってしまいかねません。

そうならないようにしていく鍵は、ヘルパーさんとサービス提供責任者の連携にあり、ケアの目指すべき方向性への共通認識が大切です。

良いもの、善いことは手間がかかる

なぜ、悪いものの方が蔓延するのでしょう。

一つは手間の問題です。「お金を稼ぐには盗んだ方が楽だ」という思考があるから犯罪は無くならないのです。善いことをするには手間がかかり、しない方は手間がかかりません。例えば、職員による介護虐待疑惑に対して、事業所として調査・検討・改善のプロセスを踏み職員教育を実施して事業所の雰囲気を根底から改善していくのは大変骨の折れることです(※4)。介護保険制度の支援過程は、利用者さんのニーズを汲み取り家族への説明を行い関係各事業所と調整し、サービス担当者会議を開催して合意形成をし、内容を漏れなくケアプランに記載しますが、これも大変な手間です。必要に迫られて手間を省かなければならない場面も出てくるでしょう。

問題はその手間の省き方にあります。そこにある権力関係(力関係)に着目して考えてみましょう。

※4 だからといって、その手間を惜しんでスルーすることは「悪」です。当然ですが、問題が表面化すれば惜しんだ手間以上のペナルティが待っています。線路上に石を置くことは悪いことですが、それを見て石を取り除かなければ、列車は転覆してしまいます。善いことをしようとしないこともまた、悪となってしまうことがあるのです。

「小さな声」を聴き取るためには、明確な自覚が必要

虐待の根本的構図は介護職(強)>利用者(弱)です。虐待疑惑が報告されても放置されているなら管理者や経営者の責任です。「見て見ぬ振り」が“空気”であって問題が上層部に報告されていないなら、空気を醸成する上層部や空気を支配する職員と、そうでない職員との間に力関係の構造(経営者>管理者>強い職員>弱い職員>利用者)があります。

利用者さんが納得のいかない“お仕着せ”と感じる支援に悩んでいる場合はどうでしょう。これは合意形成が不十分なのですが、合意形成の力関係は、たいてい計画作成者や家族が強く利用者が弱い構図になっています。支援者が家族の顔色ばかりをうかがっているような場合、構造として相対的に利用者の声は軽視されてしまいます。手抜きという作為や無自覚という不作為によって聴き届けられない声があるとき、軽視されるのは常に、権力関係が低位にある「小さな声」なのです。これを構造的暴力といいます。

構造的暴力とは、対等ではない非対称な関係の中で強者から弱者に流れる抑圧の力です。弱者による強者への抑圧は原理的にはあり得ないので、「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」的な弱者の反抗は暴力的だったとしても構造的暴力ではありません。「足を踏んだ者は、踏まれた者の痛みを理解できない」という言葉は、権力関係高位者の構造的暴力に対する無自覚性を示しています。例えば、利用者家族からの介護職員への介護ハラスメントも “客の要求は絶対”との思い込みが、客(強者)の内包する暴力性を無自覚に発揮させてしまうのです。強者による弱者への実施が困難なことの強要は、意図しなくてもハラスメント(※5)となるのです。

※5 嫌がらせ、いじめ

自分が変わることから

人は悪い方に流され易く、社会を良くしていくには手間がかかります。だからと言って「善」を強権的に行えば暴力となります。対人支援職ならば、なおさら社会関係の中にある構造を意識するべきでしょう。支援関係という構造の中で、支援者という立ち位置が内包する暴力性に支援者が無自覚ならば、利用者への“介入”は、暴力となります。

それを防ぐためには、「風通しを良くし、何でも言い合える関係をつくる」ことです。これは、弱者も強者に対して普通に注文を言える関係ではないでしょうか。ともあれ、まずは目の前の利用者さんの心の動きに集中し、声なき声に耳を澄ませていきましょう。声を聴くことによって自分自身が変わるならば、世の中に善いものを広めていくことの一つにもなると思うのです。

 

 

紙面研修

文化的背景(構造的問題)を検討する

「BLM」のスローガンに含まれる意味

 世界的なプロテニスプレーヤーの大阪なおみが明確に賛意を示したことから日本でも注目されたBLM、「Black Lives Matter(ブラック・ライブズ・マター)」という言葉は2013年にインターネット上で拡がりをみせた。この抗議は、フロリダ州で白人警官が黒人少年を射殺したレイボン・マーティン事件(2012年)が発端だ。同様の事件はそれ以前も以後も繰り返し起きている。

