スピリチュアルペインと宮沢賢治
「スピリチュアル」とは
英語のスピリチュアル(spiritual)は、本来はラテン語の spiritusに由来し、霊的であること、神の、聖霊の、霊の、魂の、精神の、超自然的な、神聖な、などを意味します。オカルトチックな話ではありません。ここでの話は、人間の存在要素の根底にある全体性をスピリチュアリティとして、スピリチュアルな次元でのアプローチを検討します。人の「尊厳性」に関わる領域の話でもあります。
人間は身体のみによって生きるのではありません。「身体的・物質的」な側面のみで人間を捉えることは誤りです。かといって、「考えや感情」を重視しても、それで全てがわかったとはとても言えません。例えるなら、身体に病気が無い人は「健康か」と言えば、必ずしもそうではありませんし、病気を抱えるから「弱い」とも言えません。激怒していても「優しい」気持ちが失われたわけではありませんし、「どうでも良い」と言ってもどうでも良く無かったりします。「元気だよ」と返事をしても元気でないこともあります。
私たちが個人の人間存在の全体を見ようとした時には、その難しさに困惑してしまいます。私たちは、どうしても物事を部分で見てしまい、それを全てのように錯覚してしまうからです。人間を人間たらしめている精神性やその心の奥底や、感性や感情と身体の結びつきや個人の歴史性・社会性など、さまざまな側面を持つ人間の全体性を捉えようとすることは、とても難しいことです。
しかし、臨床心理学者の河合隼雄は、支援にあたっては、その全体性を見ようとすることの重要性を説きます。河合隼雄は、人間の様々な側面を統合し、その全体性を支えるものを「たましい」という言葉を使って表しています。ここで言う「スピリチュアル」と同義です。確かに人間存在の基層となるようなものは生きとし生けるものにあるのでしょう。そのような物語を昔から人間は考えてきたのですから。
スピリチュアルペイン(ペイン=痛み)とは、スピリチュアルな次元、つまり全体や統合性の次元で生じている「痛み」です。スピリチュアルケアとは、スピリチュアルな次元に働きかけ、またはその働きを利用して、スピリチュアルペインを癒していこうというものです。
宮沢賢治の捉えかた
宮沢賢治は、月について正確な科学的知識を持ち合わせています。それが岩石の塊であることなどを知っています。しかし、そのような断片的な情報の総体が「月である」とする理解を賢治は拒んでいます。
「月」という存在の全体性の中には、月と地球や地球の生物との「関係性」や月と人間の歴史的・情緒的な「関係性」も当然含まれるからです。科学的にも言われていることですが、月が存在しなければ地球の自転速度は恐ろしく速くなり大型生物が誕生することは不可能とのことです。賢治は月を「月天子」と称し、いわば「仏様」のように敬っています。これが、賢治がスピリチュアルな次元で捉えた「月」です。
ものごとを全体性の視点で捉えようとする時、それを観察する「観察者」も全体性の中に含まれます。それは、ある人に邪険にされたとしても部分的な「関係性」であって、全体の中では他の「観察者」も存在するので、その人を邪険だとは決められないことを意味します。全体性を見ることの困難さは、そこに「自分との関係性」も含み、自己都合による視野狭窄があるからです。
ですが、これは救いでもあります。全体性の次元ではそこに「自分との関係性」も含むのですから、自分の態度や言動の変化によって、全体性の中での変化は「自分のアプローチによって部分的に可能」ということもまた言えるのです。
宮沢賢治の人間観・人生観
賢治は、「人とは人の身体のことであると、そう言うならば誤りであるやように」と述べています。人間は身体のみによって生きるのではありません。賢治は、「人は身体と心であると言うならば、これも誤りであるように」と述べています。人は、単なる身体と心の集合体ではありません。さりとて人は心であると言うならば、また誤りであるように」と賢治は「唯心論」も否定します。では、賢治は「人間」をどのように捉えていたのでしょう。
賢治は「しかれば私が月を月天子と称するとも、これは単なる擬人でない」と、本気でそう思っていることを賢治は述べています。賢治は信じているのです、月が仏様であることを。
