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紙ふうせんだより 6月号 (2021/07/30)
死の自覚に変化する「人生の意味」
ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。暑さが増してきました。利用者さんへの水分補給の声掛けや自分自身の水分補給をお願いいたします。
作家でジャーナリストの立花隆(※1)さんの訃報が入ってきました。立花隆さんは『脳死』や『臨死体験』など人間の死に関する著作があります。『臨死体験』は、1991年にNHKスペシャルで「立花隆リポート 臨死体験〜人は死ぬ時 何を見るのか〜」として放映された内容の書籍化ですが、TVでは伝えきれなかった膨大な取材内容が収められ、関連書籍は計4冊にのぼります。驚愕するような証言の数々にもあくまで懐疑的に取材を積み重ね、冷静な筆致で描いていたことが印象的でした。
※1 1974年『田中角栄研究~その金脈と人脈』を発表し、田中角栄首相失脚のきっかけを作り、ジャーナリストとして不動の地位を築く。他には『日本共産党の研究』や『宇宙からの帰還』『青春漂流』など。「知の巨人」のニックネームがある。スタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』では雫の父親役を演じる。2021年4月30日没。享年80歳 |
「臨死体験」とは何か
臨死体験(近似死体験とも言う)の事例収集は+レイモンド・ムーディやエリザベス・キューブラー=ロスの先行研究があります。それらや立花の結論は、医師から死亡宣告が下されるような生存の危機的状況下で、体験者(患者)が「死後の世界」と感じられるような世界に入って行き戻ってくるという証言が数多くあり、それらは主観的「事実」であり臨死体験は頻繁に起こり得る、というというものです。最近の研究(英国、オーストリア、米国での調査、2014年発表)によると、2060名の心停止患者のうち330名が心停止から生き帰りその中の140名(約40%)が心停止中に意識があったと報告されています。
臨死体験は、医師の死亡宣告や周囲で悲しむ人を体外離脱した自分が見下ろしている状況から始まり、ブーンというような音が聞こえて暗いトンネルをくぐりぬけ、花畑や川や橋などあの世との境界のような所にたどり着きます。そこでは精神的な存在と出会います。「光の生命に包まれる感じ」と報告する人もいます。(人によっては故人や阿弥陀如来やキリストのイメージを見ます。子供の場合は生きている人が出てくることもあります。また良い匂いがすることも。)
そこはとても心地良くこのまま留まりたいと感じるものの、「まだそちらへ行く時ではない」と考え直したり「戻りなさい」と諭されたりします。生涯の回想(走馬燈体験)をする場合もあり、気が付くと自分の肉体に戻っていた、という一連の体験です。それらの要素を全て体験する人もいれば部分的な体験の人もいます。また、無宗教の人も体験しており、知覚される情景のイメージは文化的背景によっても異なりますが、多くの人が「痛みもなく表現しようのない安らぎ」だったと述べていることは共通しています。
立花隆はキューブラー=ロスにもインタビューを行っています。ロスは臨死体験の症例のあまりの多さと自分自身の実体験から、臨死体験を「現実体験説」とする立場を表明しています。対して立花は命の危機に際して脳内に異常が生じ、それが臨死体験を引き起こす「脳内現象説」に寄った立場を取っていますが、体外離脱体験をして見た光景(普通には絶対に見ることの出来ない内容)が「本当にその通りだった」という体験例もあり、現実に何かが知覚されたと見なさないと説明できないケースも多くあります。
より良く生きることへの意欲
「ただ、実をいうと、私自身としては、どちらの説が正しくても、大した問題ではないと思っている。」立花隆は『臨死体験』結びでこのように述べています。