 BLMは、「黒人の命も大切だ」と日本語訳された。なぜ「も」と付け加える言い方になったのか。米国では黒人男性と白人男性が口論する等なにか騒ぎが起きた時に、“白人の命は守られるが黒人の命は守られない”という状況がある。だから、「白人の命は大切だ。それは言わなくても皆知っていることだろう。でも、黒人の命も大切なんだ。そのことは皆が解っているかい?」という問いが込められている。

 若い黒人男性が警官に射殺されないで生き延びるためには、沢山の困難がある。インターネットで話題になった「若い黒人が従うべき暗黙のルール」は16箇条ある。このルールを守らなければ、若い黒人男性は「黒人である」という理由だけで“武器を隠し持っているかもしれない犯罪者” と疑われしまい、最悪は警察官に射殺されかねないのだ。米国には、白人が享受しているものと同質の自由が黒人には暗黙のうちに認められてはいない。これは根深い構造的暴力だ。「人種差別」と断言していい。




【構造的暴力】とは

元来は国際政治学や平和学の概念。平和学の創始者J.ガルトゥング(1930〜)は、力を直接行使して他人の肉体を損傷させることだけが暴力なのではなく、社会関係の非対称性を介して間接的に生命や人間の可能性を奪い去るような行為も暴力と呼び、「構造が暴力をふるう」と比喩的にとらえた。暴力とは「人間が潜在的に持つ可能性の実現の障害であり、取り除きうるにもかかわらず存続しているもの」としている。




【母が作ってくれた若い黒人が従うべき暗黙のルール】

HUFFPOST 2020.6.6

・手をポケットに入れてはいけない

・パーカーのフードをかぶってはいけない

・シャツを着ないまま、外に出てはいけない

・一緒にいる相手がどんな人か確認する。たとえ路上で会った人でも

・遅い時間まで外で出歩かない

・買わないものを触らない

・たとえガム一つだったとしても、何かを買ったらレシートかレジ袋なしで店を出てはいけない

・誰かと言い争いをしているように見せてはいけない

・身分証明書なしに外に出てはいけない

・タンクトップを着て運転してはいけない

・ドゥーラグ(頭に巻く、スカーフのような布)をつけたまま運転してはいけない

・タンクトップを着て、もしくはドゥーラグを巻いて出かけてはいけない

・大きな音楽をかけて車に乗ってはいけない

・白人の女性をじっと見てはいけない

・警察に職務質問されたら、反論してはいけない。協力的でありなさい

・警察に車を停止させられたら、ダッシュボードに両手を乗せて、運転免許証と登録証を出してもいいか尋ねなさい




 指摘しておきたいのは、黒人がそのような抑圧された状況下に置かれているという現実は、白人にとっては「自身が強者に属してることの自覚」がよほどないと理解できないということだ。

 例えば、何も悪いことをしていないのにも関わらず容姿のみで決めつけられて職務質問を何度も受けている人物が、機嫌の悪い時についに怒りを顕わに警官に抗議したとしよう。「俺が何をしたって言うんだ!俺は何もしていない!」 このような怒りを権力関係に無自覚な人は理解できるだろうか。無自覚な白人警官はズドンと一発撃って、こう言うだろう。「怒りだすのは後ろめたいからだ。悪くないのなら、警察の指示に従えばいい。それをしなかった黒人が悪い。これは職務上必要な正当防衛だ」と。

日本ではどうだろう

「女性の意見もきくべきだ」という方向性に、「女性がたくさん入っている会議は時間かかる」(だから、女性の意見を聞くのは好ましくない)と放言したのは、東京五輪大会組織委員会の森喜朗元首相だ。低劣な発言に批判が起こったが、問題は緊張感のかけらもなく差別発言をさらっと述べることができてしまうような組織風土という構造的要因にある。当該発言を問題と感じないような同質性を持つ人物や、お追従を述べる人間ばかりを優先して組織を固めた結果としか思えない。

