日別:2025/4/15
ひさかたの光より眺む
皆様、いつも有難うございます! 桜の花が綺麗ですね!
桜の花を見て皆様はどんな印象を持ちますか? 卒業や入学式からくる新たな出発のイメージや、春爛漫のあふれる生命力を感じたり、さまざまな受け止め方があると思います。日本人の好きな桜は、時代や世代によって感じ方が違うのです。
ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ 紀友則(※1)
この和歌は、こんなのどかな日に、桜の花がせわしなく(静(しづ)心なく)散っていくのを見て、すべてのものは変化していくという無常感を読んだものです。
この和歌を、戦時中の軍国教育(※2)を受けた方はまた違う受け止め方をします。たとえばこんな感じに。
「私の心は、さまざまな思いから波風が立ってはいるが、私はこののどかな日に、潔く花と散っていこう」
花と散るとは勇ましく戦死をすることでした。
もし、戦時中の戦争指導者が、日本古来の無常感(※3)、たとえば平家物語の「祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理をあらはす。おごれる人も久(ひさ)しからず、唯(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂(つい)にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ。」
の感性を持っていれば、泥沼の戦争への道にどこかで歯止めがかかったのではないかと考えてしまいます。
桜一つをとっても、感じ方は異なるのですから、なおさら「人間」の「老後」のとらえ方ともなれば、千差万別でしょう。ここに、さまざまな人間らしい「個性」を持ったヘルパーが介護をしていく意味があると思います。
さて、私としましては、音もなく静かに散っていく桜を見て、春の柔らかい光線に桜も自分も包まれている事に気が付いて、自転車に乗りながら、「ああ、桜はあんなに静かなのに、自分はこんなにもせわしないなあ」と思う日々です。
※1 きのとものり「古今和歌集」(905年)の中で最も有名な歌
※2 当時“大和魂”は「パッと咲いてパッと散る」など花に譬えられ御国のために死ぬことを奉公とし、強要された死が多くあった
※3 この世には「常なるもの」は存在しないという世界観。強者の驕りは自分だけを「常なるもの」にしようとする
続きを読む
永遠の視点から現世を見る
ここまでの文章は、実は12年の3月号のお便りです。当時から介護は3Kなどと呼ばれ既に斜陽化しつつありました。育児や介護をすることは、TVなどでは「負担」の文脈で語られ、関わった者が損をしているような空気がありました。
しかし人間存在は「生老病死」そのものですから、人間の一面を安易に切り捨てるような風潮は、やがてもっと生きづらい非人間的な社会の空気になるのではないかと私は恐れていました。介護は「負担」だけではない。介護することにもされることにも喜びや楽しみがあり、介護という事象そのものの中に、人間の価値を再発見させるものがあるはずだ。仕事を通してそれらを学べる介護職の素晴らしさを伝えたい、そのような思いでお便りを書き始めました。
先ほどの文章には、書きたくて書けなかった続きの内容があります。それは、紀友則の和歌のように、私たちの仕事は、「永遠の視点」から人と我が身を省みるものではないか、というものです。
刹那(せつな)の中に感じる永遠
「久方(ひさかた)の」とは、久遠や永遠(※4)を意味するのでしょう。主に天空を観ずる状況に係る枕詞ですが、天を永久に確かなものとみなすような、その永遠性を称える意味があります。対して地べたで生きる人間の儚(はかな)い有限性に、空を見上げながら和歌は詠嘆するのです。
あるご利用者さんが言われていました。「自分は死ぬのは怖くはないんだ。だけど、死んだら何もかも無くなってしまうのだとしたら、今まで生きてきたことや、今辛い中で生きていることに何の意味があるのかと考えてしまう…」