「臨死体験の取材にとりかかったはじめのこころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣に思っていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖心を抱いていたからである。しかし、体験者の取材をどんどんつづけ、体験者がほとんど異口同音に、死ぬのが恐くなくなったというのを聞くうちに、いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである。(中略)
もう一つ、臨死体験者たちが異口同音にいうことがある。それは、『臨死体験をしてから、生きるということをとても大切にするようになった。よりよく生きようと思うようになった』ということである。(中略)みんなよりよく生きることへの大きな意欲がわいてくるのである。それは、なぜか。体験者にいわせると、『いずれ死ぬときは死ぬ。生きることは生きている間にしかできない。生きている間は、生きている間にしかできないことを、思いきりしておきたい』と考えるようになるからであるという。」
自らが生きることによって示す「人生の意味」
世界中に「死を忘れるな」という格言があるのは、「臨死体験における人生観の変化」と同様に、「死の自覚によって生の意味が裏打ちされる」ことを示しているのでしょう。
死がそう遠くない先に待っていることを自覚した人は「残りの人生から何を得られるか」「残りの人生に何を期待できるか」と自問します。やり残した仕事を完成させたい。自分が生きた証として何かを残したい。旅行に行って美味しいものを食べたい。そう思ってあれこれ考えを巡らせるかもしれません。しかしそうしているうちに体は衰え歩くこともままならず思考も働きにくくなったとしたら、「残りの人生に何も期待できない」となってしまうのでしょうか。
確かに何かを作りあげる「創造価値」や素晴らしい体験をする「体験価値」の機会は、失われていくものです。しかし体の自由が全くきかないような状況になったとしても、息を引き取る瞬間まで「態度価値」は示すことができると言います。「態度価値」とは、運命から挑戦を受けた自分自身が、運命に対してどんな態度をとることもできるという“意思の自由”によって示される自分自身の尊厳なのです。「より良く生きる」とは、人生に何かを求める態度ではなく、生きることによって自らの「人生の意味」を示すことではないでしょうか。「態度価値」を提唱するV・E・フランクル(※2)は、人生の意味はその究極において「つくりだされるものではなく、発見されるもの」と述べています。自分の外側に答えを求めてばかりいては、自分の心の内側に生じる「意味」を見落としてしまうのです。
※2アウシュビッツ強制収容所を生き延びた精神科医。フロイト、ユング、アドラーに次ぐ「第4の巨頭」(1905-1997)。実存主義をもとにした実存分析を創始し「ロゴセラピー」を展開。深層心理学に対比させて「高層心理学」とも呼ばれる。フランクルは立ち位置を「巨人の肩の上に立っている小人は巨人自身よりも遠くを見ることができる」と述べた。 |
それはなんだろう
幼くして筋ジストロフィーと診断され10歳で行動不能となった石川正一さんが、自分の余命を父に聞いた14歳の時に記した詩を紹介します。石川さんは23歳で亡くなりました。
「たとえ短い命でも/生きる意味があるとすれば/それはなんだろう/働けぬ体で/一生を過ごす人生にも/生きる価値があるとすれば/それはなんだろう/もしも人間の生きる価値が/社会に役立つことで決まるなら/ぼくたちには/生きる価値も権利もない/しかし どんな人間にも差別なく/生きる資格があるのなら/それは何によるのだろうか」
紙面研修
「人生の意味」を見出すロゴセラピー
【ロゴセラピーの基本的な考え方】
- 人間は様々な状況・条件下であっても、自分の態度決定の自由(意思の自由)を持っている。
- 人間は生きる意味を強く求めている(意味への意思)。「生きる意味が無い」ような嘆きは意味を見失っている状態と考えられる。
- それぞれの人生にはその人独自の意味があり(人生の意味)、それを見つける事が大切。