 オトモダチばかりを集めて保守的に人事を固めたら、気が付いたらマスク一つすらまともに配布できないくらいに劣化していた某国の政治中枢部とその痴態ぶりが重なってくる。「ジェンダーギャップ指数が156カ国中120位(世界経済フォーラムが2021年3月に発表)ってそういうことじゃないですか。やっぱり日本社会の遅れが、そのまま縮図のように組織委員会の中でも再現されてきたということですね」とは、当該騒動後、五輪組織委員会理事となった來田享子氏のコメント(文春オンライン 2021.11.14)。

 同質性の濃い環境に置かれると、人はその風土の空気を当然のものとして吸っているから、その空気の毒性を「毒」だとは気づけないものだ。例えば、「あの女は出しゃばりだからムカつく」とか「あの女は巨乳だ」などをしゃべくりあっている幼稚なミソジニー(女性嫌悪)的なコミュニティに所属をしていれば、またはそのような偏見に彩られた文化的背景のもとに生育したのならば、そこに蔓延する偏見を自覚するのは難しい。なお、「ウザぃ」だとか「ダリぃ」などという言葉は、同質性に回帰しようとする帰属や承認の欲求から発せられるものだということも理解しておこう。これらの言葉は、部外者を遠ざける防御として、身内に対してはコミュニティに縛り付けるものとして、同質性の補強として機能する。

介護ではどうだろう

「あの利用者はわがままだ」

「あのケアは楽だから良い」

「あの利用者は要求が強いから、びしっと言ってやる必要がある」

「認知症が進んできたからかえってコントロールが楽」

「あのケアはダリぃ」

などという言葉が日常的に発せられているような職場風土では、気が付かないうちに「職員が上で利用者が下」という暴力的な構造が形成される。自分がどのような文化的背景のもとに介護職員としての態度を形成してきたのか。これは各自が自問する必要がある。そして、やっかいなことに構造的問題というものは「一番気がついて欲しい人に、なかなか気が付いて貰えない」というジレンマを抱えている。

考えてみよう

文化的背景から気が付かずに自分が抑圧する側になっていることは無いだろうか

 



 


2022年 新年のご挨拶 (2022/01/05)

新年あけましておめでとうございます。

旧年中は格別のご愛顧を賜り、誠にありがとうございました。

本年も紙ふうせんスタッフ一同、ご利用者様および関係各所の皆様のために精一杯力を尽くして参りたいと思います。

皆さまにとりまして本年が素晴らしい一年となりますよう心よりお祈り申し上げます。


紙ふうせんだより 11月号 (2021/12/17)

ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。朝晩の冷え込みが増してきましたね。くれぐれも体調にはお気をつけ下さい。11月は紙ふうせん株式会社にとって意義深い月です。後に梅丘に移転しましたが、経堂に居宅介護支援と訪問介護事業所を設立したのは2008年11月1日です。2018年11月1日には祖師谷に訪問介護を設立しました(居宅介護支援は2017年3月1日)。そして、祖師谷の訪問介護は2021年11月に千歳台に移転して業務を開始することができました。ひとえに皆様のおかげです。感謝申し上げます。

この佳節にあらためて仕事をする意味について考えたいと思います。

「働(はたら)く」とは「傍(はた)を楽(らく)に」すること

「働くとは『傍(はた)楽(らく)』だ」と、ある人が言っていました。仕事の本質を突いた言葉です。仕事の「し」は、「仕草(しぐさ)」の「し」と同じように「する」動作を表しますから、「仕事=働くこと」の最もシンプルな意味は「すること」です。人生は「食うこと」「寝ること」「遊ぶこと」など、「“しない”をすること」も含めて様々な「すること」の集合体です。数多くの「すること」の中で本当に大切なことはなんでしょう。「傍(はた)」とは「隣り」の意味です。「楽(らく)」とは「苦を楽にすること」であり、「楽しむ」こと「楽しませる」ことです。

私たちは食糧なくして生きていけませんから、「何が糧(かて)を得られるものと成り得るのか」ということは優先される「すること」の一つです。ここには、お金を得るための職業としての仕事も含まれてきます。お金を得るためには、サービス提供にせよ物品販売にせよ金融商品の取引にせよ、相手が存在しなければ成り立ちません。スーパーでお魚が買えるというサービスは、自分で漁をする苦労を楽にさせ、様々なお魚が選べるという楽しみがあります。貨幣経済では、傍(はた)と自分との間をお金が仲立ちしていますが、「傍を楽に」という本質は変わりません。