散り急ぐ桜を 惜しむ時、人は一つひとつの桜の花に人間存在を重ねています。そして同時に視点は久方の空に置かれ、散華(さんげ)を俯瞰します。永遠の視点からは、桜の花はどのように映るのでしょう。この問いは、「人間の生涯は永遠の視点からはどのように映るのか」と同型です。このような問いを持つ時、人は一個人の狭い視点からの離脱を目指しています。
現世の目前の利害得失に汲汲としてしまう一個人の視点からは、死は断末であり消滅であり無かもしれません。しかし、永遠の視点に立てた時、死は解放であり昇天であり再生かもしれないのです。散った花はそれで終わりです。同じ花は二度と咲きません。しかし散ることによって若葉に場所を譲ります。葉もやがては紅葉して風に舞います。冬、木は枯れたように見えながら春を待ち、時と共に芽吹き花を咲かせます。その花は以前と同一の花ではありませんが、樹木を通して同じ花とも言えます。その木がやがて枯死したとしても、大地には別の草木が芽吹きます。大地を通して生命は再生します。
私たちの命もまた天を通して一つの大きな命に繋がっているとは言えまいか。散りゆく花の刹那に惜別を感じながら、久方の光は、静かな心をもってその光景を「時よ止まれ(※5)」と思わんばかりに眺めているのです。
※4(例:万葉集)ひさかたの都を置きて草枕旅行く君をいつとか待たむ
※5 ゲーテの戯曲「ファウスト」にある有名なセリフ
惜別の時に感じていたいこと
「今まで生きてきたことや、今辛い中で生きていることに何の意味があるのか」
死後を知り得ぬ私たちは、その答えを持ちません。これは、個人では回答不能な形式の問いなのです。個物の存在の「意味」は、他の存在との関係によって初めて現れてきます。私たちは「他者」という項を導入して、問いの形式を別の式に変換する必要があります。
「今現在や将来に仮定される他者との関わり方によって、今を意味のある時間にする」
答えはあらかじめ決まっているものではなくて、見出すものなのではないでしょうか(※6)。
病状思わしくなく寝たきりとなり訪問開始となったご利用者さん。静かに目を閉じておられ透き通るような肌の空気感に、先の長くないことが観じられます。こちらも静かに挨拶をします。薄目を開かれてアイコンタクト。「お体を綺麗にしましょう。少し見させて下さい。」そうして「向こう側を向いて下さい」と声をかけると、必死になって身体を動かして下さいます。弱いながらも着実な動作に、待ちながらその方の相手を思う気持ちを受け取ります。共同作業をやり終えて退室の挨拶です。その方のこちらを見てのかすれた発声に、耳を近づけます。
「あ・り・が・と・う…」
「大丈夫です。しっかりと聴こえましたよ。こちらこそありがとうございます」
と笑顔でお返しします。ニッコリとした微笑み。かすかに濡れている眼差しが、射貫くように私に幸福感を届けます。
旅立つにはもう少しだけ時間があります。世話し世話される関係は、命が繋がりの中にあることの幸せな実感となるのです。
※6 私たちが「生きる意味」があるかどうかと問うのは間違っている。「人生こそが問いを出し私たちに問いを提起している」とホロコーストを生き延びたユダヤ人精神科医V・E・フランクルは、人生からの問いに自らの態度で答えることの重要性を説く。フランクルは実存分析(ロゴセラピー)という心理療法の創始者。
紙面研修
人生の意味を見出すために
【ロゴセラピーの基本的な考え方】
・人間は様々な状況・条件下であっても、自分の態度決定の自由(意思の自由)を持っている。
・人間は生きる意味を強く求めている(意味への意思)。「生きる意味が無い」ような嘆きは意味を見失っている状態と考えられる。
・それぞれの人生にはその人独自の意味があり(人生の意味)、それを見つける事が大切。
私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、『人生の問い』に答えなければならない、答をださなければならない存在なのです。
『それでも人生にイエスと言う』 V・E・フランクル |
(人生を「意味のあるものにしよう」と決めた時、人は困難を乗り越えていこうとします)