私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答をださなければならない存在なのです。『それでも人生にイエスと言う(V・E・フランクル)』 |
フランクルの心理学は「人生にはどんな時も意味がある」と考えるため、「人生に意味は有るか?無いか?」との問いは“ズレた問いの立て方”なのです。自問自答は大切ですが、人生の諸問題には自らの生き方によって「回答を示す」(人生の問いに対する「応答責任」)ことがより重要なのです。
人生を意味あるものとする3つの価値
人間の本当の関心事は、自らの人生の「意味」であり、快楽を探すことや苦痛の軽減は表面的なものと考えられます。人生に意味があると決めている人は、人生の困難を乗り越えていこうとし、その苦しみにも意味を発見することができます。「創造価値」や「態度価値」の実現に行き詰まったとしても「態度価値」はどんな状況でも実現可能であるため、「意味が無い」との嘆きは前者のみに固定された価値観を持っていると考えられます。ユーモアによって自分の頭を柔らかくしましょう。
「創造価値」…人が何かを創造することによって、世界に何かを与える価値 |
「体験価値」…人が人との出会いや経験を通じて、世界から何かを受け取る価値 |
「態度価値」…人が現実に対して「とる態度」によって実現される価値 |
※態度価値は、それが形に残らなくても記憶する人がいなくても成立します。世界や人間存在の意味は、自分自身で意味付けをするものだからです。行為や態度の伴わない意味はあり得ず、人間や自己の「尊厳」も態度で示すからこそ実現されると言えるのです。(考えてもわからないなら、考えをいったん脇において「できることをやってみる」「決めつけないで、待ってみる」というのもアリです。)
ロゴスセラピーの具体的手法 「逆説志向」と「反省除去」
ロゴセラピーは嘆く人に対して「あなたは生きていてもしょうがないとおっしゃいますが、どうしてそう思うのですか?」などの平易な言葉による対話で、人生や出来事への「評価の仕方」が柔軟になるように働きかけます。その自身が自分で意味の再発見ができるように手助けをするのです。
【逆説志向】 予期不安の悪循環を終わらせます。(介護に即して)「転んだら終わり」と自分に言い聞かせる→出かけたら「転ぶのではないか?」との予期不安が増大する→ますます出かけられなくなる→予期不安の悪循環
★逆説的に考えて、不安の対象の「お出かけ」をあえて実施する→転ばないことを学び、予期不安を解消する。
(point)本人の意思でチャレンジができるように、ユーモアで気持ちを盛り上げて積極的に不安を受け入れる。ユーモアで不安に囚われている自分を笑い飛ばす。
★(自分で自分に行う場合)人前でのスピーチに緊張してしまう人が、「人生で一番緊張して世界一恥ずかしい自分を晒してやれ」「赤面して滝のような汗をかいてガタガタふるえてやれ」と自分に言い聞かせると案外普通にやれたりします。例えば不眠症でも「今晩は朝までアレコレ考え抜いてやろう」と腹を据えると、「眠れなかったらどうしよう」という不安から離れられます。このように自己の囚われから離れることを自己距離化と言います。
【反省除去】 過剰な反省に気が付き、反省を意図的にやめてみます。何か失敗した時に「やっぱりダメだった」と呟いてみたり、人と比べて「私はダメなんだ」と思ってしまうのは過剰な反省です。これは、物事に対する過剰な期待や「自分」にこだわり過ぎること(自信を失ったからこそ、自分で自分を何とかしたいと空回り)等の「自己執着」から起こります。
★このような時は、反省過剰な「意識」よりも自分の「無意識」を信頼するように勧めています(自己離脱)。反省ではなく自分のやるべきと思うこと(3つの価値)に意識を向け没頭することによって、そこから生じてくる新た気付きが自己の囚われのブレイクスルー(自己超越)となる場合があります。(無意識が活性化して思いがけぬところから「意味」が発見できるかもしれません。)
2021年7月30日 12:02 PM | カテゴリー: 【紙ふうせんブログ】, 令和3年, 紙ふうせんだより
紙ふうせんだより 5月号 (2021/07/09)