ところで働くことの目的は、自分の「お金」のためだけなのでしょうか。なるべく手間や費用をかけずに利益(お金)を最大化するべきある、という “コスパ(※1)”信仰が社会に浸透して久しいですが、それは人生に対する構えとしては適切でしょうか。

コスパで仕事選びをした場合、その人は進んで「楽」な仕事を選択するでしょう。「傍の苦」を尻目に「自分は楽で良かった」と職場内で一人安堵するかもしれませんが、それでは自分を内包する共同体は成り立たなくなってしまいます。人生の最晩年は苦労多くして介護や医療費用が嵩んできますが、コスパで老後を語るなら“早く死んだ方がマシ”となってしまいます。

そもそも「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし(※2)」というように、生きることは苦労です。苦労からは苦痛しか生じないのであれば“生まれてこない方がマシ(※3)”となってしまいかねません。そうならないように、私たちには共同体の支えが必要です。働くことの目的は、自分ではなく困っている「誰か」です。そして、何かを「すること」において最も大切な構えは、「苦」を楽しんだり楽しみに変えたりする気持ちではないでしょうか。

※1コストパフォーマンス(費用対効果)のこと。

※2徳川家康の遺訓より

※3近年生じてきた「子供を産むことは親のエゴで子どもへの暴力」だという考え。「反出生主義」とも。生きる事への無気力感や、“親ガチャ”という言葉にその影響が見られる。

 

仏教用語から考える介護

「抜苦与楽(ばっくよらく)」という仏教用語があります。「人々の苦しみを取り除き楽を与える」との意味です。抜苦与楽は釈迦が教えを説いた目的です。また、最高の悟り(真の意味での自己実現=自己超越)を開こうとする修行者(菩薩(ぼさつ))が行う修行もまた、自らが人々の苦悩を進んで引き受ける抜苦与楽の実践(菩薩行)です。これは介護の精神と同じです。「傍を楽に」するために、苦しみのあるところに私たちは赴き、利用者さんの傍(かたわ)らに寄り添います。そこに苦しみがあるから、それを取り除くために私たちは必要とされています。そして、その方と一緒に楽しみを見つけられるようにすることこそが、私たちの勤めなのです。

仏教では、「思い通りにならないこと」を嘆いたり悲しんだりするから「苦しみ」が生じてくるとしています。思い通りにならない最たるものは生老病死(しょうろうびょうし)、つまり命そのものです。生老病死に嘆きはじめたら、「すべてのものは苦しみである」(一切皆苦(いっさいかいく))という落とし穴にはまってしまいます。そこから抜け出す(解脱(げだつ)する)ためには、執着によって閉ざされてしまった心を開いていくことです。

悟りとはつまり、簡単に言い切ってしまえば、「苦しみの中から楽しみをみつけられること」なのです。苦しみを受けとめることは悟りのきっかけであり(煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)※4)、生老病死の荒波こそが自己超越の鍵(生死即涅槃(しょうじそくねはん))となるのです。

※4「即」とは「そのまま」の意、姿形は変化しないが内的な超越がある。

きっかけは自分の中にこそある

マズローの「欲求の5段階説」は、皆さんご存知のことと思います。マズローは、人間の欲求を5(プラス1)の階層として示しています。これを介護目標的に解釈していくと、下から順に、例えば「①食事やトイレ等の問題を解決する(生理的欲求)②安全に生活できる(安全欲求)③周囲の人と交流をしながら安心して生活できる(社会的欲求)④自分らしく生活できる(承認欲求)⑤自分を成長させる事ができる(自己実現欲求)」となるでしょう。



人間は欠ける事を満たしたいだけの存在ではなく、本質的には、より成長した自己を実現したいという欲求を持っているのです。自己実現とは、孔子の曰(い)う「七十にして己の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず(心の欲するままに行動して他者や社会とぶつかることが無い)」というような、いわば利己即利他(りこそくりた)の段階です。そうやって狭い自分から解放されて「超越」へと至るのです。