しかれば、賢治が「人」を何と称しているのか、ここでは賢治は明言を避けています。賢治にとってはそれがどうしようもなく大切なことだったからです。理解されないことも解っています。しかし賢治はその生き方を実践しました。その生き方は、死後に発見された賢治の手帳に明らかでした。「雨ニモマケズ」には自分の目指す態度を、困っている人と共に「涙を流し」「おろおろ歩き」としています。あまつさえ「みんなにデクノボーと呼ばれ」「ほめられもせず」と見下される痛みを甘受します。なぜでしょう。
賢治は、自分を馬鹿にしイジメてくるような「関係性」こそが自分の魂を磨いてくれると信じ、苦しんでいる人と一緒に苦悩する「関係性」こそが困っている人を真に救い得ると信じていたのです。篤く法華経を信仰する賢治の生きた“物語”は、自分が「仏様」と敬うことによって、自分が(差別する・される)痛みを引き受けることによって、自分が苦悩することによって、皆が「仏様」になれるというものでした。
物語ることの大切さ
人は、自分の「物語」を紡ぎながら生きています。ナラティブとは「語る・物語る」ことです。自身の経験や空想したことなどを他者と共有することなどから人生の「物語」は紡がれていきます。新たな関係性やその変化から新たな「意味」が生じ、それを物語ることから「物語」は変容していきます。
【物語例】甲子園を目指していた野球選手がケガで出場を断念せざるを得ず、夢見ていたプロ入りも断たれ自暴自棄になってしまいます。破滅的な生活を送り「自分はだめな奴だ」と自身を呪っています(ドミナントストーリー)。しかし、偶然から子供を助け、その子の「憧れの存在」となってしまいます。「自分は良い奴じゃない」と言い聞かせても「僕にとってはヒーローだよ」と簡単に言われてしまい困惑します。そして、期待を裏切らないようにと、その子の前ではヒーローであろうとしているうちに、新たな自分の可能性(オルタナティブストーリー)に気が付き、挫折に立ち向かっていきます。
介護職の存在は、既に利用者さんの人生物語の一部となっています。私たちの在り方や接し方によっても、利用者さんの「物語」は紡がれ変容していくのです。
参考資料
月天子 宮沢賢治
私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
后そこが大へんつめたいこと
空気のないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので
最后に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
──ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運転が
簡単な公式に従ふことを教へてくれた
しかもおゝ
わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない
ナラティブを重視したがん緩和医療のあり方を探る
スピリチュアルケアとペインの関係
スピリチュアルケアは一見、「こころのケア」と混同されがちであるが、こころのケアはストレスに苦しむ人を対象とした心理的・精神的症状に対するケアである。スピリチュアルケアはスピリチュアリティから派生するスピリチュアルペインのケアと考えられている。前者には薬物療法がある程度奏功するが、後者には効かないという点に大きな違いがある。
前述した日本臨床死生学退会の一般演題「死とスピリチュアリティ」で座長を務めた窪寺敏行氏(正学院大学大学院人間福祉学研究科教授)によれば、「スピリチュアル“ケア”は“キュア”ではない」 と言う。そして、「スピリチュアルペインは人間存在に伴うものであるから、治療(キュア)して取り去るということができない」。
つまり、スピリチュアルケアとは、単なるペインの緩和ではなく、人生の意味を失い、揺れ動く患者に寄り添って一緒に揺れ動きつつ患者を支える「寄り添い型ケア」であるべきで、「患者自らが納得できる人生の意味や目的を探し出し、かつ死後のいのちについての理解を持つことができるようにケアし、援助すること」が目的となる。(Medical ASAHI 2021 March)
考えてみよう
介護職の言動が利用者さんにとって否定的なナラティブとなってしまう場面を想像しよう。
自分(介護職員)の物語の中では、利用者さんはどのような役回りとなっているだろうか。
介護職員が、利用者さんを敬うことは、利用者さんの「物語」にどのように影響するだろう。
自己否定的な「物語」は、何がどのように「物語られる」ことで変わり得るだろう。
|