欲に働きかける支援
ヘルパーの皆様いつもありがとうございます。今年は例年より梅雨入りが早いようです。転倒や事故等には気を付けて下さい。雨天時の見通しの悪さ、歩道の段差やマンホールなど滑りやすいところでの自転車のハンドル操作や斜め侵入、ブレーキの制動力の低下など、注意箇所はたくさんあります。また、階段等でのスリップにもご注意下さい。
私の高齢者介護の源体験
時には自己開示(※)も必要と考えますので、私が最初に勤めた高齢者介護について書きます。
学校を卒業してTVドラマの制作進行をしばらくしたあと燃え尽きてしまった私は、知り合いからの偶然の電話で欠員の出た知的障害者の作業所でアルバイトをすることになりました。人生観の地殻動の始まりでしたが、
今回お伝えしたいのはその次の職場の話です。
介護保険制度が始まる前年、制度開始までの期間限定雇用で調布市総合福祉センターのリハビリデイサービスに無資格でしたが入り込みました。介護に対して特段の思い入れはないけれど、「どうせだから福祉関係の仕事をもうちょっとやってみよう」という軽いノリです。そんな私に上長だった理学療法士の田村さんは介護の本質を教えてくれました。
「佐々木くん、ここに来ている利用者さんたちが家でどのように生活しているか考えてみて。
ここで見せている姿は“外面(そとづら)”なんだよ。ここでいくら頑張っているように見えても、どれだけの人が家でもちゃんとやっているだろう。ここでは、着替えの手伝いも食事の準備も本人のADLをよく見て必要最小限にしているけど、皆家では家族にやってもらって上げ膳据え膳の生活になっているんじゃないかな。それをやってしまったら結局自分ではできなくなってしまうんだよ。ここでリハビリをいくら頑張ってみても一週間の内の僅かな時間でしかない。ここでやってることを家でもやらなければ、ここでのリハビリは意味が無いんだ。プライドがあるからここでは皆“外面”はしゃんとしているけど、家では意欲が無くボーっとしている人も多いんじゃないかな。」
そう言われて初めて私は、表現されている態度とは裏腹の“自分では自覚したくない、他人には知られたくない”気持ちについて、それが人にはあることについて考えてみたのです。ここでは偉そうにしている方が家では奥さんに怒られている。ここでは家柄の良さを自慢する方が家では相手にされていない。とても優しい瞳で立派な髭を蓄え後光がさすような穏やかさで笑うあの人の独り住まいの孤愁、笑顔の輪郭にうっすらと漂う悲しみの影について、心を働かせたのです。
「あの人はもう家でも動かないからほとんど歩けないんだ。でもそれを自分では認めたくない。本当はリハビリ効果が上らないなら支援を終了して他の方を入れなければならないんだけど、意欲が低くてもあの人がここに来ているのは他に居場所が無いからなんだよ。誰かあの人の家で関わってくれる人がいたらなぁ…。」田村さんは、叱咤激励をしてもずるずると低下してく方を見て、自分が携われる領域の限界に悔しそうに呟いていました。
(介護保険制度は、それまでの老人福祉が公費で支える「措置」のため「利用者本意」の考えが未熟だったことを背景に、財政的な限界もあり「利用者本位、予防とリハビリの重視、在宅ケアの推進、高齢者の介護責任を家族から社会へ、公助から互助(保険制度)へ」などを主題として平成12年(2000年)の4月から開始されました。)
( ※私的な情報を言語で相手にありのままに伝えること。趣味の話をすれば相手も趣味の話をしてくれるような、自己開示をされた側も同じように自己開示をしたくなる「返報性」があります。こちらの“本音の深い気持ち”を伝えることによって、「そこまで話をしてくれたのなら自分も“本音”で話そう」となり、関係性を深めることができます。)
「意欲が見えない」からといって、「意欲が無い」わけではない
意欲が見えない人への支援をどのように行なっていくかは、様々な支援関係の中でも最大の課題と言って良いでしょう。算数で表すならば、意欲ゼロにはどんな数字を掛けてもゼロになってします。だからと言って意欲ゼロは支援対象にならないかというと、そうではありません。“意欲の高い方”は多少の障害なら自力で何とかできてしまうのですから、支援が必要になるということは、何らかの要因で“意欲に陰りがある”ことが前提なのです。