自分を窮屈にしてしまう自他のこだわりや、病や老いや死へのとらわれを越えて行く鍵はどこにあるのでしょう。マズローを批判的に補完する形でアドラー(※5)は、他人からの評価を求める承認欲求ではなく「貢献感」こそが大切だと述べています。「思い通りにならない」他者からの承認(他者承認)を求め苦悩するのではなく、自発的に他者に貢献していこうとする「貢献感」を自分に認める「自己承認」こそが「尊厳欲求」を満たすのだ、という考えです。他者に働きかけてこそ自分が満たされるのですが、そのきっかけは自分の中にこそあるのです。

人間には根源的な「貢献欲求」があります。「傍を楽に」することを強く願うのであれば、そこで生じてくる「苦」は、そのまま「楽」ともなり得るのです。明日もまた働きましょう。

 

※5アルフレッド・アドラー(1870-1937)アドラー心理学の鍵は「共同体感覚」です。アドラーは、自分の利益だけ追い求めてしまう生き方(私的論理)では幸せになれない、自己への執着を他者への関心に切り替えよ、と説いています。また、共同体には究極的には自然や宇宙も含まれます。
 

紙面研修

自分の欲求について考える

平成30年4月号の紙面研修で、私(佐々木)は以下のように書いている。




【マズローの欲求五段階説】 介護業界でこの図が引用されると、介護の目的は「生理的欲求や安全欲求を満たすことから」となる。まずは、ウンチ・おしっこ・食事・睡眠という訳だ。確かに基本はそうだが、必ずしもそこからではない。物質的に甚だしく欠けているにもかかわらず、暖かな食事や布団を拒否してしまう方もいるからだ。これは精神的な欠乏や欲求(実存的な悩み)から、そうせざるを得なくなっているところもあるだろう(そうであるなら、そこからアプローチする必要がある

マズローも「より高次の欲求に移行するためには現時点の欲求が完全に満たされる必要はない」としている。欲求は低位から高位へと段階的に現れるとは限らないのだ。物質的な欲求が満たされていなくても、高位の欲求を持ち得るし、逆もある。




要するに私は、欲求の説明が階層構造化されて、高低の評価めいたものがそこに貼りけられてしまっていることが気にくわないのだ。

人間には「食うこと」「寝ること」「遊ぶこと」「認められること」「貢献すること」など様々な欲求があり、それらは皆大切なのだ。それらの欲求が、自分だけではなく他者にもあることを認めるからこそ「傍を楽に」という、他者へ思いやりが生じてくるというものだ。そうであるなら、何事においても自分の都合や思惑を先走って述べるのではなく、相手の都合や思惑をまず聞いてみることだ。それによって自分が振り回されることがあったとしても、「いくばくかの役にはたったかな」と自分で自分を認めてあげられるだろう。アドラー心理学の思想は以下の2点が特徴的だ。

他者を支配しないで生きる決心をすること

他者に関心を持って相手を援助しようとすること

イギリスのことわざでには、馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできないというものがある。人間関係で「思い通りにならない」と苦しむのは、他者を支配しようとしているからである。そしてこれは対人支援関係の肝でもある。私たちは、水が必要な人に対しては最大限の努力を持って水を運ぶ必要がある。そして、その人が水を受け取らなかったとしても嘆く必要はない。そこは適切な距離感を持って無理やり飲ませようとしてはいけないし、自分の努力が承認されなかったと嘆く必要もない。それが自発的な「貢献」であり、そんな自分の自発性を「自己承認」すればよい。

試しに欲求の種類をマトリックスで構造化してみた。



 

考えてみよう

自分には、どんな欲求があるだろう。

※各領域に入る具体的な要求は何だろう。

 

 

 


紙ふうせんだより 10月号 (2021/11/19)

「ありのまま見る」ことの難しさ

ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。木々が色づきはじめて、一段と寒くなりましたね。お風邪をひかぬようご自愛ください。また、身体が硬くなり腰を痛めやすいのでお気を付け下さい。

紅葉と聞いて思い浮かべるのは、真っ赤な紅葉や一面の黄金色のイチョウでしょうか。私は案外と桜が好きです。ぼんやりと眺めると何だか茶色であまり綺麗ではない桜ですが、注意深く見つめると一つとして同じ葉は無く、それぞれが赤や黄色、緑や茶色のグラデーションやまだら模様になっていて、とても趣があるのです。

決めつけてしまうのは、解像度が低いから?

