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紙ふうせんだより 12月号 (2024/01/19)

「人として関わる」ことの大切さ

皆様、いつもありがとうございます。今年も大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いします。仲間である皆様が元気に年を越されることを願っています。年末の風物詩、ベートーベンの交響曲第9番「合唱」の日本での全曲演奏は1918年6月1日の徳島県の板東俘虜収容所でのドイツ兵捕虜によるものです。同年年末、第一次世界大戦が終わって平和を願う声からドイツのライプツィヒでも「第九」コンサートが行われました。以後、大晦日にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団は毎年「第九」を演奏しているそうです。

「親友」について考える

第九の「歓喜の歌」のおおもとは、ドイツの歴史学者、劇作家、思想家のシラーがフランス革命の直後に記した詩「歓喜に寄す」です。この詩に感動したベートーベン(※1)は楽曲化することを30年間構想し、失聴と人生の苦悩の中、1824年5月7日の初演を成功させています。

その歌詞には、「ひとりの友の友となるという大きな成功を勝ち取った者、優しき伴侶を得たものは合唱に加われ!そうだ、地球上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言える者は歓呼せよ!」とあります。たったの一人だけでも「親友」と呼び得る者がいれば人生は大成功であり、それぐらいに「心を分かち合える者」を得ることは奇跡なのだ。その奇跡が自らにあれば歓喜せよ!と、「歓喜の歌」は呼びかけているのです。このような詩であったから、戦争終結や友との再会を祝し博愛と平和を願って演奏されたのでしょう。

「友よ!この調べに非ず。さらに麗しく喜びに満ちた歌を合唱せん!」 冒頭でこのように叫ぶこの楽曲に心を震わせた私は、若い頃、「そうではない。こんな馴れ合いで群れているだけではダメだ。親友とはもっと深遠で『魂』に触れる存在だ」と考え、「友達」のハードルを自分で高くしました。これは、今思うと良い面も悪い面もあったように思います。「本当の人間関係とは何か」と考え続けたこと、関わりの可能性を自ら狭めてしまっていたこと。




※1ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770-1827)

シラーの詩に出会った当時、ヨーロッパは絶対君主制が崩壊し新しい市民社会が待望された。貧困と虐待の中に少年時代を過ごしたベートーベンは、同詩の「すべての人々は、みな兄弟となる」という無差別平等の理想に歓喜したと思われる。ベートーベンは「良きことに向かう美しさ」を座右とし、音楽を通して自らと人間の精神を高めていく事をひたむきに求めた。




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「認識」によって「現実」が変性される

「親友」とは一つの概念です。概念とは、思考によって把握された事象の名前と意味です。それなりに関わり合いのある人物がいた時、その人のどこを探しても「親友」というラベルは貼ってありません。「仕事仲間」というラベルも同様です。同じ職場の人でも自分が「仲間意識」を持っていなければ「職場の人」というラベルになるのかもしれません。「仕事仲間」の職場が変ったら「仕事」が落ちて単に「仲間」となるのでしょうか。それとも「過去の人」でしょうか。

これらは科学的に事実認定できない「認識」の問題です。個人の価値観と言ってしまえばそれまでですが、それが自然科学的な「事実」ではないのに、自分自身の考えや行動を知らず知らずに縛っていることもまた「現実」です。「利用者」という言葉も同様です。

利用者という認識がその人を「利用者」に縛り付け、その人自身の姿を見えなくさせてはいないでしょうか。当然ですが、ケアプラン作成以前に「利用者」は存在しません。

 

あなたも私も「記号」であってはならない

「話し合いをしてサービス導入を決定しても、すぐに『必要ない、来ないで良い』と断ってしまいサービス提供が継続せず、生活に支障が出ていることが伺われるのに“拒否”があるから難しい」と、ケアマネさんが困っているケースがありました。サービス担当者会議ではその人の生活の問題点が洗い出されます。作文されたニーズなるものが読み上げられ、「あなたは今日から利用者だから利用者らしく振舞って下さい」と暗に命じられているような状況にその方は拒否的な態度を示します。

たしかに「利用者にサービス内容の適否を判断する能力が無い」という状況は現実的にはあることです。しかし「認知症」だからと言って「判断を委ねなければならない」というようなことを言われれば、本人は、原則的には容認できません。個人の尊厳には、自分の問題について「誤った判断をする権利」も含まれているからです。

「(私が間違っていてもいいの、自己責任だから)ほっといてちょうだい」と言いながら、本当に拒んでいるのは人との関わりではなく「利用者という『記号』にされてしまうこと」なのです。そこには同時に「あなたは誰?」という問いが含まれています。