ある利用者さん夫妻は、奥様が圧迫骨折になり寝たきりの生活となってしまい、ご主人は調理ができないとのことで毎日の調理の支援から始まりました。「何を作りましょうか?」と聞くと鬱状態の奥様からは答えを聞けず、ご主人に問うと「蕎麦」や「素麺」の回答です。そこで、毎日のように蕎麦や素麺を提供していたのですが、ご主人は或る日ぼやきました。「蕎麦や素麺だったら自分でも作れるんだよなぁ」と。ご主人は経験不足で「何を作りましょうか?」と聞かれても、どのように答えて良いかわからなかったのです。そして、奥様も完全に寝たきりという状態ではなかったので、車椅子で買い物同行を行いそこで購入しうたものを調理に活かすようにしました。関わり方を変えると、今まで見えてこなかったところが見えてきます。奥様に意欲が見られなかったのは、寝たきりにさせてしまっていた介護体制に問題があったのです。奥様とは、外出先では歩行練習を開始し調理も共に行うように変えていきました。すると奥様の意欲はますます向上し、家族関係も明るく変わっていったのです。ここでもわかるように、最初に見られる状態像は、その時の精神的落ち込みや負い目などで自分の希望や状態を正しく伝えることができていない場合が多いのです。
「見えないところ」は発展する「可能性」
言葉として正しく語れていない出来事の真実、外面に隠された願いや葛藤や痛み、意識下にある無意識の働きなど、私たちには見えないものがたくさんあります。認知症の方の個人史も語る言葉は風の中に消えかかっています。しかし、見えないからと言ってそれらが無いわけではないのですから、「見えないものを見ようとする努力」が大切です。そしてその人のことが見えてきたとしても、「私たちには見えてないところの方が多い」という自戒も必要であり、見えてないところが多いからこそ、それは発展する「可能性」となるのです。
ある末期ガンの方はサービスに拒否的でしたが、終活のゴミ出しはして貰おう考えたようで訪問開始となりました。ゴミ出しが終わると要望はほとんど聞かれなくなり、部屋を綺麗にすることによって明るい気持ちになって頂こうと掃除に取り掛かりました。随分昔に縁を切った子供の図工の作品に積もった埃を綺麗にしましたが、「そんなことをして何の意味があるんだ」という雰囲気です。程なくしてその方は望んで入院されサービス終了となりました。その後伝え聞いた話では、入院先で食事摂取を拒否して亡くなられたそうです。
利用者さんの「困難」に対処するところを入口として信頼関係を築き、見えなくなってしまった「可能性」を利用者さんと一緒に探すことができたならば、どんなに素晴らしいでしょう。しかし簡単にはいかないのも事実です。未熟な私たちには手の届かないところに心がある方もおられます。だからこそ一度でも気持ちが通じ合った利用者さんのケアは、どんな状況になったとしても、明るい方へと発展する「可能性」に賭けていきたいと思うのです。
紙面研究
【自立支援について】
2018年に「老計10号」の改正(追加点はゴシック体)がありました。自立支援の推進は介護度悪化を防ぐ最重要の取り組みであるため、老計10号に更なる具体例が追加されたところです。在宅介護の中心課題は「自立支援」と「認知症対応」です。どちらも「身体」で算定可能です。具体例は「考え方」を示すものであり、例示以外は算定できないものではありません。考え方を学び介護に活かしていきましょう。身体介護を算定する時は「重度化防止のための見守り的援助」「自立支援」「ADL・IADL・QOL向上」「一緒に行う」「共に行う」「認知症進行防止」「BPSDへの対応」「生活歴の喚起」「思い出してもらう」などのキーワードがプラン上にあった方が良いでしょう。
1-6 自立生活支援・重度化防止のための見守り的援助(自立支援、ADL・IADL・QOL向上の観点から安全を確保しつつ常時介助できる状態で行う見守り等)
○ベッド上からポータブルトイレ等(いす)へ利用者が移乗する際に、転倒等の防止のため付き添い、必要に応じて介助を行う。