ぼんやりと眺めることと注意深く見るのとでは、見え方が異なってきます。良い介護サービスを提供できている人の共通要因を考えてみますと、確かに言えることの一つは、利用者さんのことを良く見ています。そのことについて「解像度」というキーワードで考えてみましょう。(画像参照)

解像度が高いのはAです。これは普通の画像でもありますから、解像度高く見るというのは「ありのまま見る」ということに通じてきます。これが良く見えている状態です。解像度を落としたものがB、もっと落とすと昔のTVゲームのドット絵のようなCとなり、経験によるパターン認識のおかげで顔と認識できるようになります。そして画像Dは、もはや背景は消えて記号化された情報としての「笑顔」となります。

私たちは利用者さんをどのレベルで見ているでしょうか。良くてB、だいたいはC、レッテルを貼ってしまうような人はDになっているのではないでしょうか。Dの問題点は、笑顔なのか泣き顔なのか判断を躊躇してしまうようなCよりも、「笑顔」と断定してしまっているところです。判断が早くて迷いが少ないためにDの「決めつけ」をしたくなる誘惑は、誰にでも常にあります。そして、パターン認識を押し進めてしまった結果、記号のように利用者さんを「利用者」と決めつけて見てしまい、ありのままが見えなくなってしまうです。

『良く見たくなる』ための工夫

どんな人も関わりの深い相手に対しては、その人のことを理解したいと思っていることでしょう。にもかかわらず利用者さんを決めつけで見てしまうのは、第一に「良く見る」ことが足りていないのではないかと思われます。そこには時間などの余裕が無かったり、“効率的”に関わりたいなどの自身の欲求が、「良く見る」欲求を上回っているようなこともあるかもしれません。しかしそれを性格や人格の問題としてしまうと、改善はよほど時間がかかってしまいます。“向いていない”と自分を決めつけてしまうかもしれません。

そうではなくて、利用者さんを『良く見たくなる』ような工夫をしましょう。工夫には、例えば文学や映画などを味わうことも挙げられます。優れた作品は高解像度で人間を描いています。眼を養うことができれば、心象風景はより鮮やかとなり、同じ介護サービスでもより楽しくなるはずです。締めくくりに、解像度の高い吉野弘(※1)の「詩」を4篇ご紹介します。電車移動のぼんやりとした時間も、見る人によってはこんなにも違うのか、と驚かされるのです。

※1吉野弘(1926- 2014)詩人。有名な作品に「祝婚歌」、鳩山元首相はこれを“外交の要諦”述べる。「生命は」は是枝裕和が映画に引用している(紙ふうせん便りH27.1にも引用)。浜田省吾は「雪の日に」刺激を受け全文をアルバムに引用。

 
白い表紙

ジーンズの、ゆるいスカートに

おなかのふくらみを包んで

おかっぱ頭の若い女のひとが読んでいる

白い表紙の大きな本。

電車の中

私の前の座席に腰を下ろして。

 

白い表紙は

本のカバーの裏返し。

やがて

彼女はまどろみ

手から離れた本は

開かれたまま、膝の上。

さかさに見える絵は

出産育児の手引き。

 

母親になる準備を

彼女に急がせているのは

お腹の中の小さな命令――愛らしい威嚇

彼女は、その声に従う。

声の望みを理解するための知識をむさぼる。

おそらく

それまでのどんな試験のときよりも

真摯な集中。

 

