月別:2024/11
何度でも繰り返そう
皆様、いつもありがとうございます。年々、雲の多い日が増えてきました。温暖化の進行により空気中に含まれる水分量が増えてきたからでしょう。空が霞むのもそのためですが、晴れた空が高くなってきました。秋の深まりと共に、自身も深まっていきましょう。
もっと高く何度でも
「落ちてきたら今度はもっと高くもっともっと高く何度でも打ち上げよう」これは『紙風船(※1)』という黒田三郎の詩です。
「紙風船」
落ちてきたら
今度は
もっと高く
もっともっと高く
何度でも打ち上げよう
美しい
願いごとのように
※1 詩集『もっと高く』1964年刊
誰もが一度は遊んだことのある紙風船。ゆっくりと落ちてくるところを見上げながら「今度は」と自分に言い聞かせ、「もっと高く」と想いを新たにすること。それが「美しい願いごと」だと言うのです。高く打ち上げようとして叩きすぎてしまうと、紙風船は凹んで空気が抜けてしまいます。しかし、丈夫なグラシン紙のおかげで破れてしまうことはめったにありません。凹んでしまったっていい。もう一度、息を吹き込んであげればいい。いつか願いがかなう時まで、何度でも何度でも繰り返せばいい…。
自身と世界を照らし出す心の火
私たちは、日々の生活を繰り返しながら、月々を廻(めぐ)り年を重ねていきます。その永続性に、かつて社会学者の宮台真司は『終わりなき日常を生きろ』と果てしなさに倦(う)む若者を挑発しました。しかし20代も後半になり青春時代が遠のいていった時、「十代はいつか終わる 生きていればすぐ終わる(※2)」という悔恨がやってきます。仕事に打ち込んだ30、40代も過ぎてみれば「光陰矢の如し」です。そして残された時間が気になり始めた頃、この両手が掴みとったものは一体何だったのかを考えるようになります。
私たち介護職員は知っています。人生も要介護の生活も「いつか終わる 生きていればすぐ終わる」ということを。それが自然の成り行きだということを。しかし、「すぐ終わる」からと言って、粗雑にはできません。すぐ終わるからこそ残された時間を少しでも明るいものにしていきたいのです。
古代インドでは、全ては「輪廻(りんね)」すると考えました。車輪のように廻り続けることが全ての基本構造であると捉えたのです。その車輪の一回転は、繰り返したとしても一つとして同じものはありません。そうであれば、繰り返しに倦むことなく願い続けることそれ自体が美しく崇高です。
もし真の「美しさ」というものがあるとするならば、落ちてきても凹んでしまっても何度も繰り返し立ち向かっていく心、その心を明るくする心の中の灯(ともしび)、その小さな燃えている火によって照らし出されていく自身と世界にこそあるのではないでしょうか。
「繰り返す過ちの そのたび人は ただ青い空の 青さを知る」これは覚和歌子が作詞した『いつも何度でも(※3)』の一節です。
※2 フラワーカンパニーズの『深夜高速』の歌詞の一節。作詞作曲、鈴木圭介2004年。歌詞中に「生きててよかった」を22回繰り返す。
※3 映画『千と千尋の神隠し』の主題歌2001年。この後に「果てしなく道は続いて見えるけれど この両手は光を抱ける」という歌詞が続く
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明るい方へ
私たち介護職員は、利用者さんの繰り言や、せっかく積み上げた石積みを「鬼(※4)」に崩されるような体調不良や転倒にあって、その繰り返しに疲れてしまうことがあります。投げ出したくなる自らの心を明るくしていくためにはどうしたら良いでしょう。凹んだ心にはどうやったら息を吹き込めるでしょうか。
「明るい方へ 明るい方へ 一つの葉でも陽の洩(も)るとこへ」これは金子みすゞ(※5)の詩『明るい方へ』です。草や虫や子供たちは、遮るものがあっても光のある方へひたむきに進みます。「翅(はね)は焦(こ)げよと灯(ひ)のあるとこへ」と「夜飛ぶ虫」も目指します。これが、時に小さな利己に囚われて自らを暗い方へと誘導する打算に動く大人とは違うところで、自然の営みであり本性なのです。私たちに備わる本性は、「明るい方」を願い求めているのです。
「明るい方へ」
明るい方へ
明るい方へ。
一つの葉でも
陽の洩るとこへ。
藪かげの草は。
明るい方へ
明るい方へ。
翅は焦げよと
灯のあるとこへ。
夜飛ぶ虫は。
明るい方へ
明るい方へ。
一分もひろく
日の射すとこへ。
都会に住む子等は。
※4 生活の安定を脅かす存在の意もある(お便り2024年2月号参照)
※5 本名 金子テル(1903-1930)
1923年に童謡を投稿して西條八十に激賞され、童謡詩人会(女性会員は与謝野晶子とみすゞのみ)に入会。1926年に嫁ぐが放蕩の夫に淋病をうつされた上に詩作を禁じられる。1930年に別居し離婚、親権争いを病床に苦しみ同年服毒自殺。没後半世紀はほぼ忘却されていたが矢崎節夫の再発見により再評価が進み1984年に『金子みすゞ全集』刊行
誰かのために灯した光