○認知症等の高齢者がリハビリパンツやパット交換を見守り・声かけを行うことにより、一人で出来るだけ交換し後始末が出来るように支援する。
○認知症等の高齢者に対して、ヘルパーが声かけと誘導で食事・水分摂取を支援する。
○入浴、更衣等の見守り(必要に応じて行う介助、転倒予防のための声かけ、気分の確認などを含む)
○移動時、転倒しないように側について歩く(介護は必要時だけで、事故がないように常に見守る)
○ベッドの出入り時など自立を促すための声かけ(声かけや見守り中心で必要な時だけ介助)
○本人が自ら適切な服薬ができるよう、服薬時において直接介助は行わずに側で見守り、服薬を促す。
○利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行う掃除、整理整頓(安全確認の声かけ、疲労の確認を含む)
○ゴミの分別が分からない利用者と一緒に分別をしてゴミ出しのルールを理解してもらう又は思い出してもらうよう援助
○認知症の高齢者の方と一緒に冷蔵庫のなかの整理等を行うことにより、生活歴の喚起を促す。
○洗濯物を一緒に干したりたたんだりすることにより自立支援を促すとともに、転倒予防等のための見守
り・声かけを行う。
○利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行うベッドでのシーツ交換、布団カバーの交換等
○利用者と一緒に手助けや声かけ及び見守りしながら行う衣類の整理・被服の補修
【Q質問】(15.5.30事務連絡介護保険最新情報vol.151介護報酬に係るQ&A)
自立生活支援のための見守り的援助の具体的な内容について
【A回答】
身体介護として区分される「自立生活支援のための見守り的援助」とは自立支援、ADL向上の観点から安全を確保しつつ常時介助できる状態で行う見守りをいう。単なる見守り・声かけは含まない。
例えば、掃除,洗濯,調理などの日常生活の援助に関連する行為であっても、
・利用者と一緒に手助けしながら調理を行うとともに、安全確認の声かけや疲労の確認をする
・洗濯物を一緒に干したりたたんだりすることにより自立支援を促すとともに、転倒防止予防などのための見守り・声かけを行う
・認知症高齢者の方と一緒に冷蔵庫の中の整理などを行うことにより生活歴の喚起を促す
・車イスの移動介助を行って店に行き,本人が自ら品物を選べるように援助する
という、利用者の日常生活動作能力(ADL)や意欲の向上のために利用者と共に行う自立支援のためのサービス行為は身体介護に区分される。掃除,洗濯,調理をしながら単に見守り・声かけを行う場合は生活援助に区分される。
また、利用者の身体に直接接触しない、見守りや声かけ中心のサービス行為であっても、
・入浴,更衣などの見守りで、必要に応じた介助、転倒予防のための声かけ、気分の確認を行う
・ベッドの出入り時など自立を促すための声かけなど、声かけや見守り中心で必要な時だけ介助を行う。
・移動時、転倒しないようにそばについて歩き、介護は必要時だけで、事故がないように常に見守る
という介助サービスは自立支援、ADL向上の観点から身体介護に区分される。そうした要件に該当しない単なる見守り・声かけは訪問介護として算定できない。
老計10号による「身体介護」の定義
身体介護とは、
①利用者の身体に直接接触して行う介助サービス(そのために必要となる準備、後かたづけ等の一連の行為を含む)、
②利用者のADL・IADL・QOLや意欲の向上のために利用者と共に行う自立支援・重度化防止のためのサービス、
③その他専門的知識・技術(介護を要する状態となった要因である心身の障害や疾病等に伴って必要となる特段の専門的配慮)
をもって行う利用者の日常生活上・社会生活上のためのサービスをいう。(仮に、介護等を要する状態が解消されたならば不要※となる行為であるということができる。)
