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日別:2024/3/19

紙ふうせんだより 2月号 (2024/03/19)

禍を転じて福となす

皆様、いつもありがとうございます。「立春」の前日、季節の分かれ目のこの日は「節分」です。変わり目に現れる邪気や疫鬼を払い、古い年を送りだして新たな年の春の陽気と吉福を内に迎えるこの行事の歴史は古く中国から伝来し、室町時代の記録(※1)には「散熬豆因唱鬼外福内」とあり、今と同様の掛け声をして、魔目(豆)を投げて「魔滅」を祈願していました。

「節分の夜、父が各部屋を回って、部屋の窓から外に向かって『鬼は外!』と豆をまいていた。そこかしこの家から掛け声が聞こえてきた…」、これは利用者さんの思い出です。




※1 相国寺の僧、瑞渓周鳳の文安4年12月22日(1449年1月16日)の日記




鬼は本当に「外」であるべきか

「鬼は外、福は内」の掛け声ですが、地域によっては「鬼も内」と言うところがあります。その由来は様々で、鬼を神や神の使いとして祀(まつ)っていたり、鬼が逃げないようにという配慮であったり、鬼の改心の可能性を考えたり、不動明王と鬼が重ね合わされるなどがあります。

これらは「鬼」の持っている多義性の表れと考えられます。福知山市の大原神社では、鬼(災厄)を神社の内に迎え入れるために「鬼は内」と呼びかけ、受容された鬼はお多福に変身(改心)し、「福は外」と言って恩返しに福を地域に送り出すそうです。

「鬼」という漢字は、元来「死体」を表す象形文字でした。中国では「鬼」は死者の姿形のない「霊魂そのもの」とされてきましたが、日本に伝わると姿形のない「恐るべきもの(※2)」の概念に「鬼」の漢字が当てられるようになったと考えられます。卑弥呼が用いたまじないは「鬼道」でしたし、万葉集や日本書紀では「鬼」を「カミ」と読む場合もありました。

日本では、「鬼」の言葉に様々な意味が重ねられるようになります。その本質は、病のいくつかは鬼によってもたらされる「鬼病」であると考えられたように、「鬼とは安定したこちらの世界を侵犯する異界の存在(※3)」としてイメージされてきました。日本各地で行われる「来訪神(※4)」の行事は、ナマハゲに代表される仮面を被った異形の存在が人々を怖がらせますが、人々のもてなしによって教訓や福を残して去っていきます。




※2 折口信夫

※3 岡部隆志

※4  10件の重要無形民俗文化財の地域行事がユネスコ世界遺産に登録されている。




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「トリックスター」との関わり方

分析心理学(※5)には「トリックスター」という考えがあります。トリックスターは、破壊や反道徳ないたずらをして状況に対して否定的に働きますが、新たな価値や秩序をもたらす創造性を合わせ持っています。このような両義的な「働き」は神話や物語や人間関係や人の心の中に現れるのですが、鬼の持っている秩序を引っかき回す来訪者のイメージは、まさにトリックスターです。

民話「こぶとり爺さん」の鬼は宴を開いていて騒がしく異様で恐ろしくもありますが、陽気なお爺さんが楽しく関わったら、鬼は喜んで長年の“しこり”を取り去ってくれました。一方で自分本位の欲張り爺さんの方は、自分の利得のために利用しようと鬼を軽んじたら、鬼を怒らせて余計に損をしてしまいます。

恐れ敬うべき対象に対して忌み嫌ったり、軽んじてしまっていては禍となりますが、敬い大切に扱えば福となるのです。




※5  C・G・ユングの提唱した心理学。無意識には歴史的文化的な積み重ねにより培われた集合無意識があるとし、心に鋳型のような働きをする「原型」を重視したことから原型心理学とも呼ばれる。