あるご利用者さんは塞ぎ込んだ顔をしてベットにおられ、ぶっきらぼうに「調子が悪い」と拒絶的です。「コーヒーをいれるから起きてきてください」とお願いすると起きて来られるのは、葛藤を抱えて自分自身を持て余していても、変化の糸口を求めているのでしょう。「調子が悪いのは、色々と考えてしまうからですか?」とあえて伺うと、「人間は独りで生まれて独りで死んでいくんだ。全部自分持ちなんだ」と鋭い口調です。
「哲学的ですね。その自分が何者なのか考えているんですね」とお返しすると「そんな話はしたくない」と言いつつもコーヒーを飲みだして会話の姿勢です。「自分をどのように考えていますか?」と伺うと「社会的には死人だから生きている価値が無い」と言われます。
「私たちの関係も社会ですよ」と会話を続け、その方の生活史の中の「人の為に頑張った話」に焦点をあてていくと、「コーヒー旨いな、もう一杯いれてくれないか」と言われます。「私もお話しできて良かったです」と感謝を伝えると「本当はめんどくさい奴と思っているんだろ?」と言われます。「重大な問いを私にぶつけられて、私自身がどう答えるかスリリングで楽しかったです」と率直に伝えます。受け入れ難い自分を受けとめてくれた姿勢は、自分を立て直す支えとなります。その瞬間、「ありがとう」と笑顔になられました。
この会話は、私にとっても心に残る価値あるものになりました。人は、自分の枠組外の課題が生じると矛盾葛藤を抱えます。矛盾葛藤はいわば内的な「他者」であり、どのように関わるかという「社会問題」が生じます。矛盾葛藤は生きている限り何度も繰り返します。行き詰まりには「他者」の存在が必要です。私自身も、利用者さんや先輩や家族、音楽や書物や自然等の「他者」によって自己の枠を拡げてきました。
支えとしての「他者」に必要なことは自分より優れていることではなく、自分の心の側に在るような手触りのある実感です。私たちが誰かの心に寄り添う時、相手も自分の心の側に在ることになります。暗い夜道で誰かの足元を明るく照らし出そうとする時、灯した光によって自分も明るくなるのです。
紙面研修
繰り返しによって形成される自己像
杉浦の自己モデル
自分とは「何者なのか」という問いは、誰の心にもあるものでしょう。その問いに対して各人が持つ「自己像」は十人十色ですが、その自己像がどのように形成されるかを考えることは、自己像の変化を目指す時に手掛かりとなります。近畿大学の杉浦健の「自己モデル」をその論文から紹介します。
循環によって立ち現れる多面的自己のプロセスモデル
「杉浦 (2014) の自己モデルにおいては、自己とは認識された自己であり、さまざまな行動 ( 他者とのコミュニケーションも行動のひとつである) とその結果のフィードバックの記憶が循環的に軌跡の重なりを形作ることによって、その輪郭が自己として認識されると考えられている。
例えば、恋人とうまくやっている自分、勉強ができる (できない) 自分、 クラブに熱中する自分などが、一連の行動とそのフィードバックの記憶によって浮かび上がってくるという ことである。またそのように認識される自己はシステムの特徴をもっており、今ある状態を保つように収束する方向で働いている (循環によって立ち現れる自己、システムとしての自己)。例えば、勉強ができない自分という自己認識は、1回テストでいい点を取ったからといって簡単には変わらないということである。
そのような循環の軌跡の重なりを輪郭として捉えて認識される自己は、唯一のものではなく、さまざまな分野、さまざまな他者との関係において複数認識することができる。私たちは 時と場合に応じてさまざまに異なる自己を認識し、それに基づいて自己呈示を行っている(作動自己、多面的自己)。また、それらの多面的自己同士の関係やバランスによって、私たちのアイデンティティのあり方も左右されている。
そして当然だが私たちは今でも外に働きかけて行動し、他者とコミュニケーションし続けている。それによって自己として認識される循環の軌跡は付け加わったり、ブレたり、時には大きく軌跡を変えたりしている。例えば、ずっと勉強ができない自分だと思っていたのが、いい先生の授業を受けて授業内容が理解できるようになり、テストでも何回か点数を取れるようになって自信がつき、他の教科もできるようになって、勉強ができる自分に変わるような状況である。
循環の軌跡の重なりを輪郭として捉えて認識される自己は一見変わらないものに思えたとしても、実は常に外に開かれ、常に変わり続けてその状態を保っていることになる(プロセスとしての自己、外に開かれたシステムとしての自己)。
さらに私たちは自分の認識した自己に影響を受けて、思考したり行動をしたりしている。私たちの認識した自己はそのまま自分や世界を見る色めがねになっている。より適応的に、より健康的に、より生産的に生きるためには、私たちは自己がどのような性質を持っているのかを知り、自分が自己をどのように認識しているのかを知り、適切な姿勢で自己に向き合い、そして主体としてどのように行動すべきかを考えることが必要になる。」(近畿大学教育論叢 第26巻2号 2014.2)