※ 例えば入浴や整容などの行為そのものは、たとえ介護を要する状態等が解消されても日常生活上必要な行為であるが、要介護状態が解消された場合、これらを「介助」する行為は不要となる。同様に、「特段の専門的配慮をもって行う調理」についても、調理そのものは必要な行為であるが、この場合も要介護状態が解消されたならば、流動食等の「特段の専門的配慮」は不要となる。
専門性の高い「認知症対応」は身体介護となる
認知症状や精神症状による「BPSD(行動・心理症状)」が見られる場合は、本人の不安を和らげるために傾聴しつつ、本人の行動や感情に配慮した適切な声掛けや説明、誘導や見守りの介助が必要となります。
ヘルパーが中心的に家事動作を行う場合でも、本人が不安にならないように”一緒にやりましょう””これはどうしましょう”などと本人とかかわり、例えばゴミ出しをするにしても”捨てるものを本人に決めてもらうよう促す”必要があります。これはケアに対する「参加意識」を本人に持っていただく取り組みです。家事行為の気持ちの中心はあくまで本人なのです。
もし、”決まっていることを単純に実施すれば良い”というような実施方法であれば、本人は「勝手にやられている」といった「疎外感」を抱いてしまい、BPSDはますます悪化してしまいます。というのも、BPSDは自分の記憶が不確かになるという中核症状の上に、「自分のことが自分で分からなくなる・できなくなる」という不安と「周囲が自分の生活に、勝手に突っ込んでくる」という恐れも重なった「自己疎外の不安の表現」でもあるからです。
「自己疎外」とは、「人間の個性や人格が社会関係の中に埋没して主体性を失って結果、他人やほかの事柄に対してだけでなく、自分自身に対してさえも疎遠な感じにとらわれてしまう状態(日本語大辞典)」です。例えば帰宅願望が生じるのは「自分自身に対しても疎遠な感じ」が生じているから「自分の心が安らぐ場所を求めて」のことだと考えられます。
「疎外感」を防ぎ不安を解消し、BPSDの重症化を予防して改善していくためには、何事も本人に意見を求める態度を示し、”本人の意見や考えのもとに支援が実施されている”という実感を作り出す必要があります。もし本人が、事実関係と異なる話をしたり、適切な生活環境の整備に反する意見を述べたとしても、即座には否定せず、時間をかけて傾聴や会話を行い、望ましい方向へ本人が自ら進んでいけるようさりげなく後押しする必要があります。
このような対応は「ともに行う」支援であり、「利用者中心」であり、「本人が生活の主役であることを守る」自立支援でもあります。このような支援方法は、掃除を行うにしても”掃除さえできればよい”ような性質のものではなく、認知症対応の研修や経験を重ねて適切に行われるものですから、「その他専門的知識・技術(介護を要する状態となった要因である心身の障害や疾病等に伴って必要とされる特段の専門的配慮)をもって行う利用者の日常生活上・社会生活上のためのサービス」となります。
当然これらは、認知症状や精神症状、BPSDが解消されて、自分の要望を自分自身でヘルパーに適切に指示を出せる状態となれば、不要となる行為です。よって、このような専門性の高い認知症対応は身体介護であると考えられるのです。
『生活歴の喚起』とは
日常生活の過ごし方は、どんな事でもその方のやり方というものがあります。
利用者さんが“認知症になったから”“身体機能が衰えたから”と安易に家事等の代行をしてしまうと、とたんに今までの自分のやり方が継続できなくなり、ますます衰えてしまう事があります。そのような時、利用者本人の今までのやり方や考えに基づいて、ヘルパーが一緒に行う事を試みる事によって、本人の生活の継続性や一貫性が保たれ、本人が自信を取り戻すという事があります。
それは、本人が生活の切り盛りの主役に返り咲く事でもあります。生活の継続性や一貫性は自分らしさの重要な要素です。老いという困難を迎える時、利用者さんに「今までどのように生きてきたのか」「どうやって困難を乗り越えてきたのか」「昔の自分はどんな自分だったのか」等、『回想法』を意識した会話を心がける事も生活歴の喚起につながっていくでしょう。
2021年7月9日 4:28 PM | カテゴリー: 【紙ふうせんブログ】, 令和3年, 紙ふうせんだより