自らが生きることによって示す人生の「意味」
死がそう遠くない先に待っていることを自覚した人は「残りの人生から何を得られるか」「残りの人生に何を期待できるか」と自問します。やり残した仕事を完成させたい。自分が生きた証として何かを残したい。旅行に行って美味しいものを食べたい。そう思ってあれこれ考えを巡らせるかもしれません。しかしそうしているうちに体は衰え歩くこともままならず思考も働きにくくなったとしたら、「残りの人生に何も期待できない」となってしまうのでしょうか。
確かに何かを作りあげる「創造価値」や素晴らしい体験をする「体験価値」の機会は、失われていくものです。しかし体の自由が全くきかないような状況になったとしても、息を引き取る瞬間まで「態度価値」は示すことができるのです。「態度価値」とは、運命から挑戦を受けた自分自身が、運命に対してどんな態度をとることもできるという“意思の自由”によって示される自分自身の尊厳なのです。「より良く生きる」とは、人生に何かを求める態度ではなく、生きることによって自らの「人生の意味」を示す「態度」にあります。
「態度価値」を提唱するフランクルは、人生の意味はその究極において「つくりだされるものではなく、発見されるもの」と述べています。自分の外側に答えを求めてばかりいては、自分の心の内側に生じる「意味」を見落としてしまいます。
人生を豊かにする 3つの「価値」
「創造価値」人が何かを創造することによって、世界に何かを与える価値
「体験価値」人が人との出会いや経験を通じて、世界から何かを受け取る価値
「態度価値」人が現実に対して「とる態度」によって実現される価値 |
『たとえぼくに明日はなくとも――車椅子の上の17才の青春』(立風書房)
筋ジストロフィーと診断されていた石川正一さんは10歳の夏、ついに歩けなくなります。
「お母さん / もう一度立ってみる / ちきしょう / ちきしょう / ぼくはもう駄目なんだ / ぼくなんかどうして生れてきたんだ! / 生れてこなければよかったんだ!」
苦しみを抱えてまでして人はなぜ生きなければならないのか、死んでしまってもいいじゃないか。苦しい時、そう思うことがあります。
しかし無くなって欲しいものは、本当は「苦しみ」の方です。その苦しみに「どうして」と問いかけても答えてはくれません。苦しみを抱えた自分が「どうやって」生きて行くのか。答えを求められているのは自分自身だったのです。問いを反転させるために、仮定として自分の「死」を空想します。それが「死にたい」と言う表現です。それは、「今までの自分の考え方は終わりにして、新しい考え方のできる自分に再生したい」という気持ちの表れなのです。
石川さんは14歳の時に20歳までの命と宣告され変わっていきます。そして自分に問います。
「たとえ短い命でも / 生きる意味があるとすれば / それはなんだろう / 働けぬ体で /一生を過ごす人生にも / 生きる価値があるとすれば / それはなんだろう / もしも人間の生きる価値が / 社会に役立つことで決まるなら / ぼくたちには / 生きる価値も権利もない / しかし どんな人間にも差別なく / 生きる資格があるのなら / それは何によるのだろうか」
「たとえぼくに明日はなくとも / たとえ短かい道のりを歩もうとも / 生命は一つしかないのだ / だから何かをしないではいられない / 一生けんめい心を忙しく働かせて / 心のあかしをすること / それは釜のはげしく燃えさかる火にも似ている / 釜の火は陶器を焼きあげるために精一杯燃えている」
生きる意味について考えている利用者さんは多くいます。そのような方と向き合う時、問われているのは私たち自身かもしれません。
考えてみよう
自分が利用者の前に立った時、示そうとしている「態度」は何だろう。
自分の中には、自ら課した原則や規範はあるだろうか。
自分の尊厳は、自分自身の態度の中にあるとすれば、それは何だろう。 |
2025年4月15日 1:00 PM |
カテゴリー: 【紙ふうせんブログ】, 令和7年, 紙ふうせんだより