自己像の変化が必要な時
好循環とは平均台の上にいるようなもので、バランスが崩れそうになった時はバランスのとり直しが必要になってきます。そのバランスの取り方については、些細なことや自分が直接関われない物事いついて、過度に捉われたり悩み過ぎないことも含まれます。特に意識せずとも問題がない時は何もする必要はありませんが、非適応的な自己像や悪循環が意識されているのなら、どうしてなのか検討が必要です。
変わるのを待つ
「杉浦の自己モデルでは、循環の軌跡は行動とその結果のフィードバックの記憶であり、その重なりが輪郭となって自己として認識されると考えている。そうすると循環の軌跡が重なって輪郭が浮かび上がり、それが自己の特徴として認識されるまでには、当然それなりの時間の流れが内在している。今の状態の自己はある程度の時間的プロセスを経て現在ある状態に保たれているものなのである。そうすると自分を変えようと思ったとき、行動や心の持ちようを一度変えたくらいでは自分は変わらないことがわかる(図2)。
図2のように、一回循環の軌跡が変わった(つまり一度、いつもとは異なる行動をした)くらいでは循環の重なりとして立ち現れた輪郭としての自己認識は変わらず、システムとしての自己はそれまでと同じ状態を保とうと働き、もとの状態に戻ってしまうのだ。
自己が変わるためには、たとえば人生の転機のような、循環の軌跡が変わるような行動や思考や出来事があり、変わった循環の軌跡の重なりが新たな輪郭として認識されるまで、行動や思考の変化が続くためのある程度の時間が必要なのである(図2下図)。もしも小さな変化から自分を変えていこうと思ったなら、そんな小さな変化を続けていくことが求められることになる。」(同書)
介護職に必要な気付き
私たち介護職員に必要な気付きは一体何でしょう。
私たちの態度や姿勢が利用者さんの自己像の形成に大きく関わっていることは、杉浦の自己モデルを学べば理解できます。例えば、利用者さんの介助を行う時に、嫌そうな表情や大きなため息をついて行っていたら、利用者さんはそれによって「自分は周囲に対して迷惑をかけているダメ人間」という自己像を形成することは十分にあり得えます。そのような時、「嫌そうにやられて気分が悪い」と言える方のほうが、自他の問題を切り分けることができる健全な精神の持ち主と言えるでしょう。
一方で、業務内容として必要かつ許容される内容を、介護職が嫌な顔をして行うことの問題は、それを利用者が要求するからではなく、自分の無自覚的な表情の表出にあると気が付くべきです。無自覚さは、「働くこと」に対する自身の無意識的な受け止め方もあるでしょうし、「嫌な顔」の相互作用による自身の自己像の矮小化という悪循環も起こるでしょう。
私たちが楽しく働いていくためには、介護職としての「自己像」を利用者さんとの関係によって成長・発展させていく必要があるのです。杉浦は、固着した家族関係などを例に取りながら、自己像の悪循環が見られる時は、それを「外に開く」必要があるとして、以下のように述べています。
「本来、循環によって立ち現れる自己は外に開かれた関係性の存在であり、その関係性の中で常に変化しうる(変化し続けている)存在なのだが、問題を抱えた状態の場合、しばしばその関係性が閉じたり、特定の関係に固着してしまったりして問題が維持されてしまっているのである。」自己像の変化や発展には「他者」の拡がりが必要です。
人間関係が狭まく閉じた環境(施設等)で生活する場合にあっては、その狭さによって些細なことに注目が向いてしまい、それがネガティブな内容ともなれば、そこに居る人(利用者さん等)のメンタルや自己像に影響を与え悪循環してしまいます。そのためには些細なところまで十分に配慮することが必要です。
ある利用者さんは、医師より「転んだら終わりだよ」と言われて怖くなって外出できなくなってしまい、外出をしていないことから、「自分は歩けない」と事実とは異なる自己像が生じてしまっていました。物忘れやできない事や状態悪化への注視は、自尊心を傷付け自己否定になりかねない繊細なものです。些細なことについても暖かい態度や誉め言葉を贈り、好循環となるように心掛けていきましょう。
【memo】「本質主義」とは、男女や民族や個人など属性や個物にその性質を決定するものが内在し、それは本質なので変わらないとする決定論的な考え方。「日本人は勤勉」「女は狡猾」等の見方も本質主義だが、偏見に陥ってしまう面がある。「構成主義」は関係性の中で性質が形成されるので性質は変化し得ると考える。何が本質で何が構成されているかについては決めつけに偏るべきではない。
考えてみよう
どのような声かけや態度が利用者さんの自己像をポジティブやネガティブにするだろう。
その言葉を発しその態度を取ることによって自分自身の自己像はどのようになっていくだろう。
従業員間の声かけや態度は、どのようなものが望ましいだろう。
2024年11月15日 2:58 PM |
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