そうであれば、対応する私達が杓子定規に「介護保険のルール」を説き、「制度内の人」という顔をして説得を試みても、余計に「人権はく奪」の疑念を生じさせてしまいます。このような場合、サービス提供の枠組みの原則の「ケアプラン」に様々な可能性を織り込んだ上で、あなたと直接「人として関わっている」顔をしながら、柔軟で即応性のある現実的な対応が大切です。

自分がそう思えば誰だって「友達」

利用者さんの存在は、「利用者」という言葉以上の意味を持っています。ヘルパーも同様です。それを教えてくれたある方がいました。

その方は、衰えの自覚から鬱のようになっており、活性化のために外出介助が組まれました。疲労感から拒まれることもありましたが会話をして和めば外出し、歩きながら様々な話をしました。死の誘いのような辛い気持ちを吐露され、対して私も自分の人生観を個人の価値観として語ります。お互いに自己開示を心地よく良く受けとめることができて信頼となり、その方は心を開かれてこう言われました。「こんな状況になってあなたに出会えるとは自分はラッキーだった。あなたは親友だ。有難い…。」

私は、自分が気安く使うべきではないと思っていた「親友」という評価に戸惑いました。親子以上の年齢差があり、関係性は「仕事」です。しかしその方は「親友」と言われるのです。驚きと共に自分の狭い認識が開かれていくのを感じました。

私は精一杯のお礼として、信頼に応えるべくその方の心を閉ざしている「こうなったら人間終わりだ」という認識についての提案を試みることにしました。「閉じていくように見える時、開かれていくものがあること。終わりのように見える時、新たな始まりもあること」などを日常風景の中で例を出して、話を重ねていきました。

ある時、二人で散歩をしている姿を見た奥様は「あなたのことを信頼しているのね。安心しきっているのが伝わってくる。夫はあなたの事が大好きなのね」と言われました。「大好きだ」と言われて嬉しくならない人はいません。私もその方や奥様のことが大好きになりました。私の心を開いて下さったのはその方だったのです。

自分がそう決めれば誰だって「友達」です。せっかくの新年ですから、幼稚園児くらいの時は疑いもしなかったその「原則」を、今一度思い出してみませんか。


 

紙面研修


「尊厳」について

介護保険法 第一条

この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な事項を定め、もって国民の保健医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする。

 

社会福祉法 第三条

福祉サービスは、個人の尊厳の保持を旨とし、その内容は、福祉サービスの利用者が心身ともに健やかに育成され、又はその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように支援するものとして、良質かつ適切なものでなければならない。

 




「表札」  石垣りん

 

自分の住むところには

自分で表札を出すにかぎる。

 

自分の寝泊まりする場所に

他人がかけてくれる表札は

いつもろくなことはない。

 

病院へ入院したら

病室の名札には石垣りん様と

様が付いた。

 

旅館に泊まっても

部屋の外に名前は出ないが

やがて焼き場の鑵にはいると

とじた扉の上に

石垣りん殿と札が下がるだろう

そのとき私がこばめるか?

 

様も

殿も

付いてはいけない、

 

自分の住む所には

自分の手で表札をかけるに限る。

 

精神の在り場所も

ハタから表札をかけられてはならない

石垣りん

それでよい。

 




「わたしを束ねないで」  新川和江

 

わたしを束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱(ねぎ)のように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡すかぎりの金色(こんじき)の稲穂

 

わたしを止めないで

標本箱の昆虫のように

高原からきた絵葉書のように

止めないでください わたしは羽撃(はばた)き

こやみなく空のひろさをかいさぐっている

目には見えないつばさの音

 

わたしを注(つ)がないで

日常性に薄められた牛乳のように

ぬるい酒のように

注がないでください わたしは海

夜 とほうもなく満ちてくる

苦い潮(うしお) ふちのない水

 

わたしを名付けないで

娘という名 妻という名

重々しい母という名でしつらえた座に

坐すわりきりにさせないでください わたしは風

りんごの木と

泉のありかを知っている風

 

わたしを区切らないで

,(コンマ)や.(ピリオド)いくつかの段落

そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには

こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章

川と同じに

はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩




考えてみよう

「困難事例」という言葉で束ねられてしまっているような方の気持ちを想像してみよう。

「利用者様」と名付けられてしまった時に、どのような気持ちになっただろう。

人生が閉じていくように感じる時、開かれていくものがあることも感じていけるようにするには、どのような接し方や声掛けが良いだろう。






 


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