疲れているらしく

彼女はまどろみ

膝の上に開かれた本は

時折、風にめくられている。

 
夕焼け

いつものことだが

電車は満員だった。

そして

いつものことだが

若者と娘が腰をおろし

としよりが立っていた。

うつむいていた娘が立って

としよりに席をゆずった。

そそくさととしよりが坐った。

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に

横合いから押されてきた。

娘はうつむいた。

しかし

又立って

席を

そのとしよりにゆずった。

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。

二度あることは と言う通り

別のとしよりが娘の前に

押しだされた。

可哀想に。

娘はうつむいて

そして今度は席を立たなかった。

次の駅も

次の駅も

下唇をぎゅっと噛んで

身体をこわばらせて――。

僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて

娘はどこまで行ったろう。

やさしい心の持ち主は

いつでもどこでも

われにもあらず受難者となる。

何故って

やさしい心の持ち主は

他人のつらさを自分のつらさのように

感じるから。

やさしい心に責められながら

娘はどこまでゆけるだろう。

下唇を噛んで

つらい気持ちで

美しい夕焼けも見ないで。
 
好餌

或る駅で電車に乗り込んできたお婆さん

顔中、黒胡麻をまぶしたような風貌

大きく膨らんだ布の袋を引きずって

私の左側に腰を下ろした

腰を下ろすと、すぐ

袋を膝の上に載せ

中を覗いて探しもの

右腕の肘が

遠慮なく

私の脇腹をゴリゴリと突っつく

袋の中身をひっかきまわし、

探しものは出てこない

右腕の肘はしつこく私の脇腹を突っつく

電車に乗ると私は

なぜか、いつも

この種の災難に出会うのだ

探しものは見つからず

お婆さんの右肘は

際限もなく私の脇腹を見舞う

いつまで続く肘鉄ぞ!

私が席を立とうとしたとき

一瞬先に黒胡麻婆さんが席を立ち、袋をひきずり

少し離れたドアの傍まで歩いて行った

ドアの傍らには、深々と腰の曲がったお婆さんがいた

その人に

私の左側を指さして

「坐れ」と言っているのだ

腰の曲がったお婆さんは私の左側に来て腰を下ろし

黒胡麻婆さんは

ドアの傍らに立ったまま外の景色を見ている

――袋の中ばかり覗いていたお婆さん目に

ドアの傍らの腰曲がり婆さんが見えていたとは!

そのとき私の耳に届いた腹話術もどきの声は

黒胡麻婆さんの閉じた口から

私に向けられて発せられていた

「何の不思議もありはしないよ

私を非難することでいきり立っていたお前さんの目に

私以外のものなど見えなかった筈さ」

 

人の欠点を責める人間が大好物という神さま

そういう神さまがおわすと

かねがね私は信じていたが

ひょっとしたら、この黒胡麻婆さんは……

 

黒胡麻婆さんは、やがて電車を降りた

ホームに出たその人の横顔は

窓越しに私を見て

かすかに笑っていた

腹話術もどきの声が、また

そのヒト(?)の閉じた口から

はっきりと

私の耳に届いた

「他を非難して周囲が見えなくなっている人間が

私の舌の好みには一番でね

おいしいことこの上なし、さ!」

 
或る声・或る音

発車合図の笛が駅のホームに響き

電車が静かに動き出すと

隣り座席の若い母親の

膝に寝かされた一歳ほどの男の子が

仰向いたまま

また、声を発する。

初めは低く

次第に声を高め

或る高さになったところで

そのあと、ずーっと同じ声を発し続けるのだ。

電車が次のホームにすべりこむと

その声は止む

電車が動き出すと

その声は再び声を発し

次第に声を高め

或る高さの声を保ち続ける

母親の膝に仰向いたまま、微笑んで。

――私は気付いた

レールを走る車輪の音を、その子は

声で真似ていたのだ。

発車して、車輪が低いサイレンのうように唸り始める

速度を増すにつれて、やや高まり

走行中、唸りは切れめなく続く

その音を、声でなぞっていたのだ。

レールを走る車輪の音に、こんなにも親しく

どこの大人が

声で寄り添っただろう。

電車に乗れば足もとから

必ず湧き上がってくる車輪の音に

私は、なんと久しく耳を貸さなかったことか。

私は俄かに身の内が熱くなり

目をつむり

あどけないその子の声と

その声に寄り添われた鉄の車輪の荒い息づかいを

そのとき、聞いた

聞こえるままに、素直に聞いた。

 
考えてみよう

良く見るために必要なことは、

自分にとっては何だろう
 


祖師谷訪問介護事務所に関するお知らせ (2021/11/18)

【お知らせ】紙ふうせん祖師谷訪問介護事業所は、前住所が手狭になったために、前住所の近くに移転いたしました。
(移転は訪問介護のみ。居宅介護は引き続き移転前の住所で営業します。)

移転作業中に各業務が滞るなどの影響により、ご迷惑をお掛けした方々に、お詫び申し上げます。大変失礼いたしました。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

新住所:〒157-0071 世田谷区千歳台2-13-8 千歳台マンション202

(千歳接骨院の左側階段登る)

電話番号:03-6411-9132

FAX:03-5787-7421


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