意味や価値は最初からは決まっていない

中国の戦国時代、斉が燕を攻めて(紀元前314年)領地を奪うと、燕の蘇秦は斉王の元に赴いて領地返還を訴えます。そして、「昔から『禍を転じて福と為なす』という言葉があります」と述べて和平を提案しました。大昔の昔から、否定的な物事の価値的転換は、主体的な意識の持ちようで可能であると言われてきました。なぜ転換が可能となるのでしょう。

私たちの日常的な意識は、「ケンカは悪い」というように、あらかじめ物事の善悪を決めてしまっています。しかし、本当は「雨降って地固まる」との言葉のように、違う価値もそこには存在しています。物事の存在に対する意味付けは、人間による社会的な関係の中からの「後付け」なのです。

これを実存主義哲学者のサルトル(※6)は「実存は本質に先立つ」と言いました。「現実存在は、意味付け(本質)より以前から存在している」という意味です。言い換えれば、本当は多義的な意味の「重ね合わせ状態」にある存在から、人は認識の限界の中で「有用、無用」等を言い立てて、一部の意味のみを自己都合で引き出しているのです。

これは量子力学の原理と重なるイメージです。量子力学では、物質の最小単位である量子は、運動や位置や性質などの状態像が未決定の「重ね合わせ状態」で存在しているが、観測によって初めて状態像が確定するとしています。私たちが物事から受け取る価値もまた、自分自身の観測(意味付け)によって、自分にとっての価値が定まってくるのです。




※6  J.P.サルトル(1905-1980)は「人間とは、彼が自ら創りあげるものに他ならない」と主張し、人間は自分の本質を自ら創りあげることが義務づけられているとした。




「価値」を発見するのは誰?

人の認識は経験によって狭められがちです。それに気が付いて、無意味に見えるようなことからも価値を発見できれば人生は充実します。例えば「病気」には利益があるでしょうか。「一病息災」との言葉は、「一つくらい病気を持っていた方が、自分の身体の声に耳を澄ませて節制や養生をするので、かえって健康な人よりも長生きする」と、病気の価値を肯定しています。

では、最悪な人物との出会いはどうでしょう。ある利用者さんが郷里の史跡の「黒塚(※7)」や土地の伝説について話して下さいました。能の演目でもある「安達原」のお話です。

諸国行脚の一行が一夜の宿を求め、老婆は断り切れず応じます。修行中の山伏(※8)に老婆は「人としてこの世に生を受けながら、こんな辛い浮き世の日々を送り、自分を苦しめている。なんと悲しいことでしょう」と身の上を嘆きます。老婆は暖を取るために薪拾いにでかけます。奥の部屋だけは覗いてはならないと言い残して。しかし山伏の連れが覗いてしまいます。部屋には人の死骸の山がありました。秘密を暴かれた怒りや悲しさで老婆は般若の相で追いかけてきます……。

昔、老婆は都で乳母をしていました。姫様の病を治したい一心で「胎児の生き胆が効く」との易者の言葉を信じて旅にでます。時がたち機会が訪れました。老婆は旅の妊婦に宿を与えて手を掛けます。しかし、殺めてしまったのは母を探す自分の娘だったのです。老婆は自分のした事の本当の意味を知って苦しみ、「鬼」になってしまったのです。

しかし、鬼婆になっても心の中には善意や愛情や人間らしい感情が同居しています。山伏の法力で鬼婆が退治される場面では惻隠(そくいん)の情が呼び覚まされます。善悪が心の中に同居する人間の業を思い知って我が事のように心を痛めた山伏は、その後の生き方を改めたことでしょう。

どんな人にも生きてきた意味があります。その意味を感じ取ったときに、そこから自分にとってのどのような価値を導き出すかは、自分自身の課題なのです。




※7 福島県二本松市には鬼婆が住んだとされる岩屋や墓が現存する。しかし埼玉県や岩手県にも同様の伝説が伝わる。

※8 東光坊祐慶(紀州の僧)
伝説は奈良時代(726)だが、同名の僧(-1163)が平安時代に実在する。





 

 


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